冤罪で断罪された私へ「人の心がないのか」と言い放った王子に、侍女が証拠書類とインク壺をお届けしました
「セシリア・ローレン。君は聖女候補であるミレーユに嫌がらせをした。今ここで罪を認めろ」
王宮の大広間に、王太子殿下の声が響いた。
楽団は演奏を続けていたが、音だけが妙に遠くなった。
近くにいた人々が足を止め、こちらへ顔を向ける。
私は扇を閉じた。
殿下の隣には、白いドレスをまとったミレーユ嬢が立っている。
目元は濡れ、細い肩が小さく震えていた。
殿下が彼女を見る。
それを確かめてから、ミレーユ嬢は一粒だけ涙を落とした。
たいへん行き届いた涙だった。
「罪状を伺ってもよろしいでしょうか」
私は尋ねた。
殿下は鼻で笑った。
「まず、ミレーユ宛ての茶会の招待状を隠した」
「隠しておりません」
「彼女のドレスの裾を裂いた」
「裂いておりません」
「聖堂の階段から突き落とした」
「触れてもおりません」
「どこまで白を切るつもりだ」
「すべて事実ではございませんので」
私が答えるたび、殿下の声は大きくなった。
大きな声は便利である。
中身が足りないときほど、よく響く。
「ミレーユは傷ついている!」
「傷ついていることと、私が傷つけたことは別です」
広間のざわめきが少し止んだ。
殿下の表情が険しくなる。
「君は彼女が嘘をついていると言うのか」
「その可能性が高いと申し上げています」
「ひどい……」
ミレーユ嬢が唇を震わせた。
今度は殿下が見るより少し早かった。
涙は落ちなかった。
彼女は一瞬だけ目を閉じ、殿下がこちらを見たことを確かめてから、改めて涙を流した。
練習の成果が出ている。
「お嬢様」
背後に控えていた侍女のマリアが、そっと近づいてきた。
「何かしら」
「私が転ぶふりをして、殿下に頭突きしてまいります」
「やめなさい」
私は即答した。
「まだ額は動かしておりません」
「心だけ先に動かさないで」
「忠誠心でございます」
「忠誠心は額以外で示して」
マリアは胸元に大きな革表紙の書類入れを抱えていた。
上には銀製の小さなインク壺が載っている。
私は声を落とした。
「書類は全部揃ったの?」
「はい。お嬢様がお休みになられたあとも確認いたしました」
「寝ていなかったのね」
「お嬢様が人前で嘘つきと呼ばれる可能性がございましたので」
顔色一つ変えずに、マリアは答えた。
「私が眠る理由にはなりません」
私は一瞬、言葉を失った。
「……そういうことを、もっと普通の忠誠心として表明できないの?」
「では、殿下を睨んでまいります」
「それもやめなさい」
「難しいものです」
本当に難しそうな顔をしていた。
「何を話している!」
殿下が怒鳴った。
マリアの腕の中にある書類へ、視線を向ける。
「それは何だ」
「事実を確かめるための記録です」
私が答えると、殿下は不快そうに眉を寄せた。
「必要ない」
「必要かどうかは、内容をご覧になってからお決めください」
「僕が必要ないと言っている」
殿下は一歩こちらへ出た。
「君はそのような物まで用意して、この場を混乱させるつもりだったのか」
「混乱しているのは、証拠を確認せずに断罪を始めたからではございませんか」
「ミレーユの証言がある!」
「涙は証拠ではありません」
「女の涙を疑うなど、君には人の心がないのか!」
「女の涙だけで人を裁く方には、法の心がないかと存じます」
今度こそ、広間が静まった。
ミレーユ嬢の涙も止まった。
殿下は顔を赤くした。
「その書類をこちらへ渡せ」
「拝見なさいますか」
「違う。没収する」
殿下が手を伸ばした。
私は眉をひそめた。
「殿下」
「侍女。その書類を寄越せ」
マリアが書類入れを抱え直す。
「恐れながら、こちらはローレン家と王宮事務局、聖堂、布地商会からお預かりした記録でございます」
「王太子である僕の命令だ」
「お嬢様の許可がございません」
「侍女ごときが逆らうのか!」
殿下が強引に書類へ手をかけた。
「マリア、離れなさい」
私は言った。
殿下から離れろ、という意味だった。
マリアも、そのように理解したのだと思う。
「承知いたしました」
彼女は後ろへ下がった。
その足が、床に垂れていたミレーユ嬢の白いドレスの裾を踏んだ。
