91,少女は監視する
リティアの部屋で過ごすようになってから、あの黒い獣が飯を食べている姿を見ない。ただ、食堂から貰ってきたお茶と茶菓子を摘んでいると、机の下にしゃんと座っていて、リティアがソーサーにお茶を注いで床に置くと美味しそうに舌で掬っていることはある。腹を空かせている素振りも見せず、よくリティアのベッドで転がっているものだから、リティアの髪の毛を食べているんじゃないかとか、リティアの身体に傷でも作られてそこから血を飲んでいるんじゃないかとか、心配になって着替えのときに目視するが、それらしき傷は見当たらない。彼女の雪のように白い肌が羨ましく思えるだけだ。
「リティ、そのケルベロスって魔獣は飯を食べていないんだが大丈夫なのか?」
寝る時間になるまで、リティアと共に授業の予習をしていたセイリンは悶々としていた疑問を口にする。
「ケルベロスさんは、いつも精霊を食べているそうです。味は感じないようですよ。」
「それは本に書いてある知識なのか?それとも意思の疎通が取れるのか?」
悩む素振りもなく即答するリティアに、セイリンが眉をひそめると、
「ワンワン!」
「うわぁ!飛びつくな!顔を舐めるな!」
ケルベロスは、セイリンの胸に勢いよく飛びついて、その顔を3方向からひたすらベロベロと舐める。
「は、ハルさんに聞きました…」
その光景から気まずそうに視線を逸らすリティアに、できるだけケルベロスに触りたくないセイリンがぶんぶんと手を振って助けを求めると、ケルベロスの腹を両手で掴んで自らの膝に乗せた。
「すまん、顔を洗ってくる…」
「はい、いってらっしゃい。」
リティアに微笑まれながら、唾液でベトベトになった顔を隠すように俯きながら部屋を出た。
結局、ケルベロスの妨害でそれほど予習も進まず、欠伸を連発させるケルベロスが、リティアのネグリジェの裾を左の顔についている口で引っ張ってベッドへと誘うと、リティアもニコニコしながら連れて行かれる。同居人が眠る中、魔石ランプをつけておくと眩しいだろうな…と思い、セイリンも予習を諦めて休むことにして布団に入る。仰向けのリティアの胸の上で体を長く伸ばすケルベロスは3つの顔が置きやすい位置をそれぞれ探しているようだ。そんな中、リティアが上から掛け布団を優しくかけると、まず真ん中の顔が目を閉じ、あと2つも釣られるように寝息を立てる。
「リティ、おやすみ。」
「おやすみなさい、また明日。」
眠ったケルベロスが起きないように小声で話して、リティアも瞼を閉じる。セイリンは眠るリティアを見て、棺桶に入っても絵になるかもな…ふと不穏な考えが頭を過ぎり、慌てて壁側を向いてギュッと目を閉じた。風が窓に当たる音が一定のリズムを作り、よい子守唄になる。幼い頃、勝手に探検していた領地の森で迷子になってしまい、私が無理やり連れて行ったディオンに手を引かれて、小さな洞穴の中で一夜を過ごした記憶を思い出す。2人で木々の間からこぼれ落ちる星空を眺め、朝になるまで自分より少し身体の大きかったディオンにくっついて眠った。幸い、凶暴な魔獣も闊歩していなかった為、朝には町に降りることができて、血相を変えた父親が2人同時に抱き上げてくれた。ディオンの頬を涙が伝った事を今でも鮮明に憶えている。パッと風景が切り替わると、夕暮れ時に民家より大きな猿のような魔獣が両手に逃げ惑う村の人間を掴んでは、1人ずつ口に放り込み、グチャっと音を立てながら地に足をつけている人間にその血を飛ばして、キィィィ!と大声で笑って踊っている。私の腕に縋り付いた自分よりも小さな少年を守ろうと、まだ練習を始めたばかりのレイピアを当たらない場所で振り回す。他の魔獣退治に来ている騎士団に応援要請を出しに行った村人がいつまで経っても帰ってこない中、武器を持てる人間は自分だけ。