86,教師は喧嘩する
夕暮れ時、ヒメとのピクニックから帰宅したラドが調合室の扉を開ければ、不機嫌そのもののハルドが椅子に座って珈琲を淹れている。
「おかえり、ラド。何でリティを外に連れて行ったの?奢るように言ったのに…」
鋭い視線で刺してくるハルドを横目に見ながら、椅子ではなく机に座り、淹れたての珈琲を一気飲みするラドはハルドを見下ろしながら、
「今日はおてんば姫の食事兼散歩だったんだ。目撃情報の欄外に記載されていたように、リティア様所望のゲテモノ料理を食べてきた。」
「だろうな、俺が書いたからね。それでどさくさに紛れてリティにキスをしたと。」
室内で暴風が吹き、窓ガラスがガタガタと音を立て始めた。
「そのようないかがわしい事はしていないっ!」
「年頃の娘と出目金魚を口渡し。これが違うと?」
飲み干したカップを乱暴に置いたラドは、ハルドの頭を左手で掴んで割れそうなくらい力を入れると、ギロリとハルドが睨んでくる。
「それは、ヒメが嫉妬して出目金魚を盗むからであって」
「俺だけでは飽き足らず、リルの可愛い妹に口づけするんだから、どんなキス魔だよ。」
ハルドの左手が、頭を押さえつけているラドの左手首を血流が止まるほど強く握る。ラドは痛みから逃げるように力尽くでその左手を振り回し、ハルドの手から開放された時には赤く手の跡が残っていた。
「お前の場合、食べられる口がないって言うから!」
「口はあったよ!顔は削れて肉が出ていたけれど。人が顔を隠しているのに、その仮面を無理やり外して出目金魚を口移しするのはお前くらいだ!」
ハルドが立ち上がると同時に、ラドも机から降りて殴りにかかるが、怒ったハルドの瞬発力の前では簡単に躱される。重心を戻しながら蹴りをお見舞いしても、バッと後ろへ跳ぶハルドには届かない。
「飯食わせてもらって何だそれ!」
「俺は一言も魔獣を食べたいなんて言ってない!リティに金輪際口移しなんてするなよ!」
1週間近く何も食べなくてふらふらしてた輩が何言うかと思ったが、口に出るより先に拳が動く。ハルドがくるんと軽々と重心を移動させながらラドの拳を避けて、回避からの回し蹴りを繰り出す。
「時と場合による!」
ラドは、リティアが重症になった場合に薬を飲ませられないということだと考えながら、ハルドの蹴りを自分の右足を向かわせて弾く。
「てめえ!旧校舎に行けないようにしてやろうか!」
ハルドの口調が悪くなっていく。流石は、魔法の使える戦闘部族の末裔は血の気が多いなと感心しつつ、弾かれた足を地につけて反回転して更に回し蹴りをかましてくるハルドを、次は左拳で応戦する。
「顔面、潰してやる。」
一度顔面を失っているハルドに言ってはいけないと頭の中では分かっていたのに、勢いでラドの口から飛び出した。もう出たものは戻せない為、このまま肉弾戦に持ち込み、腹部を殴りに行くと、その拳をハルドの素早い手刀が叩き落とす。元々、一族特有で喧嘩っ早いハルドだ。化けの皮が剥がれば、獰猛な獣になる。魔法士団に入った頃、他人と上手く意思の疎通を取れなかったラドは、他の団員に喧嘩を吹っかけられる事も多く、先輩に当たる仮面のハルドがそれを全て引き受けてくれた。そのハルドから習った喧嘩方法が、本気で噛みに来ているハルドに効くわけがなかった。手刀を振り下ろし、素早く体勢を低くしたハルドから下方から腹部へと拳を何度も入れられて、ラドは足で踏み止まることが出来なくなり、床へと力なく転がる。その上に馬乗りになったハルドが顔めがけて拳を落とす。
「失礼します。ハルド先生いますか?」
ピタッ。生徒の声にハルドの拳が寸のところで止まり、生徒の顔を見てラドの血の気が引いた。
「な、何しているのですか!」
セイリンが形相を変えてハルドの肩を掴み、転がっているラドと強引に引き離した。本当はその細い腕の力で引き離されることはないのだが、ハルドはニコニコしながら従う。