「きゃっ」
ミレーユ嬢が慌てて裾を引く。
マリアの足元から布が抜けた。
「あ」
短い声がした。
マリアの身体が傾く。
本当に転んだ。
殿下の手から逃れようと後退した結果、完全に、正しく、申し分なく転んだ。
マリアは書類入れを守ろうと、両腕を抱え込んだ。
そのせいで、革表紙の留め具が外れた。
紙が一斉に飛び出した。
茶会の出欠記録。
布地商会の納品控え。
聖堂の階段補修報告。
侍女たちの証言書。
封蝋の押された手紙。
そして、ミレーユ嬢の筆跡で書かれた小さな紙片。
白い紙の群れが、広間いっぱいに舞った。
「何を――」
殿下が顔を上げる。
その瞬間、銀のインク壺が革表紙の上を滑った。
蓋が外れた。
黒いインクが、ゆっくりと宙に広がる。
燭台の光を受け、一瞬だけ綺麗に輝いた。
そして。
べしゃり。
殿下の顔面へ届いた。
額から鼻筋へ、黒い筋が流れる。
続けて、インクを吸った一枚の紙が、ぺたりと額に貼りついた。
大広間が沈黙した。
殿下の額には、大きく文字が見えている。
――未確認。
実に分かりやすかった。
もう一枚の紙が、殿下の頬へ貼りついた。
――ミレーユ嬢、当日欠席。
王太子殿下は、一瞬にして大変よく整理されたお姿になった。
顔だけで、調査不足と事実関係が分かる。
王宮事務局にも、これほど簡潔な報告書は作れまい。
「お嬢様」
床に片膝をついたマリアが、深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
「怪我は?」
「ございません」
「そう」
私は息を吐いた。
「なら、よかったわ」
マリアが一度だけ目を瞬いた。
私が書類より先に彼女の怪我を尋ねるとは思っていなかったらしい。
「それと」
「はい」
「頭突きではございません、は言わなくていいわ」
「先に封じられました」
「言うつもりだったのね」
「事実でございますので」
「そうね。頭突きではないわね」
インク壺ではある。
「これは何だ!」
殿下が額の紙を剥がした。
紙の下から、さらに黒いインクが垂れた。
「証拠でございます」
私は足元の一枚を拾う。
「茶会の日、ミレーユ嬢は招待状を受け取ったうえで、侍女を通じて欠席の返事を出されています。こちらが出欠記録です」
近くの老公爵が、床に落ちた紙を拾った。
「王宮の受領印がありますな」
私は次の紙を取った。
「裂かれたとされるドレスの裾は、納品時から縫製に不備がありました。こちらが布地商会の控えです」
侯爵夫人が拾い上げ、目を細めた。
「納品時に補修を勧めた、とありますわね」
「聖堂の階段については、当日朝から一部が補修中でした。立入禁止の札も置かれていました」
神官長の印が押された報告書を示す。
「ミレーユ嬢は札を避けて階段へ上がり、ご自身で足を挫かれています」
「そんなもの、偽造だ!」
殿下が叫ぶ。
「封蝋も印章も、事件当日のものです」
「君はそこまでしてミレーユを貶めたいのか!」
「調べたのは私ではございません」
私はマリアを見た。
床の書類を拾っていたマリアが顔を上げる。
「マリアが調べました」
殿下が侍女を睨んだ。
「お前が?」
「はい」
「なぜ侍女がそこまでする」
マリアは当然のように答えた。
「お嬢様が、なさっていないとおっしゃいましたので」
広間の空気が止まった。
「それだけか」
「私には十分でございます」
マリアは床から一枚の紙を拾った。
「もっとも、殿下には足りなかったようですので、記録も揃えました」
私は扇で口元を隠した。
笑ったのではない。
たぶん。
「これは何ですの?」
侯爵夫人が、小さな紙片を拾い上げた。
ミレーユ嬢の顔色が変わる。
「それは!」
侯爵夫人は紙を読み上げた。
「『泣くのは殿下がこちらを見てから』」
沈黙。
「違います!」
ミレーユ嬢が叫んだ。
「それは、練習の覚え書きで」
「何の練習でしょう」
「その……演技の」
侯爵夫人が微笑んだ。
「たいへん実践的な演技ですこと」
扇が一斉に開いた。
笑いを隠すためである。
殿下がミレーユ嬢を見た。
「ミレーユ」
「殿下が、セシリア様は反論しても誰も信じないとおっしゃったから!」
