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07

これがショッピングデートですか

 我々人間の住むこの世界の他に、もう一つ世界が存在する。それは『天界』。そこには、人智を超越した存在である『天使』たちが暮らしている。

 天使とは、傍観者。この星の成り立ち、生命の歩み、人類の発展。その全てを、天使たちは干渉することなく、ただ眺めてきた。故に、天使は全てを知っていた。

 しかし、天使には無いものが一つだけあった。それは『感情』だった。

 人間の営みは感情で溢れている。喜び、悲しみ、怒り。様々な感情によって、人間の表情はころころと変わる。感情というものが存在することは天使も知っているが、感情を持たない天使たちはそれ自体を感じたことはなく、興味も抱かなかった。

 だが、ある天使は違った。地上を眺め、人間たちを見下ろすうち、その天使は感情というものに興味を持ったのだ。

 感情の正体を知るため、天使は翼を隠して地上へ降り立った。あくまで人間として振る舞い、人間と交流することで感情というものを知ろうとした。だが、自分が人間として地上に干渉したことを、他の天使に見つかってしまう。

 天使は裁判にかけられた。天使とは傍観者。世界に干渉してはいけない。課せられた掟を、天使は破ったのだ。

 天使は罰として永遠に翼を失った。天使は既に天使ではなく、一人の人間として地上へ堕ちた。


 それは、ある夏の日のこと。一人の青年が緑の生い茂る山の中へ分け入っていた。地方から少し離れたこの山に、山菜を取りに来ていたのだ。

 辺りを満たすのは蝉の声。普段は特段気にかけないが、この纏わり着く湿気の中では、聞いているだけで暑さが増すようだった。

 滝のような汗を流しながら、青年は気付けば山の奥深くまで来てしまっていた。山菜取りに夢中になり、下ばかりを見ていたのが災いしたらしい。昼間にも関わらず辺りはほの暗く、蝉の声も少し遠くに聞こえる。不安に思いながら首を回せば、ある一箇所から光が漏れていた。特に考えを巡らせることなく、とにかく明るい場所へ出たかった青年は、光へ向かって木々の合間を進む。

 青年は腕を伸ばす。その指先が光に触れたとき、視界は雲を掃ったように開けた。

 そこには、一人の少女が倒れていた。白いワンピースを纏い、腰まで届く髪は光を放つような黄金色で、肌は雪のように白く透き通るようだった。僅かに胸が上下している。眠っているのだろう。小さく寝息を立てるその顔は、まるで人形のように端正で美しかった。

 その少女は、天界から堕ちた天使だった。だが、それを青年が知る由は無かった。唯一つ、確かなことがある。

 青年はこのとき、一目で恋に落ちていた。

 眠っている少女を讃えるように一筋の木漏れ日が射している。青年は彼女の元へ駆け寄り、華奢な体をやさしく起こす。


「君、大丈夫かい? しっかりして」


 問いかけると、少女はうっすらと目を開く。青年を見上げるが、焦点は定まっていない。


「わ……たし……」


 桜色の唇を弱々しく開くが、ついに言葉を紡ぐことはなく、彼女は再び眠りに就いた。

 このまま放っておくこともできず、青年は少女を背負い、山を降りることにした。



 一日が経ち、少女は青年の自宅で目を覚ました。それに気付いた青年は、少女に詳しく話を聞くことにした。少女は青年に聞かれるままに全てを話したが、その内容は到底信じられるものではなかった。天界や天使の存在を、人間は一切知らないのだから。


「天使だったって、本当かい? 急に言われても、信じられないよ」


「でしたら、これならどうですか」


 少女は淡々とした無機質な声で言うと、恥ずかしげもなくワンピースを脱いだ。露になった背中を見ると、肩甲骨の辺りに濃い痣があった。それは、翼をもがれた跡だった。

 無表情な顔と声。人形のように華奢な体と整った顔。背中の不自然な痣。そして、あの山奥に一人で倒れていたという事実。

 少女の語った言葉は常識を超えていた。しかし、それを嘘だと断定することは出来なかった。彼女の纏う独特の空気がそうさせなかったのだ。

 ただ、少女の話が本当だとして、これからどうするのだろう。


「君はこれからどうするんだい? もし行くあてがないのなら、ここに住むといい。慣れないことも多いかもしれないけど、ここでの生活も悪くないと思う。僕は、君の力になりたいんだ」