「セイリン君、こんばんはー。今は喧嘩中だよ。終わってからで良いかな…?」
「にこやかに言わないでください。良いわけないでしょう!」
セイリンに怒られたハルドは、ハイハイと軽く流しつつ、ラドの上から退いた。
「ラド先生、お怪我は!?」
「このくらい大丈夫ですよ。ご迷惑おかけしました。」
セイリンに差し伸べられた手を握り、ゆっくりと立ち上がって微笑んでみせると、セイリンは肩をすくめた。
「本当は痛いのでしょう?無理はなさらないで下さい。」
ラドとしては結構平然としているはずなのだが、セイリンは洞察力が備わっているのかと感心した。セイリンは、くるっとハルドを振り返り、
「ハルド先生にお客様です。正門に杖をつかれた金髪のご老人とその取巻きらしき人達がいらしてます。」
「…あ、ありがとう。何用だろうな~?」
頭をポリポリと掻きながらハルドが教室を出ていくと、セイリンが再びラドに向き直る。
「ラド先生、一体何が?」
「昔からの仲なのです。お気になさらず。」
ラドがアハハと笑って流そうとすると、セイリンは鋭い眼差しを向けてくる。逃がす気はないようだ。
「剣士であろうラド先生を倒せるハルド先生は一体何者ですか?」
「…剣は使いませんが、何故そう思われたのですか?」
ラドはわざとらしく首を傾げてみせて、徐々にハルドの正体から自分への興味へとすり替えるように試みる。
「以前、握手した時に特有のタコがありましたので、そう考えました。」
「セイリン君はよく観察していますね。感心いたします。」
きっぱり言い切るセイリンは、自分の観察力によほどの自信があるのだなと、ラドはまじまじとその顔を見てしまう。
「ありがとうございます。それで」
「しかし、惜しいです。私の相棒は、ずっと槍ですから。剣とは握り方が異なりますので、今一度確かめますか?」
話題を戻そうとするセイリンの言葉を遮って手を伸ばせば、セイリンの瞳が明らかに揺れた。セイリンが躊躇しながら握手をすると、そのまま固まった。ラドは目を細めながら、
「どうです?違うでしょう。」
「は、はい。申し訳ございません…」
ラドの方から手を引けば、セイリンは膝に後頭部が触れそうなほど頭を下げる。
「謝ることではございませんよ、これで相手の素性の判断材料が増えるならば、盗賊討伐も捗りますよ。」
「い、いえ。私の志望は魔獣討伐班ですので…。対人は難しくて。」
先程までの自信はどこへ行ったのか、もごもごと話すセイリンは今にも泣きそうな顔をしている。
「そうでしたか、これは失礼しました。余談とはなりますが、私は馬乗戦を主とします。今日は休みの日なので、私のおてんば姫が来てますが会いませんか?」
殴られた痛みもある程度和らいだラドは、興味を逸らすと同時に、ラドが居ないところで魔獣のヒメを倒そうとする可能性のあるセイリンにヒメの顔を覚えさせる為に外へと誘う。萎れた花のようなセイリンは、小さく頷いて素直についてきた。この学校に勤務して2年目となれば、他の教師達も黒馬はラドの愛馬であると周知していて、中庭で転がっていようが、職員室を覗いていようが、誰も気にしない。実習棟から一番近い出入口、職員用の玄関から表に出て、ラドが指笛を吹くと人を轢く勢いでヒメが駆けてきて、目の前でピタッと止まる。
「ヒメ、良い子だ。」
顔を向けてきたヒメの頭を撫でてやると、瞼を閉じて気持ちよさそうにする。その姿を間近で凝視するセイリンは、ラドに寄り添うように近づき、ヒメの口に手を突っ込むと、ヒメの目がカッと見開き、セイリンの手は長い舌を掴んでいた。ラドがすぐさま、
「ヒメは、マテンポニーですが、そんな可哀想なことをしないでほしいのです。」
セイリンの手首を握って顔を横に振ると、怪訝そうな表情をしながらも渋々手を離すと、
「魔獣と分かった上で飼っているのですか!?魔獣ですよ!私達は捕食されてしまいます!」
ラドの胸ぐらを掴んで睨みつけた。




