第11回
陽はとっくに傾いてたけど,まだ汗がひかない。何度タオルでぬぐっても,身体中からしみ出してくる。東京の嫌いなところを,ひとつ訊かれたら,夏の蒸し暑さ,って迷わず答えられる。
いつもなら,うんざりしてるところだけど,ちょっと違う。すごく充実した時間を過ごした気分だった。だから,疲れさえ心地よくて,汗を放置するのも気にならない。とりあえず,空いてるベンチを探して座ろうと決めた。
わたしは,数年前からひそかに興味を持ってたフェスに来ている。圭治とは,去年ロックフェスに行った。もちろん,楽しかったけど,圭治がいなかったら,正直迷ったと思う。どっちに行こうか,って。
『ほら。これ。よかったら。』
2日前のことだ。伯父さんは,ペットボトルでも差し出すように,わたしに封筒を渡した。開けてみると,アイドルフェスのチケットと往復の特急の切符だった。
いつもながら突然だ。
「アイドル異種格闘技」に備えて,他のアイドルを観て,参考にすればいい。ふつうなら,そこにあるのは,そんなメッセージだと思う。でも,伯父さんのことだ。逆に,シンプルに「楽しんできなよ」って言ってる気がした。
奈津とライブに出た日。わたしは,伯父さんに迷ってる姿を見せた。実際,わからなくなってる。好きでアイドルをやってるのか,逃げ道にしてるのか。
中途半端な気持ちでやってたら,そのうちアイドルを嫌いになるかもしれない。わたしは,そう感じ始めてた。
いつだったか,たまたまつけたテレビで高校サッカーの中継が流れてた。試合が終わって,レポーターが,選手にかけた監督の言葉を紹介した。それは,「何があってもサッカーを嫌いにならないでほしい」という内容だった。
体育会系の考え方は,よくわからないけど,このメッセージはうなずける気がした。だって,趣味でも,部活でも,長い間夢中でやってきたことが嫌いになるのは,絶対に悲しい。
初期衝動っていうんだろうか。伯父さんは,プロのアイドルを生で観ることで,初めてアイドルを観たときの興奮を思い出させようと思ったのかもしれない。キラキラしてる姿に夢中になって,自分も…って。
そういえば,マスターも言ってた。「迷ったら,原点に返れ」って。だから,わたしは,とにかく楽しもうと決めた。
会場に着く前は,メジャーなアイドルだけ観ようって決めてた。だって,それなら,自分とは遠い世界の人たちだって思える。ただのファンとして観られる。でも,小さなステージに出るロコドルとかだったら,自分と比較してしまうかもしれない。それで,「自分はダメだ」なんて思ったら,完全に逆効果だ。
隊長も同じことを考えてたみたいだ。気づいたらメールが届いていて,会場内で会うことになった。そこで手渡されたのは,整理券だった。わざわざ早朝から並んでゲットしたらしい。以前ブログにファンだと書いた大所帯のメジャーなグループのものだった。朝地元を出て,会場に着いたのは昼だったから,諦めてた。だから,隊長の好意に素直に甘えることにした。
実際に観た彼女たちは,「まぶしい」という他に表現が見当たらない。登場した時は,凝ったデザインのワンピースで夏フェスっぽくないと思った。スターって感じで,他のアイドルと雰囲気が違う。だから,「横綱相撲」っていうの?もしかしたら,余裕があるパフォーマンスをするかも,って思った。それが,始まってみたら,もう全力。汗だくで歌って踊って,ステージ最前で精一杯客をあおる。最初は,圧倒されて「地蔵」になってた。でも,気づくと夢中でペンライトを振り回して,叫んでた。
回想にひたったら,喉の違和感を思い出した。もうすぐ自分のライブなのに,それを忘れて,思い切りコールやMIXをしてた。それくらい楽しかった。
ペットボトルの水を一口飲んで,見つけたベンチに腰掛けた。わたしは,スマホでタイムテーブルを開いて,時間を確かめる。まだトリまでには少し時間があった。
通り過ぎる人を眺めながら,わたしは回想モードに戻った。
メジャーアイドルだけ,って決めてたのに。気分が上がったわたしは,全部のステージを回ろうと思いついた。それで,小さいステージで,初めて名前を知ったアイドルも観た。だから,ちょっと自分と重ねてしまって,マイナス思考に落ちそうになったこともあった。でも,トータルでは,葛藤より楽しさが少し勝ってる。フェスって,そういう空間だから,みんな集まってくるんだと思う。なかには,この1年に数日のためだけに仕事を頑張ってる,ってブログに書いてる人もいるくらいだ。