 その言葉を聞いて、少女は初めて青年を振り向いた。大きく開かれた瞳は、宝石を散らしたように輝いていた。


「力に、なってくれるんですか」


「もちろん。困ってる女の子を一人にはできないから」


「じゃあ」


 天使は薄い唇から、抑揚のない言葉を紡ぐ。


「わたしに、『感情』を教えてください。そのために、ここまで来たんです」


 ***


 カンカン照りの猛暑が続く中、この日は珍しく太陽に雲がかかっていた。湿気の多さは相変わらず。それでも、日射しが和らいだだけで随分体感が違うように思える。以前はこのような些細な違いに気付くことすらできなかったが、最近は外に出る機会が増えたからか、変化を肌で感じられるようになった。

 吹き寄せる風が首元を掠め、熱を奪っていく。心地いい感覚に、思わず目を瞑る。


「本日もありがとうございます。お付き合いいただけて、本当に助かります」


 優しい声を聞き、薄目を開く。視線を右へ流せば、そよ風になびく亜麻色の髪。水瀬さんの横顔だ。彼女の髪は光を散らしたように美しく、ほのかに花の香りが漂ってくる。

 今は二人で『ショッピングセンター』という場所へ向かっている最中だ。話があったのはつい今朝のこと。原稿を前にして舟を漕いでいるところに電話のベルが鳴り、受話器を取ってみれば、相手は水瀬さんだった。


『義孝さん、今はお暇ですか? もしよろしければ、なんですけど、少しお買い物にお付き合いくださいませんか?』


 そのお願いを、僕は二つ返事で引き受けた。

 そして今、僕はこうして彼女と並んで人通りの少ない住宅路を歩いている。歩き始めて何分経っただろう。僕も水瀬さんも、お互い汗を垂らしている。水瀬さんは特に大変だろう。手伝ってあげたいけれど、それはできない。待ち合わせ場所に着いたときに提案したけれど、今日もやんわり断られてしまった。


「ところで、お誘いしたわたしが言うのも可笑しなものですが、本当に良かったんですか? お仕事がもらえそうというお話でしたよね? お忙しかったのでは?」


 彼女の声に心配の色が滲んでいる。僕のことを気に掛けてくれているのか。彼女の優しさが、胸の底を温めた。

 忙しいわけではないが、焦りを覚えていないこともない。速水さんとは一週間毎に打ち合わせをすることになっている。それまでに自信を持って渡せる原稿を書かなければいけない。