彼女の声が広間に響いた。
今度は本当に涙が出ていた。
ただし、殿下は見ていなかった。
「何を言っている!」
「殿下が、婚約を解消するには悪評が必要だと!」
「黙れ!」
殿下が手を上げた。
低い声が、広間の入口から飛んだ。
「その手を下ろせ」
国王陛下だった。
先ほどまで続いていた楽団の演奏が、そこでようやく完全に止まった。
陛下は広間へ入ってくると、床に散らばる証拠書類を見た。
次に、顔中を黒くした殿下を見る。
額に残った「未確認」の文字を見て、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
「王太子」
「父上、これはセシリアが」
「その口で、まだ他人のせいにするか」
殿下は黙った。
「書類を拾え」
「父上?」
「自分で拾え。一枚ずつだ」
陛下の声は低かった。
「拾いながら、何の記録か読み上げよ。そなたが確認しなかったものを、この場にいる全員へ聞かせるのだ」
殿下の顔が歪む。
「しかし」
「今夜、そなたは公衆の面前で一人の令嬢を裁こうとした。同じだけ公衆の面前で、己の不備を確認せよ」
殿下は膝をついた。
黒いインクを顔から垂らしながら、最初の紙を拾う。
「茶会……出欠記録。ミレーユ嬢、欠席の返答あり」
広間に声が響く。
次の紙を拾う。
「布地商会納品控え。裾の裂けを、納品時に確認」
もう一枚。
「聖堂階段補修報告。当日、立入禁止」
殿下の声は、紙を拾うたびに小さくなった。
国王陛下は止めなかった。
私も止めなかった。
これは殿下が始めた公開の断罪である。
最後まで公開で行うのが、公平というものだろう。
「ローレン嬢」
陛下が私に向き直る。
「正式な謝罪と調査結果は、後日改めて届けさせる。今夜の一件により、そなたの名誉が損なわれぬよう王家から布告を出す」
「恐れ入ります」
「王太子との婚約については」
「解消を希望いたします」
私は即答した。
床に膝をついた殿下が顔を上げる。
「セシリア!」
「まだ正式に破棄していなかった、とおっしゃるのでしたら」
私は微笑んだ。
「今度は私から、正式にお願いいたします」
広間のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。
陛下は頷いた。
「認めよう」
それだけだった。
余計な慰留も、王家の都合を持ち出すこともなかった。
私は少しだけ、陛下を見直した。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
マリアは残った書類を集め、革表紙の中へ戻した。
インク壺を拾い上げる。
蓋は、広間の端まで転がっていた。
大広間を出る直前、マリアがそっと囁いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「ご心配をおかけいたしました」
「本当よ」
「書類を落としました」
「そちらではなく、あなたが転んだことを言っているの」
マリアが黙った。
珍しいことだった。
「あなたが怪我をしたら、証拠が揃っていても困るわ」
「……承知いたしました」
今度の声は、少しだけ本当に承知しているように聞こえた。
私は念のため付け加えた。
「それと、次からはインク壺を持ち歩かないで」
「次回は蓋を固く閉めます」
「次回を想定しないで」
「万一に備えます」
「備えないで」
「承知いたしました」
やはり承知していなかった。
私は小さく息を吐いた。
王宮夜会で断罪され、侍女が頭突きを提案し、王太子殿下が証拠書類を没収しようとした結果、その証拠とインク壺が殿下の顔へ届いた。
人生には、予想できないことが多すぎる。
けれど、一つだけはっきりしている。
あれは事故である。
少なくとも、頭突きではなかった。
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侍女マリア視点と、その後の二人を加えた連載版を始めました。
『私の侍女が顔面ケーキをお届けします。』
本作のダイジェスト、マリア視点、後日譚を掲載しています。
ページタイトル上のシリーズ「恋愛小説のはずでした」からどうぞ。