ブログ。思い出して,スマホを握り直した。時々コメントをくれる女性のブログを開く。やっぱり。その人も会場にいるらしく,今日何度か更新されてる。わたしも観たステージの感想もあった。同じ場所にいた,ってわかると,親近感が大きくなる。それから…
えっ!?液晶画面を滑らせてた指が止まった。
昼に観たグループが,その後に出たステージで解散を発表した,って…。そんな様子なんて,少しもなかったのに…
この日見た場面が,次々と浮かんでは消える。そのなかで,ずっと感じてたことがある。
ライブを見始めて,すぐ気づいた。ステージのあいだの準備時間が短い。それは,わたしが出演した地下アイドルのライブでも同じだ。けど,こういうシチュエーションだとロックフェスとの違いが際立つ。客観的に見て,改めてそう思った。
準備時間だけじゃない。大きいステージを別にすれば,1組ごとの出演時間も,比較的短い。なかには2,3曲で終わりになるステージもあった。
ロックフェスで,次のアーティストの出番をわくわくしながら待つのは楽しい。その一方で,待ち時間がないのは,やっぱりお得感がある。1日を目いっぱい楽しめる気分になる。
だけど,次々と出演者が入れ替わって,短時間で一気に熱量を放つアイドルは,どこか刹那的で,どうしても考えてしまう。アイドルには時間がない,ってことを。
また思い出してしまう。小さいステージで観たアイドルたちの姿を。
『名前だけでも覚えて帰ってください。』
MCで何度か聞いた言葉だ。定番だったけど,彼女たちは,なんとかツメアトを残そうとしてた。もがいてる,って表現がしっくりくるような子もいた。
自分には,そこまで強い気持ちがあるんだろうか。限られた時間のなかで,気持ちを伝えたい,とか,歌を届けたい,とか…
「れ…祈さん?」
押し寄せるネガティブ思考をさえぎったのは,聞き覚えのある声だった。
「タキモトさん?」
ひどく深刻な表情をしてたみたいだ。タキモトさんが,心配そうに顔をのぞき込んでた。
「あ。こんばんは。す,すいません。知り合いに会うとか思わなかったんで,ぼーっとしてて…」
「い,いや。僕も驚いたよ。今週末はライブがないから,もしかしたらね,来てるかも,なんて,少し思ったけど…」
タキモトさんは,見慣れたポロシャツにチノパンだった。フェスっぽくない格好が,らしいと言えば,らしい。
「えーと…今日は,ビラ配りか,何か?」
「いいえ。ただの客です。あ,よかったらここ。どうぞ。」
わたしは隣に座るよう勧めた。とりあえず話をしてれば,気がまぎれる。タキモトさんは,いつものように遠慮がちにしたがう。
「ご,ごめんね。なんか考え事してなかった?邪魔しちゃったんじゃないかな?」
「いいんです。ちょっと落ち込んでただけなんで。他のアイドルさん観てると,自分がダメだって思い知るから。」
ファンに,あまり「裏側」を見せるのはよくない。それは,わかってた。でも,タキモトさんとは本音で話したいって気持ちもあった。だって,他でもないファン1号だったから。
「ダ,ダメじゃない…と思うよ。少なくとも,僕は,なんていうのかな,生活に…楽しみができた。祈さんも感じてると思うけど,なんの娯楽もない田舎だからね。」
「でも,どうしてわたしなんですか?」
わたしは,直球の質問をぶつけてみた。ずっと気になってたから。
「え?いきなりだなあ。えーと,そうだね…」
ちょっと申し訳ない気持ちになった。タキモトさんは,視線を泳がせて,考え込んでしまう。それでも,覚悟を決めたみたいに,軽くうなずいてから答えた。
「正直言うとね,少し憧れてたんだ。最古参って呼ばれるのに。あ,でも,誰でもいいってわけじゃないからね。うまく言えないけど…だから…」
以前だったら絶対にわからない感覚だった。自分よりずっと年上の人を「かわいい」とか思うのは。でも,こじらせオヤジから語られてるうちに,わたしも,いろいろと変わった。
「いいんですよ。『DD』大歓迎ですから。」
「DDじゃないよ。初めて会ったとき,休日出勤で…なんかイライラしてたのが,一気に気分が変わったんだ。大げさかもしれないけど…救われたみたいな気持ちになった。」