 しかし、だからといって水瀬さんに心配を掛けたくないし、彼女のお願いも無下にはできない。眉をひそめてこちらを振り向く彼女に、僕は精一杯の笑顔を向けた。


「いえ、いいんですよ。僕も丁度買い足したいものがあったので。それに、原稿も少し行き詰っていたところでしたので、良い気分転換になります」


「それはよかったです。義孝さんのお邪魔をしていたらどうしようかと思っていました。義孝さんには、普段からわがままを聞いていただいてばかりですから」


「そんなこと気にしないでください。いつでも気軽に誘ってくださると、僕も嬉しいですよ」


「そ、そうですか? 義孝さんは優しいですね。じゃあ、これからもお言葉に甘えちゃおっかな」


 彼女の表情から不安の色は消え、普段通りの眩しい笑顔が咲いた。そうだ、貴女にはその笑顔以外は似合わない。

 かれこれ三十分は歩いただろうか。目的地は遠く、建物の陰すら見えない。真夏に買出しとはなかなか大変だ。

 国道から外れた生活道路は都会といえど閑散としていて、時々車の駆動音が聞こえるのみ。会話が途切れれば、寂寥感が身にしみるようだった。


「そういえば、今日は何を買う積もりなんですか?」


 彼女の顔を覗きこみつつ、質問を投げかける。水瀬さんは人差し指を口許に当て、少し考えこむ。


「そうですね。食材はそろそろ買い足さなきゃだし、夏用の服も少し見たいかな。それと洗剤とか日用品も。あとは……」


 次から次へと買い物リストに加えられていく。頭で想像すると目が回りそうだった。


「た、たくさん買われるんですね。持って帰れるか心配です」


「ですね。でも、まとめて買ったほうが結局楽なんですよ。そう頻繁にはお買い物にいけませんから。それに、今日は義孝さんもいるので、きっと大丈夫かなって思ってます」


 そんなことを言われてしまえば、期待に応えないわけにはいかない。僕は腐っても男なのだから。車椅子は押せずとも、荷物持ちならいくらでもしようじゃないか。


「はい! 任せてください! 男義孝、どんなに重い荷物でも運んでみせます!」


「ありがとうございます。頼もしい限りですね」


 小さい鈴が鳴るような、可愛らしい笑い声。それを聞けただけで、今日来た甲斐があったというものだ。


 ***


「おぉ、これは壮観ですね」


 やがて僕らの前に姿を現したのは、白く巨大な建造物。直方体をいくつか積み上げたようなシルエットをしており、その規模は想像をはるかに超えていた。団地が建てられるほどの敷地が広がり、駐車場には絶え間なく車が出入りしている。

 実家では精々、コンビニに毛が生えた程度の規模の店しか開いていなかったのに。これが都会と田舎の差なのか。知らない世界がこんなにも広いことを、ほんのり悔しく思う。


「義孝さんったら口開きっぱなし。面白い反応をするんですね」


 その言葉に気付かされ、慌てて平静を取り戻そうとする。


「す、すみません。こんなに大きな建物がお店とは想像つかなくて」


「義孝さんも上京して三年目なんですよね? これくらい見慣れてるんじゃないんですか? ちょっと足を伸ばせば、見上げるほどのビルがたくさん建っていますし」


 水瀬さんは不思議そうな顔をして上目遣いにこちらを見上げている。一瞬、言葉が詰まる。


「そ、その……昼間はずっと家に引きこもって机に向かっておりましたので」


「そうでしたか。作家さんは大変そうですもんね。でも、これで一つ良い経験になったんじゃないですか? 折角ですので、今日も記念日にしちゃいましょう。ショッピングセンター記念日です」


「そんな大層なものでしょうか」


 以前も確か、レストラン記念日なるものを制定した覚えがある。水瀬さんは記念日とか、そういったものが好きなのかもしれない。

 水瀬さんは風に流れる横髪を手で押さえながら楽しそうに微笑んでいる。その仕草に、思わず見蕩れいる自分がいた。

 駐車場脇の道を進む間、水瀬さんはここについていろいろ教えてくれる。


「これはですね、一つのお店じゃないんです」


「一つじゃない? たくさんのお店が寄り集まっているってことですか?」


「その通りです。食料品店はもちろん、衣料品店、本屋さん、薬屋さん、電気屋さん、雑貨屋さん、文房具屋さん、映画館なんかも入ってるんです」


「え、映画館まで。全く想像できないです」


 これ一つで生活の全てが揃うのではないか。田舎では考えられないことだ。


「都会って、便利ですね」


「もぉ、今更何を言ってるんですか。義孝さんったら可笑しい」


 無意識に口を衝いて出た言葉に、彼女がくすくすと笑った。

 そして、人が行き交う中入店すれば、やはり中身も相当なものだった。白いタイルの敷き詰められた床は滑らかに磨き上げられており、見上げれば吹き抜けの先に豪華な照明が吊り下げられている。辺りを見回せば、そこかしこに目を惹くものが並んでいた。


