62,少女は痣をつくる
上空をあの花が飛んでいる。蔓のない状態で生きているとかは聞いたことがないため、花に魔石が入っているということなんだろうか。リティアはひたすら走り続け、体育館から離れて馬車を止めるスペースとして確保されている広大な土に差し掛かる。ここの土は、かなりの数の馬車に踏みならされていて植物が芽を出すには不向きなくらいに硬い。リティアは上の敵の動向を見つつ、距離を取る。応戦するならば手元の小さなオピネルナイフと、魔法植物の粉末の入った小瓶となる。マインドコントロールしていない相手を食べる趣味があるかは知らないが、いつまでも逃げているわけにもいかなかった。左手でウエストポーチに入れてある小瓶を取り出し、蓋を外せば、魔女茸の粉末が飛び散り、パチパチと火の粉を舞わす。それを近づいてきた燃えていない花に投げつければ、小瓶を満たしていた紫色の粉が白い花に触れると、瞬く間に肉厚の花弁が火傷した肉のように爛れるが、それでもお構いなしに迫ってきた。まずは大口を開けて落下してくる燃えきらない花の口腔を、オピネルナイフを素早く自分の上部で振り回して斬りつける。左側からは爛れた花が口を開けて、右側からは朝焼けを浴びる白い花が飛びかかってくる。この花の口腔をこんな間近で見ることはないだろうとは思うが、ギザギザの歯を生やして長い舌を蛇のようにくねらせ、臭い涎を垂らしている。この痛覚がなさそうな花は、どこを斬りつければ効率的かを考える暇もないまま、リティアは反射的に後方へ跳び、落下物を避けるはずが、着地地点で踵に突起物が当たり、バランスを崩して仰向けに転がり、オピネルナイフをこの衝撃で手放してしまう。ボタボタと、顔の上に涎が落ちてきて、リティアは目を大きく開いたままガタガタと震えた。
「飛べ、火炎玉。」
静かな低い声がリティアの耳に届く頃には、火の玉によって汚らしい花が燃え上がり、灰と化したが、頭だけで動いていた花から、魔石が落ちてくることはなかった。ラドはグレーの長袖シャツの右袖を折りながら、右手でスティックを構える。彼が軽くスティックを回せば、セイリンが戦っている蔓の群れにも火の玉が飛んでいった。目の前が安全になったことを確認したリティアは、腹筋を使って上体を持ち上げてから立ち上がり、落としたオピネルナイフを拾い上げた。
「リティア様、お怪我はありませんか?」
ラドが、スティックを使うふりして魔法で火炎玉を操作しながら、リティアの耳元まで屈んで小声で話しかけてきた。
「はい、大丈夫です。どうしました??」
助けてもらったことに純粋にお礼を言うために笑顔を向けると、ラドの表情が一瞬険しくなった。
「リティア様の額に痣が浮かび上がっております。」
その一言で、リティアの血の気が引いていく。セイリンに夜中の歌が聞こえなかったのは、最初から私が獲物としてマーキングされていたからだということになり、あの時に既に目をつけられていたということだ。
「わ、わかりました。とりあえず今はセイリンちゃんを助けてほしいのです!」
「承知しております。出来るだけ離れないようにお願い致します。」
先程の事実を知って自分の顔色が悪くなっているかもしれなかったが、リティアは懸命にラドに頭を下げると、ラドはスティックがぶつからないようにしながら、リティアの肩に手を置いた。
「行きましょう。」
ラドの声で、2人はセイリンと燃え上がる蔓へと走った。走っているラドから更に発せられる火炎玉の数々は、蔓が伸びている数カ所の地面へと衝突し、地面から火を吹き出させる。セイリンへと向かってくる蔓は更に火を浴びていない地面から飛び出し、セイリンとの攻防を繰り広げながら、ラドによって隅々まで燃やされた。
「本体を見つけないと、これが続きますよね…」