わたしは思い出す。地元駅前での初ライブ。瑠理に見られたり,伯父さんの仕込みを知ったり,さんざんだった。最後に救われたのは,タキモトさんのおかげだ。
「そんな…。助けられたのは,わたしのほうですよ。あんなクオリティーの低いライブだったのに…」
「そ,それは不慣れだったかもしれないけど,退屈な駅前の景色が,いつもと全然違って見えたよ。」
そんなたいしたもんじゃない。わたしは照れくさくなって,話題を変えようとした。
「あの…お仕事,たいへんなんですか?」
「し,仕事?ああ,というか…」
タキモトさんの表情がちょっと曇る。しまった,と思う。お祭りの場なのに,現実に引き戻したみたいだった。やっぱりわたしはダメだ。
「ごめんなさい。わるいこと訊いたみたいで。」
「いや。いいんだよ。たいへんじゃない仕事なんて今どきないんだろうけどね。問題は…自分の気持ちなんだ。」
気を遣わせっぱなしで,本当に申し訳ない。せめてわたしは真剣に聞こうと決めた。少し上半身を乗り出し気味にして。
「僕,大学が東京だったんだけど,本当はね,帰って来たくなかった。でも,東京で暮らすと,家賃が高いし…いろいろ生活を考えるとね。ほら,東京にいてイベントや欲しいものがあっても,お金がないと,結局楽しめないから。まあ,でも,経済的に少し余裕があっても,何もない町にいるのも…寂しいから,どっちがいいのか,わからないけど…」
そうだ。以前,圭治と話したことがある。東京の大学に行って,そのあとどうするか,って。やっぱり家賃の話題になって,一気にテンションが下がったのを覚えてる。
東京。アイドルを始めてから,毎週末のように来るようになった。その度に,楽しくて,漠然と思う。将来は,東京で暮らしたい,って。
でも,東京,って…思い出して,さらに気まずくなる。
「本当にごめんなさい。それなのに,わたし,地元でほとんどライブやらないで,東京ばっかりで…」
「い,いや。いいんだ。東京に出るきっかけをくれるだけでも…ありがたいって思ってる。」
タキモトさんは,どこまでも優しい。止めたほうがいいのに,考えてしまう。わたしに,応援されたり,優しくされたりする価値があるのか,って。
「ほ,ほら。何もないと,週末は家にいて,日曜の夕方に嫌な気分になったり,その繰り返しだけど。でも,東京に来ると,何かしら刺激があるから。」
「戻りたいですか,東京に?」
「うん。この歳になっても,そう思うよ。地元に戻ったときは,思ってたんだ。そうはいっても,そのうち慣れるだろ,なんて。でも,わかったよ…人間ってそう簡単に変われるものじゃないね。」
こじらせたら,元通りにならない。両親との話し合いで,伯父さんが言ってた。
「でも,この歳になると,仕事を変えるなんて,ほぼ無理だし…このまま無難な暮らしを続けるしかないって…いや。そうじゃない。その気になれば,できるけど,結局,度胸がないだけなんだよ。安定した生活を捨てるのが怖いだけで…」
タキモトさんは黙り込む。自己嫌悪に襲われたみたいだった。逃げ出したい気持ちになる。わたしは,ファン1人を楽しませる会話もできない。それなのに,イベントに出て,他のアイドルに勝つ,って?ほんとにありえない。
「もういいですよ。ごめんなさい。変な質問して。せっかくのフェスなのに,わたし,台無しにしちゃって…」
「あ,いや。ち,違うよ。謝る必要なんてないよ,全然。」
穏やかな声だった。いったん反らせた視線を戻してみる。タキモトさんは,いつものように笑ってた。
「だ,だって,自分の生活はダメでも,全然意味がないわけじゃない,って思えたんだ。自分が,こういう思いをしてるから…他の人には,してほしくないって思うよ。だから…頑張ってる若い人が好きにやれるように…サポートするのは…無駄じゃないよね。」
もちろんムダじゃない。でも,それは,応援する対象による。ここで観た人たちなら,納得できるけど,わたしなんて…
「そうなんですけど,でも,わたしの頑張りなんてまだまだですよ。」
「いや。そんなことないよ。それに,自分で自分のことを頑張ってる,なんていう人…信用できないよ。」
タキモトさんは,当たり前のように言った。まるで答えを用意してたみたいに。