「さっきからずっとキョロキョロしてますね。そんなに気になるものがありますか?」


「はい、見たことの無いものばかりで、興味を惹かれます。この道具とか、あの機械とか」


「やっぱり義孝さんのリアクションは面白いですね。じゃあ、折角なのでウィンドウショッピングしましょう」


「うぃ、うぃん……なんですか?」


「ウィンドウショッピングです。いわゆる、見てるだけってやつです。結構楽しいですよ」


 都会にはそんな横文字があったのか。冷やかしをそんなにおしゃれに表現できるとは、水瀬さんとからは学ぶことは多い。

 一人感心していると、彼女はこちらを振り返ってある方角を指差した。


「じゃあ、順番に行きましょう。まずは本屋さんです」


 その言葉に従い、足を進めていく。

 平日の昼前ということもあってか、さすがに本屋はがらりとしていた。本棚の合間を覗きながら歩けば、時々主婦らしき女性や腰の曲がった爺さんなんかを見かけた。もっと人で溢れかえっているものだと思っていたが、とんだ肩透かしだった。

 しんとした店内。だが、近所の本屋と違い、紙の懐かしいような匂いは漂ってこなかった。広い店内を見渡しながら、心の隅に寂しさを感じる。


「水瀬さんはどんな本を読まれるんですか?」


 気持ちを紛らわすように、声を落として訊ねる。水瀬さんは手近な文庫本を手に取りながら楽しげな声を響かせる。


「わたしですか? いろいろ読みますよ。恋愛物やミステリー、コメディ、ファンタジー。昔の純文学に手を出したときもありましたし、伝記なんかも面白いと思います」


「そうなんですか。結構な読書家なんですね」


「そうですね。結構読みますよ。わたし、あまり趣味とか無いんです。昔はいろいろ手を出してましたけど、ここ数年は読書と、ずっと続けてる日記くらいなものです」


 弾んだ声はいつしか尻すぼみになり、手元の本を力なく書棚に戻した。

 どうしたのだろう。彼女の顔を覗き込むようにすると、急に彼女はこちらを振り返った。


「わたしのことより、義孝さんはどうなんですか? どんなジャンルを読まれるんですか?」


「ぼ、僕ですか?」


 その言葉で思い出されるのは、自宅の隅に積まれた本の塔。背表紙を目で追えば、関連性のないものが乱雑に積み上げられている。


「僕も、特にジャンルは気にしないですね。僕の場合、本は楽しむためというより、自分の執筆の参考なんかにしてるんですよ」


「お仕事のための研究、なんだか気になります」


 彼女は興味深そうに息をついた。それが嬉しくて、口が勝手に言葉を続ける。


「人気の本とか流行のものなんかはすぐに買って読むんです。それで今はどんなのが売れるのかを研究するんですよ」


「へぇ、義孝さんは勤勉なんですね。ってことは、この前仰っていたお仕事のお話は、その研究が実を結んだってことですね! すごいじゃないですか!」


「そんな大したことじゃないですよ。僕レベルの物書きなんて、数え出したらきりがありませんから」


 口ではそう言いつつも、持ち上げられて悪い気はしない。むしろ嬉しかった。そう言えば、こうして僕を認めてくれたのも、水瀬さんが初めてだったな。懐かしい。あの日のことが、遠い昔の出来事のように感じる。


「もう、義孝さんはもっと自信を持ったほうがいいですよ。義孝さんの本がここに並ぶ日も遠くないんですから」


「止めてください。まだ正式にお仕事をもらったわけじゃないので」


「そんなこと言わないでくださいよ。わたし、義孝さんの本が出たら真っ先に買います。わたしが、義孝先生のファン一号になりますね! って言うかもうなってます!」


 人が聞いたら恥ずかしい台詞を、彼女は面と向かって言ってのけた。

 会話の中の何気ない冗談だろう。初めは受け流そうと思っていたが、そんな考えは次の瞬間には消え去っていた。振り向く彼女の視線は真っ直ぐ僕に注がれている。純粋な期待に満ちた目だった。


