壱
御崎と名乗った女性について歩く。宿泊室とは別の、応接間らしき場所へと案内される。促されるままに革張りのソファーに時政さんと並んで腰掛け、向かいに女将さんが座る。女将さんと同じ着物姿(こちらは柄が派手じゃないもの──後々時政さんに尋ねたところ、小紋とかいう格式の低い着物なのだそうだ。まず着物が柄やら布やら色やらでランク分けされていること自体を知らなかった僕としては、イマイチ違いがわからない)の女性がしずしずと茶を僕達の前へと置く。仲居さんだろうか。
仮定・仲居さんが退室して、改めて女将さんと向き合う。
「所長の土御門時政さん──で、間違いないでしょうか」
「はい。私が土御門時政です」
大人達が名刺交換の儀式を済ませる。女将さんの目が僕を見る。
「そちらは?」
「助手のようなものです」
時政さんのなんとも雑な紹介に、とりあえずと肯定を込めて頷いておく。すると、その様子に何か思うものがあったのか、女将さんがほんの少し笑ってくれた気がした。
綺麗な人だ。おばさん・お婆さんと呼ぶには躊躇われるくらい。綺麗で、品があって、若々しい人。ここまでくると、三十代からその先──ある意味年齢不詳の域にある。
俗に云う美魔女な女将さんが、お手本のように姿勢を正して時政さんへと目線の先を戻す。
「この度は、当館までご足労いただきありがとうございます」
「こちらこそ。海がよく見えて気持ちの良い旅ができました。そして、メールでも説明しました通り、本件を弊所が正式にお引き受けするかどうかは今この時に判断させていただきます。──それでは、さっそく本題へと入りましょう。依頼の件ですが、詳しくお聞かせ願えますか」
時政さんいわくの、仕事にするならば必要な書類──他言無用の同意書に双方のサインがされたところで、事のあらましが始まった。
「──二ヶ月程前、四月の半ば辺りからです。妙な人影の話を聞くようになったのは。初めは、我々も厨房の誰かの帰り姿でも見られたのだろうと従業員への注意を強化したり、また見回りの数を増やしたりと出来うる限りの対処を取りましたが、一向に苦情は絶えず。──決定的だったのは、梅雨入りへの備えと掃除の為に二日間当館を閉めた日の事です。当然、お客様は誰一人としていない中、従業員を皆帰し戸締まりをして──その夜、情けなくも忘れ物をした若女将が荷物を取りに戻りましたところ、噂の人影を見たと」
「つまり、犯人は客でも従業員でもない第三者の可能性が高いと?」
「……私がそう思いたいだけかもしれません」
「苦情の他に被害はありますか。例えば危害を加えられた者がいる・物を盗まれた、等々の物理的なものです」
「いえ、それがなにもないのです。何を盗むという訳でもなくて……ですが、なにぶん気味が悪いでしょう? あの後から若女将もどこか不安げにしていますし……。ですのでどうか、貴方がたにお力添えを願いたく」
アナログにメモを取る時政さんの隣で、僕も簡単に頭だけで情報を整理してみる。
始まりは四月中旬で、不審者は第三者の可能性が高くて──しかし目的は窃盗ではない。確かに、気味が悪い話だ。
「何か心当たりはありませんか? こう、誰かから恨みを買っているとか、ライバル的存在がある・いるとか」
