あなたを縛るもの
「雪絵」
声が聞こえる。
優しくて、悲しい。もう二度と聞くことのできない、思い出の底に沈んでしまった音。
思い出の中の体温が、雪絵の頭を撫でる。かさついた手の平が雪絵の髪を梳いて、案外小さな手のひらの形が伝わる。
その人の顔は見えなかった。暗闇の中にぼんやりと輪郭だけが浮かんでいて、まるで亡霊のようだった。
その亡霊が言うのだ。
「雪絵。君のその力は、人を救うために使いなさい」
※
「雪絵さん」
風に吹かれたカーテンが揺れる。膝の上に開かれた本のページがペラペラと捲れた。
顔を上げると、レミリアが無言で雪絵を見つめていた。
「ここ、座ってもいいかしら」
「……ええ」
読みかけていた本を閉じる。実際のところ、文字だけ上滑りして内容はまるで頭に入ってこなかったのだ。
レミリアは、対面のソファーに腰掛ける。皇女殿下がいるのだ、お茶のひとつでも出すべきなのだろう。だがレミリアの表情を見る限り、そんな雰囲気ではない。
彼女の言いたいことはおおよそ予想がついていた。そして、それに自分が反論できないことも。
沈黙が二人の間に流れる。窓から射し込む夕日が酷く眩しい。茜色に染まる夕焼けを見ると、心の裏側を逆撫でされているような気分になる。
「シルヴィアには、もう会ったの?」
長い沈黙を破り、レミリアが訪ねてきた。
「……いいえ。まだ」
雪絵が端的に答えると、レミリアは露骨に顔を歪めた。
「庇ってくれたのに、感謝のひとつも言わないわけ?」
やはり、雪絵は何も言えない。
腕の中に倒れ込んだ屈強な体を、頭部から流れる生温い血の感触を、今日も夢に見たばかりだった。
屍喰らい討伐の折。
雪絵の判断ミスにより、シルヴィアは奴の攻撃をもろに食らった。
幸いと言うべきか、彼の実力と言うべきか。咄嗟に展開した防護障壁により軌道が逸れたお陰で、頭に軽い傷を受けただけで済んだ。しかし傷を受けたのは頭だ。衝撃による脳震盪でシルヴィアは意識を失い、しばらくは目を覚まさなかった。
最終的に、屍喰らいは雪絵が仕留めた。
シルヴィアが雪絵を庇った直後、一瞬の隙に最大火力の圧縮術式を叩き込んだ。奴の体は木っ端微塵に吹き飛び、残骸はカルディスの研究施設に運び込まれている。
その後ナガレ村にて1晩過ごし、翌日には帰路についた。
村を発つ時、雪絵を睨みつける男がいた。
『お前がしくじったせいで、全部なくなった!人も死んだ!この能無しが、とっととくたばれ!!』
そう言って男は石を投げてきた。他の住民曰く、男は花霞から流れてきた難民で、今回の件で土地まで無くしたという。
雪絵は黙って頭を下げた。投げられた石よりも、この男の苦しみの方がずっと深い。雪絵には、それしかできることがなかったのだ。
脳裏には、ずっとシルヴィアの寝顔が焼き付いて離れないまま。心は攪拌機にかけられたように千々に乱れ、雪絵を苦しめる。
こんな重苦しい感情など捨ててしまいたい。そう思うのに、それを許さない自分もいる。相対する思いの塊がぶつかり合って、痛みだけが生まれるのだ。この苦しみから逃れる方法があるなら、雪絵はきっとまっさきに飛びついてしまう。
「……ごめんなさい」
「何に謝ってるの?」
静かに問われ、雪絵は息を呑む。
自分は何に謝っているのだろう。シルヴィアか、あの村の男か。それともレミリア?違う。
雪絵は、未だに亡霊に謝り続けている。
「この際だから正直に言うわ」
レミリアの真っ直ぐな眼差しが雪絵を射抜く。
「私、あなたに憧れてたの」
シルヴィアと同じ紺碧の瞳。心臓を鷲掴みにされたように息苦しくなって、雪絵は目を逸らす。
「戦場を駆ける紅の鬼神――鬼よりも恐れられる鬼なんて、そうそういないじゃない?……同じ女でも、あなたのように恐れられるくらい、強い人間になりたかった」
レミリアという人間が、一瞬だけ綻びを見せた気がした。
西日が彼女の横顔を照らす。凛々しくもありながら、苦難を抱え突き進む女。雪絵が思っていたよりも、強さの中にほんの少しの弱さを抱えている。それが、レミリアをレミリアたらしめているのだろう。
夕焼けの茜と彼女の青色が混じり、鮮やかな情景を魅せる。
「でも、実物を見て幻滅したわ」
ほんの一瞬、雪絵の息が止まった。
「想像していたよりもずっと臆病で、意気地無しなんだもの。ほんと、表紙抜けしちゃうくらい」
はぁ、と憂いを含んだため息をつく。レミリアは静かに腕を組み、尋問官のように雪絵を睥睨する。
「あなた、何がしたいわけ?」
雪絵はその答えを持ち合わせていなかった。
自分から能動的な欲求を持ったことはない。強いて言うのであれば、その場で「自分がやるべき事」をいつだって遂行してきた。そう答えても、レミリアはきっと納得しない。
さんざん答えに迷った挙句、雪絵はようやく口を開いた。
「……花霞の、ために」
「それは知ってる。で、他には?」
心臓の音がうるさい。
手汗が滲む。目の前の景色が上手く消化できない。机、ソファー、読みかけの本。レミリアの視線。色々なものに目をやって、どうしよないほど恐ろしくなり、目を閉じた。
花霞の他に?