「さっき,ライブは東京ばかり,って言ったけど,祈さんが『異種格闘技』で優勝すれば,地元に注目が集まるかもしれないよ。そしたら,『自分も!』ってロコドルも増えるし…ライブの場だって多くなる。結果的に,地元でやる祈さんのライブも増えるだろうし…いい循環が,生まれることになるから。」
夢のような話になってきた。わたしに地方を活性化する力なんてあるわけない。それ以前に,藤崎さんに話したけど,そんな使命感もない。
「だ,だから,そうなったとき…自分は胸を張れる…最古参だってことに。最初に見つけたのは,自分なんだって。だからね…」
タキモトさんは,言葉を切って,わたしの目を見つめる。ますます逃げたくなったけど,言葉が追いかけてくる。
「これは,自分のためでもあるんだ。だから,祈さんは,自分が思うようにやればいいんだよ。」
熱い。ふだん口下手なタキモトさんが,こんなに語るなんて。これが,フェスの空気なのか。っていうか,「語られJK」の本領発揮ってことかも。
「あ,ありがとうございます。そんなふうに思ってくれてるなんて…」
「ぜ,絶対に優勝してね。」
タキモトさんの目は,キラキラしてた。薄闇のなかで,近くの灯りを映してる。でも,それだけじゃなかった。
「…頑張ってみます。」
「だ,大丈夫。祈さんなら,できるから。」
そう言うタキモトさんは,少なくとも不幸には見えなかった。それなら,少しは力になれてるのかもしれない。でも…ちょっと重いのも否定できない。
「はい…」
「あ,あの,祈さん…」
「あれっ!?れ,祈ちゃん!!」
近くで声がして,反射的にそっちを見る。そこには…
「隊長!えっ!何してんですか?」
「何って?フェスに来てるに決まってるじゃない。」
隊長は,Tシャツの胸のあたりに触れた。ブレイク間近と言われるグループのロゴが,誇らしげに輝いてる。
「って,DDじゃないですか?」
「え?大歓迎って言ってなかったけ,DD?祈ちゃんも聴いたほうがいいよ。新曲,めっちゃいいから。最近,リピートで聴いてるけど,飽きないんだ,これがさ。」
わざとなれなれしくしてる。お互いの呼吸がわかってきたから,すぐわかった。それで,わたしも合わせることにする。
「ダメです。ブログに『ファン1号』って書いてますけど,非公認にしますよ。ね,タキモトさん。」
あえて話を振ってみる。わたしの予想通りなら…
「あ。そ,それじゃ,僕は,これで。が,頑張ってね。」
タキモトさんは,慌てて立って,背中を向けた。予想は外れてない。わたしも,立ち上がって,頭を下げてみせた。
「ありがとうございました。気をつけて帰ってくださいね。」
一瞬,振り返りそうだったけど,タキモトさんは,そのまま歩き去る。背中が,なんとなく寂しそうで,ちょっとかわいそうになった。でも…
「ありがとうございました。いいタイミングで来てくれて。」
タキモトさんの姿が人波に消える。それを確かめて,わたしは崩れるように座った。
「通りかかったら,なんかつらそうな感じだったから。大丈夫?」
隊長は,声のトーンを落として訊いた。昼間かなり盛り上がったんだろう。よく見ると,Tシャツの一部に汗じみができてる。
「全然平気なんですけどね。本気で応援してくれてるんで。でも,もちろん,うれしいのもあるけど,なんか疲れちゃいました。」
「そうだね。いつも全力だからさ。他に趣味なさそうなタイプだしね,タキモっちゃん。」
いつのまにか「タキモっちゃん」呼ばわり。気の毒だけど,若者になめられるタイプなのは間違いない。
「でも,『ガチ恋』よりいいですよ。まあ,こんなわたしに本気になる人,そういないですけど。」
「そうかな。そうでもないかもよ。」
「え,もしかして口説いてます?」
ほっとして,口が軽くなる。隊長は,ケチャの姿勢で答えた。
「めっそうもありません。教祖様を口説くなんて。って,実際,ビジネスパートナーみたいなもんだし。商品に手は出さないっすよ。」
「まあ,そういうことになりますね。あ。座ったらどうですか,時間があれば。」
わたしは,身体を軽く脇に寄せる。隊長は,ちょっと考えてから,首を横に振った。
「いや。そろそろ次のライブの場所を確保しないと。それから…」
隊長は,少しためてから,笑顔を見せた。
「大丈夫。俺は,語らないから。とりあえず今はね。」
さすが「相方」。すごく空気が読める。わたしも精一杯の笑みを返した。日は完全に落ちて,祭りはフィナーレを迎える。身体の奥から興奮が戻ってくるのを感じた。