「わたし、楽しみです。だって、友達が本を出すんですもの。もしそうなったら、みんなに自慢しちゃうなぁ。『わたしの友達は凄いんだ、本を出したんだよ』って」


 そんな、僕なんて全然……。

 言いかけた言葉を飲み込む。言えない、そんな目で見られたら。今の自分を否定すれば、それは水瀬さんの言葉を否定することになる。それが、何となく嫌だ。

 だから、今だけは少しだけ勇気を出すよ。


「……それじゃ、そうなるためにも、僕はもっと気合入れて頑張らないといけないですね」


「そうですよ。わたしの自慢になれるように頑張ってくださいね」


 水瀬さんはそんな調子のいいことを言う人だったろうか。いや、そんなことは構わない。彼女の言葉なら、何だって頑張れそうな気がした。


 ***


 結局、水瀬さんは文庫本一冊を、僕は最近人気の小説を二冊購入した。この二冊は近々ドラマ化もされるそうだ。大いに参考にさせていただこう。


「これからどこ見て回りましょうか?」


 彼女の問いかけに首を捻る。如何せんこういった場所に縁がないもので、どんな店があるのかすら知らないのだ。途中で見かけた館内地図を見ても、知らない名前が羅列されているだけで解読できなかった。


「じゃあ、適当に見て回りましょうか」


 その言葉に促されるように、僕らは歩みを進める。

 目に入るもの全てが新鮮だった。美容室やレストラン、中には宝石の原石なんかを売っている店もあった。家電屋なんかを覗けば、見たことも無いような機械たちが立ち並んでいた。キラキラとした店構えを前にして、自分だけ時代に取り残されたような寂しさに襲われた。

 そんな店たちを遠めに眺めながら進むと、水瀬さんはある店の前で「あっ」と声を漏らした。


「どうしました?」


「見てください、これ」


 彼女が指差すのは、手の平ほどもない薄い機械。確か、携帯電話というやつだ。


「義孝さんは、ケータイは持ってないんでしたっけ?」


「はい、恥ずかしながら」


 頭を掻きながら言うと、彼女は鞄の中から自分のを取り出した。淡い桃色のそれを、僕の眼前に突き出してくる。

 やはり、携帯電話を持っていないのは僕くらいなものなんだろうか。思えば、街中でもどこでも、皆これを弄っていた気がする。


「そうなんですね。これ、便利ですよ? いつでもどこでも、友達と連絡が取り合えるんです。電話やメール、他にもいろんなことができちゃう優れものなんですよ」


 彼女は携帯電話の画面をつけ、実際に目の前でいろいろ見せてくれた。理解しようと必死に目で追うけれど、何が何だかさっぱりだ。


「義孝さんは買わないんですか?」


 再び顔を上げて訊いてくる。その目は期待に満ちていたが、悔しいことに今の僕では彼女の思いに応えられない。

 言いにくいが、ここで見栄を張っても恥になるだけだ。


「……すみません。貧乏で、お金に余裕がありませんから」


「そうですか。これ、お値段張りますからね。それじゃ仕方ないですね。……残念です」


 正直に打ち明ければ、彼女は力なく俯く。携帯電話を操作する指の動きも遅い。


「義孝さんとメール、したかったな」


 携帯電話を鞄に戻し、ため息を一つ。しかし次の瞬間、彼女はこちらを振り向いて身を乗り出した。

 突然のことで、僕は思わず後ろにのけ反った。


「約束してください」


「や、約束?」


「そうです。小説を書いて、それが売れたら、ケータイを買うって。そしたら、私と連絡先を交換しましょう! 家電の番号じゃなく、義孝さんのメアドを、です!」


 彼女はにこりと微笑みかける。

 その純真な笑顔を誰が拒めるだろうか。少なくとも、僕にはそんな気は微塵も起きなかった。彼女が望むなら、それを叶えてあげたい。ただそれだけだった。


「わかりました。約束です。いつか、きっとケータイを買います。そのときになったら、沢山メールしましょう」


「やったぁ! 楽しみです、義孝さんとメールできるの」


 嬉しそうに微笑むその姿を見られただけで、こっちまで心が温かくなるようだった。


 ***


 買い物を一通り終えた僕らは、まだ日の高い空の下を歩いていた。車椅子の荷物入れには食料品が多く詰め込まれ、彼女の膝には本や衣類などが載せられている。一次避難所として、僕の両腕も借り出されているところだ。荷物は中々重く、長い道のりを歩くのは少し骨が折れた。


