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05

今読み返すと、義孝君は結構気持ち悪いですね。

 それから数日間の僕の有様を、一体どう説明したものだろう。あまりにたるんだ体たらく振りなので、とてもじゃないが、できることなら誰にも明かすことなく墓の下まで持っていきたい。思い出しただけで頭が痛くなってくる。この様は、たとえ相手が荘厳な天使であっても、包み隠さずに話すのは躊躇われる。

 正直に打ち明けよう。一週間が期限の企画書や原稿は未だ白紙のままだった。そして、約束の時間は明日の午前。つまり、今日中に書き上げなければいけないのだ。

 文机につき、原稿用紙を前にして絶望する。握ったペンの先は細かく震えている。企画が何も浮かばない代わりに、冷や汗ばかりがじっとりと滲む。

 こんなはずではなかった。最後の最後まで足掻いてみせるはずだったのに。僕はこのまま、お情けで貰ったチャンスすらふいにしてしまうのか。

 あれだけ惨めな姿を晒しておきながら結局書けませんでしたとなれば、速水さんは何と言うだろう。あの人のことだ、きっと人格否定では済まない。想像しただけで全身が粟立つ。

 決して、この一週間を無意味に過ごす積もりなど無かった。何度も何度も原稿と向かい合い、ペンを執った。けれど、僕の手は一文字たりとも書くことはなかった。考えるのはいつだって水瀬さんのことばかり。彼女の笑顔、声、仕草。それらを脳内に描くたび、彼女に会いたくなる、声を聞きたくなる。離れた時間が長いほど、例えようのない感情が成長していった。

 何度も電話を掛けようかと思ったが勇気が出なかった。偶然会えるかもしれないと期待して町へ出れば、結局会えず終いで家に引き返した。原稿を放ったまま、そんな無為なことに時間を費やしていた。それを自覚するたびに後悔したし、自分を責めたし、絶望した。何も成せない自分に怒りや悲しみを抱かない日はなかった。