「恨み……特には思い当たらないのですが────ああ、でも、ライバルに位置する宿なら御座います。少し先の、山並みへ向かう道すがらに『清海野』という宿が」
清海野──と、女将さんが達筆に時政さんのメモ用紙へと書いて見せる。おや、と思う。最近、この名を何かで目にしたような────あ、ガイドブックだ。大々的に2ページも使って特集を組まれていた美岬館とは違い、次のページにその他の宿や店・観光地と一緒にこの清海野旅館も紹介されていた。なんでも歴史ある老舗の旅館だとか、なんとか。
「清海野、ですね。わかりました。では最後に──何故、うちに依頼を?」
時政さんの問いに女将さんが幼っぽく目を瞬かせる。
ああ、そうか──時政さんの質問の意図に思い至る。
まず、時刻探偵事務所はウェブサイトを持っていない。SNSもしない。知名度も全くと云っていい程ない。宣伝の為の貼り紙をすることもなければ、当然、客の呼び込みだってしない。故に、僕も初めて事務所を訪ねた際には携帯電話の住所検索機能を駆使したわけで──それは、時政さんから時政さんの名刺を預かっていたから出来た事だ。名刺がなければ、ほぼ間違いなく探偵としての時政さんに繋がることは不可能だ。
では、どのようにして初回の人間が時刻探偵事務所を知るのか──一つは事務所そのものを己で見付けること。建物自体には探偵事務所として運営している旨の証明看板が出されているので、それさえ目についたならば急を要する人は自然とやってくる。突発的な浮気調査やら失せ物探しやらの依頼客は大抵がこのパターンだ。
もう一つは、僕のように時政さんの名刺を手に入れる方法。名刺には事務所の住所と時政さんの社用番号・メールアドレスが載っている。これで、一先ず電話だったり検索だったりの手段が取れる。
では、近隣の人間でも時政さんの知り合いでもない、全くの無関係者が零から時刻探偵事務所を知るにはどうするか────昔、客として時刻探偵事務所に関わった事がある人物から口伝てで聞くしかないのだ。今回の新規客はこれに当て嵌まると時政さんは判断したわけだ。
「我が所の存在をどなたからかお聞きになられたのではないですか?」
「え、ええ。はい」
女将さんが怪訝そうにしながらも頷く。
「どなたかお教え願えませんか?」
「…………」
警戒するように、はた、と女将さんは口を噤んだ。宿泊客を短い期間だろうと預かる身だ。個人情報に対する管理と保護の徹底をどれほど彼女が重視しているか、このやり取りだけで十分に判った。とても信頼のおける人だ。
けれども、依頼人に隠し立てされては始まるものも始まらない。数秒の葛藤の後、彼女は堅い口を開いた。
「──不知火篝さんという方です。つい先日、泊まっていかれたお客様の一人でした」
「…………」
時政さんが固まった。────固まった!?
「と、時政さん?」
時政さんの滅多に見ない姿に、思わず僕まで怪訝に隣を窺ってしまう。時政さんは────笑顔でキレていた。
「あんの野郎……面倒だからって俺に押し付けやがったな……」
と──時政さーん!?
「……そいつ、子連れでしたか?」
「え、ええ。可愛らしい娘さんとご一緒でした」
──パキッ。
えっ。
何やら不吉な音がした。と、音の発生源をおそるおそる見てみる。メモの上に添えられていた細いフォルムが無惨にも──パキリ。
────このひと、ボールペンを握力だけで折ってる!!
