12:to be or not to be
僕の一人称は、気がつくと「僕」だった。だから、それを疑う余地はなかった。だって、いつだって「僕」は僕の中で正しかったから。でも、思い返してみると、数年前は自分のことを「わたし」とか、「うち」とか呼んでいたっけ。数少ない友達の真似をして。それがいつからか「僕」に変わっていた。多分、きっと、人に不安を感じ始めてから。僕の母が亡くなってから。
「もう、『僕』とサヨナラしよう」
彼の言葉は酷く心に刺さった。銃弾にも似た言葉だ。けれど、その傷口から溢れたのは鮮血ではなく涙だった。目の前の風景が滲んで全てのモノが二重、三重に見える。僕は暫くの間、大声で泣きじゃくった。それこそ産まれたばかりの赤ん坊のように。
*
僕が泣き止むと、彼は優しく話しかけてきた。
「君は、もう君じゃない。もう『僕』じゃない。その証拠に取り替えっこしよう。私と君で。『私』と『僕』を」
彼は至って真剣だったが、一人称を取り替えようという提案は僕にとってはいささかユーモラスだった為、少し笑ってしまった。
「ワ、ワワ……ワタシ」
ぎこちないワタシという一人称は、ある種のワタシの憧れであったらしい。なんだか照れ臭いというか、誇らしいというか。複雑な心境の渦が僕を呑み込んだ。
「そして、ボク」
この妙に暖かな世界への嫌悪感はいつしか消えていた。それどころかこの空間にずっといたい、そう感じ始めていた。
ワタシは息をふっと吸い込む。握り拳に軽く力を入れて、口を開いた。
「あ、あの!」
「なんだい」
不思議そうな彼の顔。
「あ……あの」
喉まで来ている言葉がまた痞えてしまいそうだ。でも、でも。もう引き下がったりはしたくない。ワタシは! ワタシは。言葉を閉じ込めていた心の扉を、強引に抉じ開けた。
「あの……ぼ、ワ、ワタシに! 生き方を教えて下さい。生きていくことが不安で。苦しくて」
彼は一瞬驚いた顔をして、それからまたいつもの微笑んだ顔に戻った。
「そう。君は生きるべきなんだ。君がずっと求めていたのは、死に方ではなく生き方だった筈だよ。いいかい、悲しみや苦しみに君の命程の価値はないんだ」
「なら、ワタシは……。また『奴ら』に虐められても、我慢しろってことですか」
「違う。綺麗事じゃなくて、君の声を、心を拾ってくれる人はどこかに絶対いるんだ。君に「敵」はいるかもしれない。けれど全人類が「敵」ではないんだ。いつだって君は一人ではないから。一人になることはできないから。大事なことは、常に君がどんな行動をするか。君の身に降りかかる全てのことには少なからず君の行動が関与しているんだ。だから、我慢する必要なんてない。君に足りないのは生きるという勇気だけだから」
確かに僕には勇気が足りなかったのかもしれない。ずっと殻に閉じこもって、その殻の中で窒息しかけていたのかもしれない。
「さぁ、前に進むんだ。決して止まったりせずに。変わらない一日に思いを馳ても意味はないから。明日は変わりはしないからね」
「……。はい」
訳の分からない状況だけれど、ただ一つ確かな意志が心に決まった。生きたい。理由は分からない。けれど生きたい。
彼はふと思い出したようにコートのポケットを探りなから言った。
「おっと……忘れるところだった。これを渡しておくのがボクの使命らしい。どうぞ」
手渡されたのは白いナイフと赤い腕時計。ナイフと言っても、バターナイフであろう。プラスチック製に見える。そして……腕時計は。この腕時計は。
「あの……どうしてこれを」
「ボクもあまり分かっちゃいないんだけど、君の望んでいたモノじゃないのかい」
「これは、ワタシの母が生前着けていた腕時計です。母が亡くなってから、どこを探しても見つけられなくて」
目の前の彼が、段々と得体の知れぬ存在に思えてきた。
「そう怖い目で見られても。さっきも言ったけれど、ボクの知り得る情報は限られているんだ。世界自体がすごく不安定だからね。で、もう一つ。それはさっきボクが作ったんだ」
「この、ナイフですか」
ワタシは左手に掴んだナイフを少し上に掲げて言った。
「そう。それは時計よりも謎なんだけどね。設計図と作りかけの部品が生まれたボクの横に落ちていたんだ。多分、それは世界から漏れ出たバグのようなモノじゃないかと思うんだ。でないと説明がつかない。それは『神の力』と『世界の力』が混ざってできた『虚無のナイフ』だ」
「虚無の……ナイフ」
「うん。一度だけ、何でも望んだモノを切ることができる。鋼鉄でも、人間でも、縁も不運も絶望さえ」
「あ、ありがとうございます」
勿論信じてはいない。流石に子供騙しであろう。それに『ナイフ』なんかに頼りたくはない。
「さて……と」
彼はわざとらしく伸びをして立ち上がり、ワタシを見た。
「こちらへ」
ワタシは言われるがままに付いて行った。