 その積み重ねが今の自分。過去の自分は何も残すことができなかった。それなら、今の自分が書くしかない。

 分かってるんだ、そんなこと。分かってるんだよ。


「でも、もう無理だ」


 碌に努力もしてこなかったツケが回ってきたんだ。僕も潮時だろうか。

 力なく腕を下ろす。指の間からペンがすり抜け、音を立てて落ちる。視界の端には空の灰皿。そういえば、彼女と出会ってから一本も吸っていなかった。

 久しぶりに吸いたくなってきた。

 引き出しから箱を取り出し、一本つまむ。それを口に運ぼうとした、そのときだった。


「電話……?」


 背後から着信音が聞こえる。振り返れば、古ぼけた黒電話が画面を光らせている。

 ここの番号を知っている人間はごく少数だ。さらに、日ごろから交流をほとんど持たない僕にとって、電話を掛けてくる相手なんてほぼ決まりきっていた。

 受話器へ伸ばす手が震える。気持ちの高ぶりを抑えきれない。


「……もしもし」


「もしもし、水瀬と申します。そちらは清水さんのお宅ですか?」


 聞き慣れた声。電話越しでもすぐに分かる。

 俯いていた顔を上げ、言葉に熱がこもる。口角が勝手に上がるのが分かった。


「は、はい! そうです! 清水です!」


「お久しぶりです、義孝さん。数日振りですね」


「お久しぶりです……」


 数日振りの彼女との会話。胸の奥がじんと熱くなる。

 ずっと聞きたかった水瀬さんの声。でも、僕から電話をかける勇気は出なかった。こんな情けない僕の代わりに、彼女から声を掛けてきてくれたんだ。


「今日はどうされたんですか? 急に電話なんて」


「そんなに大したことじゃないんです。ただ、今日わたしちょっと暇なので、もしよろしければ、どこかご一緒しませんか? 暇つぶしに、足を伸ばして遊びに行きましょう」


 彼女からのお誘い。その言葉に頷くことができたらどれだけ幸せだっただろう。ただ今は、水瀬さんよりも優先しなければならない問題がある。


「……すみません、今は手が離せなくて」


「あらら、もしかしてお仕事ですか?」


 電話越しの声が暗くなる。心配してくれているんだ。

 水瀬さんは、こんなにもどうしようもない僕に哀れみを向けてくれる。


「そうなんです。大分行き詰まってまして」


「そうだったんですね。すみません、大変なときにお電話してしまって」


「いえいえそんな! むしろ嬉しいんです。良い気分転換になります。水瀬さんの声が聞けて」


「ほんとですか? それはよかったです。……義孝さん、わたしに何かお手伝いできることはありませんか? お友達として、是非力になりたいんです」


 そのような有難い言葉、これまでに貰ったことなど無かった。何をするにも、これまでずっと一人だったから。でも、そうか。今は違うんだ。水瀬さんが僕のことを見守ってくれている。

 胸の奥の温かみが広がり、体中を巡っていく。水瀬さんの心遣いだけで、僕は十分だ。


「お気遣いはありがたいですが、難しいと思います」


「そう、ですよね。わたし、小説なんて書いたことありませんから。物を書くことなんて、毎日の日記くらいしかありません」


「日記?」


 その単語が気にかかり、聞き返す。電話の向こうで水瀬さんの声が弾むのが分かった。


「はい、わたしの日課なんです。その日の出来事を思い出として書き残すんですよ。楽しいことも、悲しいことも。もちろん、義孝さんのことも書きました」


 日記。水瀬さんと僕の思い出。

 水瀬さんとの情景が途端に思い出される。

 蒸し暑い夏の山奥。そこで出会った彼女は、不思議な魅力を纏っていた。天から降り立った天使のように、彼女の周りだけ空気が違っていた。その雰囲気とは対照的な車椅子の存在。その情景は、さながら映画の画面を切り抜いたようだった。

 曇っていた視界が一気に開けるような感覚。難解な問題の解法を見つけたときのように、心がすっと軽くなった。


「水瀬さん、それですよ! それ!」


「へ? な、なんのことですか?」


 もちろん、これが速水さんの御眼鏡にかなうとも限らない。しかし、これが唯一見つけた最後の道なのだ。彼女がくれた、一縷の望みなのだ。

 期日は明日。厳しいけれど、他に選択肢は無い。


「ありがとうございます! お陰で何とかなりそうです! それでは失礼します!」


「え、あ、ちょっと! 待ってくださ――」


 電話を切り、文机に向かう。目の前の原稿は真っ白だが、今の僕には文字が浮かんで見える。これから書く原稿が見える。

 そうか、僕は水瀬さんが書きたかったんだ。

 ようやく、気付くとこができた。久々に執ったペンは、自信に満ちていた。


 ***


「できた……」


 数枚の紙の束を掲げ、息を漏らす。文字を目で追うごとに達成感がふつふつと湧いてくるようだ。

 書き上げたのは導入部分のプロットと、ほんの少しの原稿。僕の執筆速度では、一晩かけてもこれが限界だった。それでも、この出来に不満はない。持ち上げる手がわなわなと震えだす。

 精一杯やりきった。後は、こいつが僕の未来を決める。こいつにすべてがかかっているんだ。

 本来なら最後の最後まで推敲をするべきなんだろうが、さすがに徹夜は体に堪えた。出発の時間まで一眠りしよう。あくびをしつつ今の時刻を確認すると、時計の針は九時前を指していた。

 夜の九時か? はて、徹夜どころか、まだ日も跨いでいないのだろうか。いやいやそんな筈はない。窓の外は既に明るく太陽が照らしているのだから。ということは、今は翌日の朝九時ということになる。


「……嘘だろ」


 一気に冷や汗が噴出す。

 朝の九時なんて、約束の時間に間に合うギリギリじゃないか!