「本日はありがとうございました。急なお願いを聞いていただいて」


 それでも、彼女の言葉一つで疲れなぞ吹き飛んでしまう。思わずはにかみながら目線が下がる。


「いえ、そんな。これくらい大したことありませんよ。出不精な僕にはいい運動にもなりますし」


「あら、じゃあこれからも定期的に願いしようかしら。なんて、冗談ですよ。毎回お願いするのも申し訳ないですし」


 僕としては、冗談じゃないほうがむしろ嬉しかった。僕からはどうにも彼女と会う理由を見つけられないから。


「いくらでも頼ってください。水瀬さんの力になれるなら、僕も嬉しいです」


「ありがとうございます。……そんなことを言われたのは、これまでで初めてですよ」


 ほっとしたような彼女の声。それを聞くと、胸の内に温かいものが満ちていくようだった。

 行き道が長ければ、帰り道も長い。風の流れる音と自動車の駆動音を聞きながら、しばらく言葉を交わさなかった。普段は退屈な沈黙も、彼女と過ごせば特別に思えた。何てこと無い風景が、今だけは色鮮やかに見える気がした。


「あの、義孝さん……」


 ふと、水瀬さんが口を開く。その声は、まるでためらうかのように覚束なかった。顔を覗き込もうとするけれど、俯いた横顔は髪の後ろに隠れ、盗み見ることはできなかった。


「どうしました?」


「えっと、わたしからこんなことを訊くのはおかしいかもしれないですけど」


 一瞬、僕らの間を風が吹き抜けていく。


「どうして、そんなにわたしに優しくしてくださるんですか?」


「……え?」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「義孝さんと会って間もないのに、わたし、沢山助けてもらいました。今だって、わたしのわがままで重い荷物を運んでもらってます」


 彼女は急に手を止めた。

 振り向いた先で、水瀬さんは暗く俯いている。


「でも、普通はこんなことおかしいですよ。会ったばかりのわたしのわがままを嫌な顔一つしないで引き受けて。今まで生きてきて、そんな人一人もいませんでした。だからわたし、あなたが、義孝さんが、時々分からなくなるんです」


 水瀬さんを助ける理由。

 自分自身に問いかけるまでもない。初めから分かっていたことだ。

 人を助けるのに理由なんていらない、なんて聖人じみた考えなんて持ち合わせていない。自分の胸に問いかけると、返ってきた返答は一つだけ。彼女が水瀬さんだったから、それだけだ。

 だが、それを素直に表現する言葉が見つからない。代わりに、水瀬さんの言葉を借りよう。


「水瀬さんが言ったんじゃないですか。僕らは友達だって。友達なら、助け合うのは当然ですよ」


「いいえ、違うわ」


 一瞬にして僕の言葉は切り捨てられた。彼女は顔を上げることなく、声のトーンを落とす。


「それなら尚更です。わたしと友達になりたいなんて人、いないもの」


「……どうして、そう思うんですか?」


 彼女は口を閉じる。沈黙が訪れる中、彼女の視線は前方を向いていた。視線の先を追って振り返ると、陰気な顔をした男が一人。無言のまま、僕らはすれ違う。

 数十秒の沈黙の末、彼女は再び口を開いた。


「……みんな、他の人を見るときとわたしを見るときでは目が違うんです」


「目?」


「そうです。気付きませんでしたか? 今日はいろんな人とすれ違いました。ショッピングセンターもそう。さっきの男性もそうです。皆みんな、そうなんです」


 彼女は、ため息と一緒に吐き出すように言う。


「この世には二種類の人間がいます。一つは、厄介者に遭ったようにわたしから目を逸らす人。もう一つは、物珍しそうにわたしに奇異の目を向ける人。わたしに近づこうなんて人はいませんよ。もしいたとしたら、それは単なる好奇心です。人の気持ちなんて考えず、好き勝手しゃべって去っていく。少なくとも、これまではそうでしたから。……なのに、あなたは違いました」


