波乱の幕開け6
ツカツカツカとアスターは足早に回廊を進んでいた。その表情は悪鬼のごとく歪み、触れれば切れるといった感じだ。
『俺は一体何をしているんだ!』
アスターもまた混乱していた。あのとき、シルヴィアの瞳に映っていた自分の顔に愕然とした。幸せそうに微笑んでいたのだ。あれでは、まるで恋に落ちた馬鹿な男の顔だ。
『違う! そんなはずはない。恋だと! 俺に愛だの、恋だのという感情などない!』
アスターは立ち止まると大きな声で叫んだ。
「俺は鬼神アスターだ! 俺は人ではない。俺には人を慈しむ心などない! ましてや恋などっ!」
そしてドカッと近くにある扉を叩いた。すると、その扉がキィッと開いた。
「どうされましたか?」
そこには一人の修道女が立っていた。
アスターは片手で顔を覆いながら軽く息を吐くと一言。
「いや。なんでもない」
「ご気分が優れないご様子ですが…」
なおも聞く修道女にアスターは片手で顔を覆いながらギッとにらみつけた。
「何でもないと言っているだろう。下がれ。目障りだ」
しかし、修道女はアスターの視線もなんのその。アスターの顔に手を伸ばすと、顔を覆っていた手を外させた。よく見ると、その修道女はかなりの高齢だった。しわにまみれた顔とその手で彼女はアスターの手を握り優しくなでた。
「やめろっ!」
アスターは、その手を振り払う。
「やめろ」
うつむくアスターに彼女は優しく語りかけた。
「何をそんなに怯えているのです」
「俺が怯えているだと」
絶対零度の視線で老修道女をにらみつける。
だが、老女は変わらぬ微笑でアスターに接する。
「怯えているのでなければ、恐れているのですね」
「何?」
老女はアスターに背を向ける。
「ええ。今のあなたはまるで深い森の中をさ迷っている子犬のよう」
「この俺が子犬のようだと」
アスターの額に青筋が立つ。老女は無言で先ほどアスターが叩いた扉の中へと入っていった。無視されたアスターは老女に続き、部屋に入る。
「貴様! この俺がどこの誰だか分かっているのか!」
その言葉に反応してなのか、ピタッと立ち止まった老女。彼女の背後には小さな祭壇がある。ここはどうやら小さな礼拝堂のようだ。
「ええ。存じ上げております。アスター様」
今にも噛み付きそうなアスターをあやすように振り返った老女が微笑む。
「アスター様。わたくしは俗世を捨てた身。あなたが、シェファーズを滅ぼした鬼神アスターその人であっても、わたくしには関係ありません。わたくしの目の前にいるのは一人の悩める子羊でしかありませぬ」
「なんだと!」
誰もが恐れるアスターを子犬・子羊呼ばわりする人間など今までなかった。アスターの手が自然と腰に下がっている剣の柄にのびる。
「恐ろしいのですか? 他人に心を許すことが」
老女の言葉に反応し、アスターの手が漆黒の剣の柄を握り締める。
「恐ろしいのですか? 人を愛することが」
「黙れ」
「怯えているのですか? 人を愛し、自らの心を譲り渡したとき、ご自分がどう変わってしまうのか」
「黙れ!」
疾風のごとく剣を抜く。切っ先を突きつけられても老女は動じなかった。それどころか、老女は一歩前に踏み出した。アスターの目が見開かれる。