「まずいまずい! 急げ!」


 お情けをいただいた身分で遅刻など言語道断。そんなことをすれば、今度こそ無慈悲に切り捨てられてしまう。それだけは阻止しないと。こいつを一目すら見られずにチャンスをふいにしては、到底諦め切れない。

 慌てて文机から飛び退き、最低限の身支度を済ませる。風呂も入っていなければ、昨日の晩から何も口にしていない。だが、そんなことに構っていられる余裕はない。くたびれた鞄に原稿を突っ込み、財布を掴む。


「行ってきます!」


 そして、久しぶりの言葉を残して家を飛び出した。

 蒸し暑い空気も、日射しを照りつける太陽も、地獄のような電車の中も、一週間前と何も変わらずだった。見知らぬ人たちの波に揉まれ、何とか待ち合わせの最寄り駅にたどり着く。今回の打ち合わせ場所は、最寄り駅は同じだが前回とは別の喫茶店だ。さすがに人前であんなことをしては、一週間空けても入りづらいと思われたのだろう。速水さんには申し訳ないことをした。改めて謝らなければ。

 時間には何とか間に合った。一先ず安堵の息をつき、待ち合わせ場所の犬の銅像前へ向かえば、スーツ姿の速水さんが既に待っていた。この暑さの中でも着崩さないあたり、よほど律儀で真面目な性格らしい。

 速水さんは忙しそうに手元の資料と腕時計へ交互に視線を落としている。彼女を驚かせないよう、少し距離を空けて声を掛ける。


「お、おはようございます、速水さん」


「あら、清水さん。おはようございます」


 顔を上げた彼女は、珍しく口許を緩ませる。


「安心したわ。ちゃんと打ち合わせにいらしていただけて」


 それは、暗に僕を馬鹿にしているのか。だとしても何も言い返せない。むしろ、彼女のほうが約束通り来てくれたことに感謝しなければ。


「当然じゃないですか。今回はちゃんと、満足のいくものが書けましたから」


「そうですか。では、早速行きましょう。案内します」


 僕の言葉は軽くあしらわれ、彼女は身を翻す。彼女の塩対応も二回目だが、少し心にくるものがある。

 無言で歩く彼女について歩けば、数分ほどで彼女は足を止めた。目の前にはシックな木造の喫茶店。渋い見た目の通りというべきか、入店すればカウンター奥のあごヒゲを蓄えた初老の男性と目が合った。店内にはその男性と、エプロン姿の女性がもう一人いるのみだった。夫婦でこの喫茶店を切り盛りしているのかもしれない。

 女性の案内で席に着いて、早速飲み物を注文する。僕は緑茶、速水さんはコーヒーだった。女性は笑顔でカウンター奥へ引っ込むと、速水さんは早速話しを切り出した。


「では、見せてもらえますか?」


 その顔は相変わらず、凍りついたように無表情だった。僕には露ほども期待していないという気持ちの表れだろう。

 これから、採用か否かの判決が下される。

 鼓動が早くなるのが分かる。武者震いする手で紙の束を取り出し、彼女へ差し出す。


「よろしくお願いします」


 一つ頭を下げる。速水さんは掬い上げるように手に取って目を通していく。その間、彼女は一言も発さない。沈黙が緊張感を煽る。途中、注文した飲み物が届いたが、それにも全く口を付けることはなかった。

 彼女の感想を待つ間は生きた心地がしなかった。永遠にも感じる時間の中、天敵に狙われた小動物のように身を竦め、息を潜めてにじっとしていた。

 読み始めて三十分ほど経っただろうか。速水さんが唐突に原稿を持つ手を下ろした。原稿は前回のように突き返されることはなく、彼女の視線は未だ原稿の上をなぞっている。


「驚いた……」


「え?」


 速水さんは呟くように言うと、こちらへ目線を上げた。無表情だった顔は、少しだけ優しくなった気がする。


「ごめんなさい、私、あなたのことを見くびっていたわ。でも、今日こうして打ち合わせをした意味はあったかもしれない」


「そ、それってどういう……」


 彼女は再び原稿へ視線を落とし、一枚ずつ捲っていく。


「まず初めに言うことは一つ。この企画書をそのまま編集社に持ち込んだとしたら、間違いなく受け取ってはもらえないということ。まあ、清水さんもそれはお察しの通りかもしれないけれど。そもそも企画書とは、全体の方向性などを細かく記したもの。なのに、これにはほんの導入部分しか書かれていない。これじゃ、全体の方向性が不明瞭だし、売れるかどうか判断のしようがないもの」