リティアはキョロキョロと見渡して、違和感を探す。この学校は精霊の数が多く、精霊が集まるところだけを目印にするには難しかった。体育館の壁に擬態していた魔獣だったし、他のところで擬態していてもおかしくはない。
「いえ、それには及ばないかと…ハルドが来ます。」
ラドの声と同時に、飛龍牙が風の如く飛び上がり、体育館の屋根を掠める。リティアを喰らおうとした花よりも遥かに大きい花が1つ、首が落ちるように綺麗に斬り落とされて落下してきて、ラドが適当なスティック回しに合わせて炎の魔法を繰り出せば、その頭を燃やし、更に蔓延っていた蔓をも炭にした。パラパラと黒い雪がリティア達の頭上に降ってきて、それが地面に落ち終わるときには地面から吹き上げていた炎は鎮火していた。見るからに魔法士団のではない傭兵が好みそうな戦闘服のハルドが、閉まっている校門を飛び越えて飛ぶようにリティアに駆け寄る。今思えばラドは、どう入ってきたのかが不思議に思うけれど、彼らなら壁も軽々越えてしまうだろう。いつもならば、相手が来るまで立ち止まっているリティアだが、今はハルドの方へ自ら小走りで近づく。
「リティ!」
「ごめんなさい!こんな時間にセイレーンを見つけてしまって、セイリンちゃんに頼んで一緒に戦ってもらったんです。まさか花だけで飛んでくるなんて思いもしなくて、ラド先生とハルさんが来なかったらと思うと、ゾッとしています。」
リティアは、ハルドに何度も頭を下げて謝る。血と土の匂いが入り混じったハルドの大きな手が、下げている頭を優しく撫でる。
「…無事で良かったよ。」
震えた声で吐き出された言葉に、リティアが頭を上げれば、ハルドの瞳から1滴の雫が零れ落ち、リティアも安堵して目を潤ませた。
「助けてくださってありがとうございます…。」
「何度だって君を守ろう。それが幼かったあの頃の君への恩返しとなり、騎士としての誓いだからね。」
「え…?」
ポンポンと頭を軽く撫でるハルドの瞳は真剣そのものだった。慌てて記憶を辿っても何のことか分からなかったリティアが首を傾げると、ハルドは近くにいるリティアにすら聞き取り辛いほどに小声で伝えてくる。
「君があの頃に向き合う覚悟が出来たときに、またこの話はしようね。」
「ラド先生、ハルド先生!助太刀をありがとうございました!!」
レイピアを腰に戻したセイリンが声を張り上げると、誰もがセイリンに注目する。彼女はボロボロと地面に涙を落とし、悔しそうに歯を食いしばり、
「自分が未熟者であるが故に、リティがあんな輩に喰われてしまうところでした!」
勢いよく頭を下げた。セイリンが頭を下げるやいなや、踵を返して急いで駆け寄るリティアが、誰よりも早くセイリンの肩に触れて、
「セイリンちゃん、ありがとうございました!貴女のおかげで、私はこうやって生きております。」
リティアが柔らかく微笑むと、目を伏せたセイリンは顔を大きく横へ振り、
「違う!私が!私が弱いせいで、また大切なものを失うところだったんだ!あの頃のように!!」
泣き崩れるセイリンを、リティアはそれに合わせて地べたに膝をつけ、激しく嗚咽しているセイリンを優しく抱きしめる。ラドとハルドも傍に駆け寄り、セイリンと視線を合わせられるように立て膝になって、彼女を見守る。
「こんな私のことは!いい、から!リティを医務室へお願いします!」
そう声を上げると、リティアの肩を押して自らと無理やり引き剥がし、
「守れなくてすまない。」
そう言葉を漏らすセイリンの目には、すでにリティアを映し出してはいなかった。
54,少女は贈る におきまして物語上必要な描写が抜けていましたので、書き足しました。
※ハルドは、リティアからブレスレットを受け取るまで、別のブレスレットを着用していました。こちらの着用描写は、6,少年は張り切る のハルド登場シーンに記載があります。