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凍圏

私はしゃがみ込み、頭を抱える。


冷たい床に膝が触れる。

白いタイルはわずかに光を反射していて、現実感が希薄だった。


「……まただ」


声が震える。


その声は廊下に吸い込まれていく。

反響すら、どこか鈍い。


「また……死んだ」


喉の奥から言葉が溢れ出る。


息がうまく吸えない。

胸の奥が締め付けられるように痛む。


「なんで……」


「なんでッ……」


拳を握る。


爪が掌に食い込む。

けれど、その痛みすら遠い。


「何度やっても……」


「何度繰り返しても……」


「何も変わらない……!」


廊下に声が響く。


白い壁にぶつかって、かすかに返ってくる。


誰もいない。


気配がない。


人の気配も、音も、温度も。


ただ、空間だけがそこにある。


静かだ。


あまりにも、静かすぎる。


空調の音すら、遠く感じる。


「……どうにもできない」


私は壁に手をついた。


ひやりとした感触。


指先から現実が戻ってくるような気がした。


視界が揺れる。


白い廊下が歪む。


光がにじむ。


「ただ……」


「スピカが死ぬ姿を見るだけ……」


「束の間の幸せに浸って……」


「また死ぬ」


「それだけだ……」


息が荒い。


呼吸が浅く、速くなる。


胸の奥が焼けるように痛い。


心臓の鼓動が耳の奥で響く。


ドクン、ドクン、と。


「……救えない」


私はは呟く。


声がかすれる。


「異能が……スピカを殺しに来る」


その時だった。


廊下の向こうから、足音が聞こえた。


コツ、コツ。


規則的な音。


やけに軽い。


この静寂の中で、その音だけがやけに浮いていた。


顔を上げる。


ぼやけた視界の中に、影が現れる。


誰かが歩いてくる。


白衣。


水色の髪。


光を受けて、淡く透けるような色だった。


ミディアムヘアの女性。


どこか軽い足取りで、こちらへ近づいてくる。


まるで散歩でもしているみたいに。


場違いなほど、自然な歩き方だった。


そしてミラを見ると、少し目を丸くした。


「ん?」


女性は首を傾げた。


その仕草も、どこか柔らかい。


「君はミラ君じゃないか。」


ミラは固まった。


呼吸が止まる。


……誰?


見たことがない。


一度も。


今までのループで。


一度も。


女性はポケットに手を入れたまま、気軽な調子で言った。


「こんなところでどうしたんだい?」


ミラは答えられない。


頭の中で言葉が回る。


ぐるぐると、同じ思考が巡る。


……誰だ。


……誰なんだ、この人。


今まで、こんな人はいなかった。


この施設の人間は、ほとんど覚えている。


何度もループしたから。


研究員も。


警備員も。


医者も。


配置も。


巡回の時間も。


ほとんど。


なのに。


この人だけは——


知らない。


“存在していなかった”はずの人間。


ミラはゆっくり口を開いた。


「……あなたは」


女性は「ああ」と小さく頷いた。


まるで、当然の流れだと言うように。


「そうか」


「自己紹介がまだだったね」


女性は軽く笑う。


その笑みは、どこか掴みどころがない。


「私はシチ」


「この施設の研究部門の責任者だ」


ミラの目が見開かれる。


研究部門の……責任者?