ディオンもそちらの騎士団と共に行動している為、私はこの村に1人残されていた。私は少年に家の中に隠れているように指示を出して、あの猿に立ち向かう。猿は私を見て嘲笑うかのように尻尾で吹き飛ばした。ふかふかな畑の上に転がり落ちれば、ペッと老人の頭をツバと共に顔へと飛ばして、民家の屋根を殴っていく。私は慌てて顔を袖で拭ってから、レイピアを掴んで後ろから猿の足に突き刺すと、猿は私を見下ろしながら先程の少年の頭を左手、足を右手で掴み、ブチブチと音を立て…
「ガルルル…」
犬らしき威嚇の声で、ハッと目が覚める。着ていたパジャマが汗で濡れているらしくて気持ち悪い。服を着替えようと思って布団を捲りあげると、額から大粒の汗を流してうなされるリティアの上に、
人間を頭から飲み込めるほど大きなケルベロスがいた。
セイリンは、息を殺してベッド下からレイピアを抜き取る。やはり、あの魔獣は…セイリンは静かに睨みつける。こちらに気がついていないのか、耳を動かす素振りもない。ベッドから降りて身体を屈ませてゆっくりと距離を縮める。
「ウウウウウ!」
耳を劈くような唸り声を上げながら、窓に視線を向けている。
アアアアア!!
えっ…?外から聞こえる歪な歌声を耳にしたセイリンが、焦点をケルベロスから窓へと切り替えると、魂喰いセイレーンが窓に張り付いていた。そうか、リティアはあいつにマーキングされているんだった。ケルベロスについている6つの目が全てセイレーンに注がれているところを見ると、ケルベロスはリティアを守ろうとしているということだ。
『高い知能を持つ古代魔獣や、私達の知らないところで様々な生命を守る魔獣もいるのですよ』
ラドの言葉を思い出せば、今の状況は一層色彩を強める。人間を喰らおうとする魔獣もいれば、反対に守ろうとする魔獣もいる…なんて私は浅はかなのだろうと猛省しつつ、レイピアを剣先を魂喰いセイレーンに向けて、窓を叩き割ったら斬りつけられるように、いつでも飛び上がれる体勢になった。セイレーンが花弁を押し付けて窓ガラスを割ろうと試みる中、威嚇するケルベロスが風の如く窓へと飛びかかった。窓は割れることなく、ケルベロスは外に張り付いていたセイレーンの花から喰いかかる。バキバキと音を立てて壁から剥がれていく音がして、セイリンが机の上に乗って窓を開けて下を見ると、蔦1つ残さずにケルベロスの口の中に入っていった。地面を向いていたケルベロスがぐるんと勢いよく上を見上げると、まるで馬のような速度で壁を走ってくる。セイリンが慌てて顔を引っ込めれば、たった今自分の顔があった位置にセイレーンの花弁がぶら下がっていて、血の気が引いた。その花弁を疾走するケルベロスが大口開けて食い千切ると、更に駆け上がってバキバキと蔦を外していく。暫くすると音が止み、セイリンが恐る恐る窓から上を見上げると、小さくなったケルベロスが落ちてきて、セイリンの横顔に乗る。セイリンも落とさないよう気を付けつつ顔を部屋の中に戻せば、ケルベロスが軽やかに机に降りてバシンっと窓ガラスを閉めた。セイリンもその鍵を閉めて…ケルベロスを抱き締めた。
「ああ、ありがとう。ありがとう、助けてくれて!」
「くぅーん」
3つの顔が、震えが止まらなくなったセイリンが零す涙をペロペロ舐めて拭う。
「君達は恩人だ。リティのことも、私のことも、助けてくれたことを感謝する。」
リティアの寝息が落ち着いたことを確認して、ケルベロスの額に順番に優しくキスを落とすと、ケルベロスからも鼻同士をくっつけてくれた。机から降りるときに、ケルベロスも床にそっと降ろすと、同じベッドに先に乗ってセイリンが布団に入るまで座って待っていてくれた。