 彼女は空を見上げ、雲間に見える太陽へ手をかざす。


「義孝さんは、わたしと対等に接してくれました。あなたは初めて、わたしに無関心と好奇心を向けなかった。初めはもっと邪険にされると思ってました。でも、それは違った。嬉しかったんです。今ならちょっとだけ、本物の友達ができたと思えるんです。でも、時々不安になるんです」


 その声は儚げで、心綺楼の間で揺れているようだった。彼女自身もそう。こうしてしっかり見つめていないと、彼女も揺らめく熱に溶けて行ってしまいそうな、そんな気がしたのだ。

 やがて彼女はこちらを振り向く。視線が合っているはずなのに、彼女はどこか遠くを見つめているようだった。


「義孝さん、あなたはどうして、何も聞かずにわたしと一緒にいてくれるんですか? わたしにはそれが分かりません。分からないんです」


 答えられなかった。僕自身、何故彼女と一緒にいたいか、分からなかったから。水瀬さんの顔を見たい、声を聞きたい、傍にいたい。無性に胸の奥に思いが湧き起こる。この胸にあるのは、たったそれだけの気持ち。この感情を、何と呼ぶのだろう。恋? いや、きっと違う。僕は彼女との間に立つ壁を越えたいと思わない。

 何故なら彼女は、天使だから。神聖で高潔で、侵しがたい存在なのだから。


「……ごめんなさい。困らせてしまいましたね。きっとわたし、動揺してるんです。気にしないでください」


 呟くように言うと、水瀬さんは僕から荷物を受け取る。その際、彼女の指が軽く触れた。

 それを気にする様子もなく、水瀬さんは静かに僕を追い越していく。数歩先で彼女は振り向く。僕を見つめるその目は、悲しみに沈んでいるように思えた。


「ここからならもう一人でも帰れます。義孝さんはあちらでしたよね。わたしはこっちなので、ここでお別れです。また、近いうちにお会いしましょうね」


 それだけ言い残すと、僕の言葉も待たずに背を向けてしまう。力なく呆然としながら、小さくなる背中に腕を伸ばす。

 悲しい目。そんな表情は、天使であるあなたには似合わない。僕の傍にいる天使は、僕を救った天使は、いつだって朗らかで眩しい笑顔を湛えていた。

 今のままあなたを帰せば、僕はきっと後悔する。


「待って! 水瀬さん!」


 気付けば、水瀬さんの背中に叫んでいた。彼女は手を止め、ゆっくりと振り返る。

 目を丸くした彼女と視線が重なった。

 まだ僕は、この気持ちの正体を知らない。それでも伝えるんだ。今感じているこの思いを。


「僕も、正直分かりません。水瀬さんは僕を友達だと言ってくれましたが、あなたといるときに抱く感情は、きっと、友情とは少し違う。でも、はっきりしていることが一つだけあります。水瀬さんと初めて会ったとき、僕はあなたに救われたんです。田舎から上京して、実力の無さを思い知らされて自信を持てなかったあのとき、水瀬さんだけが唯一僕を認めてくれました。あの一言だけで、僕の心は救われたんです。水瀬さんは僕にとっての恩人みたいな人で、だから、あなたの助けになりたい。……これだけじゃ、あなたの隣にいられる理由にはなりませんか?」


 水瀬さんと出会わなければ、今頃僕はとうに腐りきっていたはずだ。今の僕はあなたに支えられて歩いている。あなたが背中を押してくれている。だから僕は前に進めるんだ。


「わたしが、義孝さんを……そっか、そうだったんだ……」


 呟きながら、目を伏せて指先をもじもじさせている。しかし、さっきまでの悲しい目ではない。その横顔は、やさしい笑みを浮かべていた。

 やがて水瀬さんは笑顔のままこちらを振り向いた。


「やっぱりあなたは他の誰とも違う、不思議な人です。でも、そんなあなたでよかった。わたし、義孝さんと仲良くなれて本当に嬉しい!」


 今日だけで何度も見た笑顔。でもそれは、普段のものと少し違う。彼女の纏う空気が煌いて、昼間の太陽より眩しい。

 天使の微笑。それは、初めてあなたと会ったときに見せてくれた笑顔そのものだった。

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