その言葉だけが、妙に現実的だった。


名前は聞いたことがある。


資料で。


報告書で。


けれど。


そんな人間に会ったことはない。


一度も。


どのループでも。


一度も。


シチはミラの様子を見て、少し考えるように目を細めた。


その視線だけが、少しだけ鋭かった。


「……おかしいな」


「君の顔、どこかで見た気がする」


ミラの背筋がぞくりとした。


冷たいものが走る。


「初対面ですよ、最近ここに来たミラと申します…」


思わず強く言う。


声が少し上ずる。


シチは肩をすくめた。


「そうかい?」


「まあ、研究所なんて似た顔ばかりだからね」


軽い調子。


まるで深く考えていないような口調。


だがミラの頭の中では警鐘が鳴っていた。


おかしい。


おかしい。


今までのループで、


こんな人物は存在しなかった。


存在していたなら、絶対に覚えている。


忘れるはずがない。


こんな異質な存在を。


シチは芝居がかったように笑みを浮かべる


「君は確か、スピカのカウンセラーを任される人らしいね。」


ミラは顔を上げ、まだ掠れた声で


「なんでそれを…」


「ふふ、言っただろう?私はここのトップだからなんでも知っているんだ、どうだい?私と少し散歩しながらでも話さないかい?」


ミラは固唾を呑む。


喉がひどく乾いている。


「はい…わかりました。」


二人は施設から出る。


自動ドアが静かに開き、外の空気が流れ込んでくる。


室内の無機質な空気とは違う、温かい風。


午前九時の空は明るく、どこまでも穏やかだった。


遠くで鳥が鳴き、風が木々を揺らす——本来なら当たり前の朝の光景。


なのに、それを見ているミラの内側だけが、完全に取り残されていた。


ミラとシチ以外には誰もいない。


やけに、静かだった。


遠くで、風が木を揺らす音がする。


葉と葉が擦れ合う、ざあ、という音。


シチは一呼吸置いて話し出す


「だいぶやつれているね、何かあったのかい?涙が目元が濡れてるけど。」


ミラは乱暴に白衣の袖で涙を拭う


布が肌に擦れる。


「いえ…!なんでもありません…」


「なんでもあるは何かあるんだよ。」


シチは肩をすくめ、手すりに寄りかかる。


金属の手すりが、朝の冷気でひんやりしている。


彼女はまるでここが自分の庭のように、自然にそこに立っていた。


「まぁ、話したくないなら別にいいけどね。」


ミラは逡巡した後、質問する。


視線が少し揺れる。


「あの…所長はなぜ…この棟に…?」


そのとき。


鳥の鳴き声が響き渡る。


高く、澄んだ音。


静かな朝の空気を、まっすぐに裂くような声だった。


木々の上で、小さな影が動く。


風が吹く。


葉が揺れる。


その音に紛れて、


ほんの一瞬だけ——


ミラの胸の奥が、ざわついた。


「あぁ、それは…」


シチが言いかけた、その瞬間だった。


空気を裂くような音が、遅れて耳に届く。


ヒュッ——


視界の端に、何かが入り込む。


野球ボール。


一直線に、迷いなく。


シチのこめかみに向かって飛んでいた。


「危ない!」


私は反射的に叫んだ。


声がやけに遅く感じる。


体が動かない。

ただ、視界だけが異様に鮮明になっていく。


時間が引き伸ばされたみたいに、すべてがスローモーションになる。


ボールが近づく。


回転が見える。


縫い目が、やけにくっきりと。


——当たる。


そう思った、その刹那。


ぴたり、と。


世界が止まった。


ボールが——


シチの目の前、あと数センチの位置で。


空中に、貼り付けられたみたいに静止していた。


風もない。


揺れもない。


落ちない。


ただ、そこに「在る」。


「……え?」


間の抜けた声が漏れる。


理解が追いつかない。


さっきまで動いていたはずのものが、


“完全に止まっている”。


それは停止というより——


存在の仕方そのものが、書き換えられているみたいだった。


シチは、何事もなかったかのように一歩近づく。


そして、空中に浮かぶそれを——


当たり前みたいに、指先でつまみ取った。


「はぁ、危ないじゃないか。」


軽い調子。


まるで、落ちている物を拾っただけみたいに。


さっきまで命の軌道にあったものを。


シチはそのまま、ボールを軽く持ち替える。


無造作に腕を振る。


ビュンッ


空気が裂ける。


さっきとは比べ物にならない速度で、ボールが射出される。


一直線ではなく、綺麗な放物線を描いて空へ。


速すぎて、一瞬消えたように見える。


——次の瞬間。


それが、不自然に止まった。


今度は中空で、ぴたりと。


ありえない位置で、ありえない形で。


重力を無視するでもなく、


逆らうでもなく、


ただ“途中でやめた”みたいに。


そして、そのまま。


すとん、と力を失ったように落ちる。


コト、と乾いた音がして、地面に転がった。


「君たち!気をつけるんだよ!」


シチは何事もなかったかのように、少し離れた場所にいる男の子たちに声をかける。


声だけが、妙に日常的だった。


「すみません!」


「怪我はありませんか!」


慌てた声が返ってくる。


普通のやり取り。


普通の朝。


普通の風景。


——なのに。


一方、私の意識はそこにはなかった。


さっきの光景が、頭の中で何度も再生される。


止まった。


完全に。


偶然じゃない。


見間違いでもない。


“そうした”のだ、この人が。


今のはなんだ。


この人の異能?


喉がひどく乾く。


言葉を出すのに、わずかに時間がかかる。


「あの…今のはどういう…」


シチは振り返る。


いつも通りの、軽い表情で。


「ん?」


ほんの少しだけ、首を傾げる。


そして、あまりにも簡単に言った。


「ただ速度=0にしただけだよ。私の間合いをね。」


その言葉は、あまりにも軽くて。


あまりにも——


現実離れしていた。

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