「……はい、その通りです」


 言い訳はしない。僕は静かに頷き、次の言葉を待った。


「……ただ」


 それまでは針のように鋭かった声色が、少しだけ丸くなる。


「少なくとも、私の目には、この文章は駄作には映らなかった。前回が酷すぎただけなのかもしれないけれど、清水さんがこれを書いたことが少し信じられないわ」


 速水さんが原稿を指先でなぞる。


「『翼をもがれ、自由を失った天使』。題材としては確かによくあるものかもしれないけれど、ファンタジーを感じさせないリアルさには感心したし、何より私自身、この続きが少し気になるの」


「それって、もしかして」


 淡い期待が溢れ出す。彼女は口許に笑みを浮かべていた。温かみに溢れた、素敵な笑顔だった。


「ええ。今のままでは持ち帰ることはできないけれど、このまま続きを書いてくれないかしら。ある程度形になったら、社に持ち帰って検討させてもらうわ」


「本当ですか!?」


 思わず立ち上がり、机に手を突いて身を乗り出した。彼女は驚いたように体を反らして顔を引きつらせている。


「ほ、本当よ。嘘なんて言うはずがないでしょう」


「ああありがとうございます!」


 ここが店内であることも忘れ、何度も感謝の言葉を並べて頭を下げた。速水さんは焦ったように何度も止めようとしてきたが、僕の感謝の気持ちは止まることを知らなかった。


「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! 絶対に良いものを書きますので!」


「分かったから! 分かりましたから! もう止めてください! 公衆の面前ですよ!」


 そうか、僕は許されたんだ。まだこの地に縋り付いて、夢を見続けることを許されたんだ。それもこれも全て、水瀬さんのお陰だ。


「ちょっ、何泣いてるんですか! そんなに嬉しかったんですか。ハンカチを貸してあげますから、これで拭いてください」


「す、すみません。ありがとうございます」


 だから、今回こそは絶対に成功してみせる。自分のため、そして、僕を救ってくれた水瀬さんのためにも。


 ***


 行きとは違い、晴れやかな帰り道。少し閑散とした電車に揺られながら、未だにこれが現実とは思えなかった。本物の僕は自宅の布団の上で、今見えている景色は全て夢なんじゃないか。そう思うと心配になり、人目を盗んで頬を抓ってみれば、涙が滲むほど痛んだ。痛みが、これは紛うことなき現実なのだと教えてくれた。

 初めての小説の仕事。このことを水瀬さんに話したら、なんて言ってくれるだろう。彼女ならきっと、諸手を挙げて祝福してくれるに違いない。

 駅に着けば、日射しは変わらずさんさんと降り注いでいる。ただ、吹き抜ける風は不思議と肌に心地よかった。

 さあ、帰ろう。今日はいい心地で続きが書けそうだ。

 緑を横目に、日陰の下を選んで歩く。人通りの少ない道なので、人目を気にする必要もないだろう。口許が緩み、足が軽くなるのを隠すことなく道を辿っていく。

 その途中、道の脇の自動販売機に目が留まった。


「そいえば、喉が渇いたな」


 喫茶店を出てから一時間あまり。この暑さの中にも関わらず、喉の渇きを忘れていたようだ。

 節約のため、普段は決して飲み水を買うことはない。けれど、今は珍しく機嫌がいい。少し奮発するのも、自分への褒美だと思えば悪いものじゃないだろう。

 足を止め、自販機を見上げる。四段に並んだペットボトルたちは、青色だったり赤色だったりと、各々個性的なラベルに包まれている。こういったものには疎く、どれがどういった飲み物なのか判断つかない。ここは一つ、運試しよろしく適当に選んでみよう。