「はは。そうですか、ハハハ」
髪で見えやしない筈なのに時政さんが額に青筋を浮かせている様が容易に想像できて、どこと知れなく冷気なんだか怒気なんだかが室内を包んだ。
どうしよう、いっそ僕のほうが胃が痛いのはどうしてだろう。
「ご協力、ありがとうございました。どうやら此方の身内も関わっている様子ですので、此度のご相談は正式に我が所が預からせていただくものとします。つきましては、諸々のご確認と同意書への署名と印、それから──確認ですが、事件解決まではこの館を利用して良い旨に相違はありませんね」
「はい。出来る限りの事はさせて頂きます」
テキパキ進む大人達の取り決めをぼうっと聞き流しながら、全く初耳の約束事にそうなのかと呆ける。調査の間の負担は美岬館側が全てしてくれるのか──つまりは、タダってこと? タダでこんな豪華なホテルに僕達、泊まれちゃうの? ……ほほーう。現地調査ってのも、中々悪くないな。
「さて、それじゃあ行こうか」
「はい!」
時政さんに続き席を立つ。ドアノブに触れる前に扉が開く。先ほどお茶を用意してくれた仲居さんが「お部屋までご案内します」と微笑んでいる。早速の至れり尽くせりだ。
ふと、視線を感じて振り返った。
「──本当に、よろしくお願いします」
女将さんが九〇度まで腰を折って美しくお辞儀していた。礼儀以上の心が、誰の目から見てもこもっているとわかる姿だった。
本当に──この人はこの場所が大切なんだ。
「──お任せください! うちの所長、ああ見えて優秀ですから」
満面の笑みで答える。ちょっと先のところから時政さんの僕を呼ぶ声がする。駆け足気味に時政さんの背へと追い付く。
僕にとって、これは初めて時政さんの助手として立つ仕事だ。未熟も未熟者だけど、やっぱり失敗はしたくない。そう思うのだ。そして、今、失敗したくない理由がもう一つ増えた。
深く深くまで頭を下げるほど大切なものを僕達に預けてくれた彼女の為にも────絶対に犯人を証そう。
仲居さんに案内されてやってきた僕達宛の宿泊室は和室だった。靴を脱いで、リュックを隅に置いて、まず一番にガラス戸を開いて空気を取り込む。景色を見渡す。
一面に広がる自然。瑞々しい緑に遥か遠くまで繋がる青。白む山々。点々と浮かぶ鳥影。まるでハガキ写真の切り取りのような光景に思わず感嘆が上がる。
「すごいですよ、時政さん! 鳥! 鳥が飛んでる!」
「なんだ、お前、飛ぶ鳥を見るのは初めてだったか? 今時、珍しい箱入りだな」
「…………」
今日も今日とて意地悪な時政さんにムッと顰めっ面を作って振り返る。仲居さんから受け取った鍵を机に投げて置いた時政さんは、早速、座敷に寝そべり畳を堪能していた。なんてぐうたらっぷりだ。この絶景を前にはしゃがないなんて、最早自然に対する冒涜だ。
「こんな所に来てまで、なに寝ようとしてるんですか! まだお昼ですよ、おやつの時間ですよ」
「俺は疲れてんの。お子様はお外でおやつ探してきなさい。ああ、それともお駄賃を渡そうか?」
しっしと払うように手を振られた。完全に子供をあしらう仕草だった。いやもうこれ、子供どころか纏わり付く犬をあしらうみたいな態度だろ。
「もう時政さんのことなんか知りませんっ。現地調査してきます!」
リュックからメモとペン、ボイスレコーダーを引っ張り出して、わざと足を鳴らせながら扉へと向かう。
時政さんなんか、ずっとゴロゴロして最後には牛になってしまえばいいんだ! その間に僕だって少しは使えるという証拠を見せてやる。業務的にも取ってきてやる。
「おー。夕飯、二十時からだからそれまでには帰ってこいよー。知らない奴についていくんじゃねぇぞー」
「子供じゃないんだから大丈夫ですっ!!」
力任せに扉を閉める。閉める間際に見えた、寝転び腰を掻く時政さんのあんまりにも自堕落な姿に、思いっきりイーッと舌を出した。
……あ、やば。これ、事務所じゃなくて旅館のドアなんだった。
***
男は数秒ほど息を潜めていた。怒りによって尚更わかりやすくなった足音が離れていく。身を起こす。ぐるりと室内を見渡し、最後に少年が喜び倒した自然とやらを見る。
──どうにも、この館は可笑しい。
女将が嘘を吐いている様子も、従業員に不自然な点がある、という訳でもない。ただ────違和感。
建物内に一歩を進めた頃から少しずつ積まれてきた違和感は、部屋をピークに今や時政に無視できない程の警告を伝えていた。
嫌な、感覚だ。
この感覚を時政は知っている。──時政だけが、識っている。
だから──もしも、時政の予想の通りに進んでいるのだとしたら。
「あいつが帰ってくる前に、終わらせる」