そんなもの考えたことはない。雪絵にとっての花霞は、普通の人にとっての両親のようなものだ。自分の人生の導き手であり、老いれば守るべき対象になる。それが花霞であり、雪絵にとっての絶対的な指針。
――だったはずだ。
少なくとも、断頭台にかけられるまではそうだった。雪絵は花霞の巫として勤め、民を守り、鬼を斬った。それが正しいと信じて疑わなかったし、それ故に殺されるのであれば本望だった。……今も、花霞に殺されるならそれでいいと、雪絵は思う。
首元に触れる。あの人が雪絵のために刻んでくれた、雪絵だけの術式。どんな時も雪絵を支えてくれる、大切な大切なお守り。
このお守りは言うのだ。
花霞を守れ。民と、弱き者のために力を使え、と。
レミリアは呆れたような視線をよこす。またその話か、と辟易しているようだ。
「花霞はあなたを殺そうとした。あなたは、命を賭して守った祖国に裏切られたの」
「……分かってる」
雪絵の処刑はお上連中が勝手に決めたことだ。が、そこに民意は含まれていないわけではない。
少なくとも、あの処刑場にいた人々は雪絵の死を望んでいた。それが何を意味するかは、自身でも理解はしているつもりだ。
「でも私は……見返りを求めて戦ってたわけじゃない」
「じゃあ何?私は無償で奉仕する善人です〜ってアピールしたかったの?」
レミリアが分かりやすく苛立ちを顕にした。言葉の端々に棘が見えるようだった。
「違う。私は、私の行動が花霞のためになればそれで良かった」
「……その結果、首を斬られることになっても?」
「もちろんよ」
その瞬間、ダンッ!という衝撃音が部屋中にこだました。木製の机がウエハースよろしく真っ二つに割れ、憐れな残骸が二人の間に転がる。
机だったものの欠片が視界の端に映る。ほぼ同時に、胸ぐらを掴まれた。
「ふざけんなッ!!!」
鬼の形相で、レミリアは雪絵を睨みつける。怒りのあまり、雪絵の胸ぐらを掴む手が震えている。
「シルヴィアが!どんな思いでお前を助けたと思ってやがる!!」
目を逸らしたくても、この状況ではどうにもできない。雪絵は粛々と答えた。
「知らない」
レミリアは呆気にとられたように目を丸くした。奥歯をギリッと噛む音が聞こえる。
「知ろうともしてないくせに!」
顔面を殴らたような衝撃が走った。レミリアから投げつけられた言葉が、全身を回る。それが血液に取り込まれ、じわじわと雪絵の心に染み込む。
「……それは、」
否定できない。
半ば投げ飛ばすように腕を離され、雪絵は床に倒れ込んだ。
知らない。たった一言、その言葉が脳内を巡る。
雪絵は知らない。花霞以外の国を。そこに生きている人々を。文化や食生活、些細な行事も。
シルヴィアの好物も、趣味も、人生観も。好きな本や譲れない信念も。どうして雪絵の副隊長になったのか、なぜ花霞に来たのか。彼がどんな時に泣いて、笑って。どんな風に世界を見ているのか。
あの紺碧の瞳の奥を、雪絵は知らない。
「……そうか」
ストン、心臓の奥に言葉が落ちる。レミリアの言う通り、雪絵は無知だ。無知以前に、知るという行為すら否定していた。
アルカイダにきてから、否が応でも新しいものを知った。知らなかったものが増えて行く度、雪絵は奇妙な圧迫感を覚えていた。それはきっと、新たなものを覚えていく恐怖。広い世界を知れば知るほど、己の決意に迷いが生じてしまうから。
雪絵は自分に失望した。アルカイダに来てから、雪絵にずっとまとわりついていたものの正体。それがあまりに幼稚で、滑稽で。愚かしくてたまらなかったから。
「お前の理想とかいうちっせぇもんに籠ってりゃ、そら幸せだろうな。煩わしいもん全部無視して、思考も放棄できる」
レミリアは静かに雪絵を見下ろしていた。もうその目には、さっきまでの激情は宿っていない。
あまりにも静かな、軽蔑の眼差しが向けられるだけ。
「自分の殻に閉じこもって死に急ぐ馬鹿でも……大切に思っちまう大馬鹿野郎がいんだ。それを忘れんな」
それだけ言い残し、レミリアは去っていった。
カツカツ、パタン。扉が閉められ、部屋の中にぽつんと取り残された。
赤い夕焼けの色が頬を焼く。お天道様すら雪絵を責めているような景色を、雪絵はしかと両目で見つめる。
まるで、立ち込めていた霧が晴れたような気分だった。いつもより視界がはっきりとしている。なのに、今にも叫び出したい衝動に駆られる。この相反する気持ちは、一体なんだろう。また、雪絵の知らなかったものが増えていく。
「……ありがとう、レミリア」
呟き、雪絵は立ち上がる。迷いを断ち切って、一歩一歩、確実に歩く。
行くべき場所は、とうに決まっているのだ。