 小銭を入れ、目に付いたボタンを押そうと指を伸ばす。


「義孝さん」


 横から声を掛けられた。振り向けば、目の前にいたのは水瀬さんだった。彼女は目を丸くして僕を見上げていた。

 突然現れた水瀬さんは、今日も光を纏うかのように神々しい。


「みみ、水瀬さん!? どうしてここに!?」


 素っ頓狂な声を上げ、彼女と向き直る。よほど可笑しな反応だったのか、彼女は口許を隠してくすくすと笑っている。


「そんなに驚かなくても。わたし、よくお散歩するんですよ。前にお会いしたときもそうでした」


「そうだったんですね。すみません、変な声を上げてしまって」


「いいんですよ。それにしても、随分嬉しそうでしたね。何か良いことでもあったんですか?」


 にやけ顔まで見られていたのか。人目が無いと思って油断していた。

 恥ずかしさのあまり彼女の目を見られず、顔を背ける。


「えぇ、仕事のことで。大きい仕事をもらえそうなんです」


「お仕事? 作家さんでしたよね。ってことは、遂に本を出されるんですね! おめでとうございます!」


「そんな大袈裟な。まだ完全に決まったわけじゃありません。任せてもらえそう、っていうだけですから」


「でも、とっても嬉しそうでしたよ。それは、義孝さんにとって、それが大きな進歩だからだと思います」


 目線を彼女へ向ければ、彼女もまた僕を見つめていた。吸い込まれそうなほど真っ直ぐな瞳。彼女の言葉には、嘘も建前も感じない。


「だから、自信を持っていいと思います。素人意見でしたが、わたしの感想も案外外れてもいなかったのかもしれません。前回読ませていただいて、とても面白いと思いましたから」


 自信を持っていい、か。これまで生きてきて、人にそんなことを言われたのは初めてだ。

 彼女の言う通りかもしれない。これまで新人賞の二次選考すら通ったことが無かった僕が、編集社で働くプロを多少なりとも唸らせたのだから。


「ありがとうございます。水瀬さんのお陰で少し自信が付きました」


「いえいえ、お役に立てたなら何よりです」


 そう、今の僕があるのは彼女のお陰。水瀬さんがいなければ、今頃田舎へ帰る準備をしていただろう。彼女にはいくらお礼をしてもし切れない。だから、今は少しでも彼女に恩返しがしたい。何かないかと視線を巡らせば、今まさに自販機の前に立っていることを思い出した。


「そうだ、今丁度飲み物を買おうと思ってたんです。水瀬さんもどうですか? この前ご馳走になりましたし、今回は僕が払いますよ。って、ご飯と飲み物じゃ全然釣り合いませんが」


「いえいえそんな、お気遣いありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えようかな。丁度飲み物が欲しかったところなんです。えぇと、どれにしようかな」


 少し逡巡して、彼女は『メロンソーダ』なるものを選んだ。手の届かない彼女の代わりにボタンを押した。僕はどうしようかとラベルを順に眺めてみる。けれど、結局味は飲んでみないと分からないので、取り敢えずメロンソーダの右隣を選んだ。

 ボタンを押したとき、水瀬さんが驚いたように声を上げた。


「義孝さん、それ飲むんですか!?」


「え? これ、もしかしておいしくないんですか?」


 適当に選んだとはいえ、ラベルはカラフルで目を惹くし、特段マズそうには見えないが。

 だが、水瀬さんは気まずそうに顔を逸らし、ぶつぶつと何かを言い出した。


「わたしは飲んだことはありませんが、一部では相当酷いと噂を……い、いえ、気にしないでください。好きだって言う人もいるそうですし、きっと大丈夫ですよ」


 その言葉が余計に不安を煽る。彼女は少しよそよそしくなり、ソーダに口を付けている。

 一体どんな味なのか不安になる。いや、買ってしまった以上飲まないわけにはいかない。男は度胸だ。キャップを捻り、思い切って口に流し込む。

 ……ん? 水瀬さんはああ言っていたが、そんなにマズくは――


「むぐぐぐっ!!」


 いけると思ったその瞬間、刺激が激流のように押し寄せる。舌が痺れ、ミントのような風味が鼻から抜けていく。味など理解することも出来ない。ただ僕は噴き出さないように堪えるだけで精一杯だった。


「や、やっぱりあの噂は本当だったんですね。大丈夫ですか? 無理そうでしたら、吐き出してもいいんですよ?」


 やさしい言葉を掛けてくれる水瀬さん。だが、綺麗な彼女の前で汚い姿を晒すわけにはいかない。一度口に含んだものを吐き出すなんてもっての外だ。


「あはは、もう、義孝さんったら。そんな、くすくす、格好つけようとしなくてもいいのに」


 鉄の意志で無理にでも飲み込もうとする。その様子を見て何度も声を掛けてくれるが、どうしてだろう、どうも彼女は苦しむ僕を可笑しく思っているようだった。

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