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幽境のスピカ  作者: Penguin industry
途絶えぬ記憶
5/7

青界

水族館の建物は、箱庭の林の奥にあった。


ガラス張りの入口の向こうで、青い光がゆっくり揺れている。


中から、かすかに水の匂いが漂っていた。


「思ってたよりちゃんとしてるじゃない」


アルラが言う。


腕を組んだまま、建物を見上げていた。


ピンク色の髪が、風で少し揺れる。


「水族館なんて、もっと小さいと思ってたわ」


「箱庭は広いですから」


スピカが静かに答える。


私は入口の端末に外出記録を通した。


電子音が小さく鳴る。


「はい」


私は振り返り微笑む。


「はい、今からカウンセリング開始」


アルラが眉をひそめる。


「水族館でカウンセリング?」


「まぁ……場所が変わるだけ」


私は軽く肩をすくめる。


「やることは同じ」


アルラは少し呆れたように息を吐いた。


「便利な言葉ね」


それでも視線は入口の奥に向いている。


ガラス越しに、大きな水槽の青い光が揺れていた。


「行きましょう」


スピカが小さく言う。


三人で中へ入った。


館内は少し暗い。


天井の照明が柔らかく落ちていて、床に青い光が揺れている。


最初の水槽には、小さな魚の群れが泳いでいた。


銀色の体が光を反射して、波のように動く。


スピカが水槽の前で立ち止まる。


「きれいですね」


魚の群れが一斉に方向を変える。


光が揺れる。


アルラが少し顔を近づけた。


「同じ方向にしか行かないのね」


私は水槽を見る。


「群れの魚ですから」


アルラはしばらく眺めていた。


それから小さく言う。


「ぶつからないのかしら」


「たまにぶつかるらしい」


私は肩をすくめる。


「でも、大体はうまく避けるみたい」


アルラは腕を組む。


「変なの」


そう言いながら、水槽から目を離さない。


しばらくして、アルラが指をさした。


「スピカ」


「はい?」


「あれ」


岩の隙間から細長い魚が顔を出していた。


鋭い歯が並んでいる。


「ウツボですね」


スピカが言う。


アルラが目を細める。


「歯すごいじゃない」


魚が口を開いた。


私は少し笑う。


「近づいたら危ないね」


「絶対噛むやつね」


アルラが言う。


「噛みますね」


スピカが頷く。


アルラが小さく頷いた。


「やっぱり」


アルラは少し楽しそうだった。


次の水槽の前で、アルラがまた立ち止まる。


砂の中から、細い魚が何本も顔を出していた。


ゆらゆら揺れている。


アルラが眉をひそめる。


「……何これ」


私が言う。


「チンアナゴ」


「名前ふざけてる?」


「真面目な名前」


アルラは少ししゃがみこんで水槽を覗き込んだ。


チンアナゴがゆらゆら揺れる。


「ずっと立ってるだけ?」


スピカが説明する。


「危ないと引っ込みます」


アルラが近づく。


その瞬間。


シュッ。


一斉に砂に引っ込んだ。


アルラが一瞬固まる。


「……逃げた」


私は笑う。


「警戒心強いんだよ」


アルラは腕を組む。


「感じ悪い魚ね」


スピカが少し笑った。


「アルラちゃんが怖かったのかもしれません」


アルラが振り向く。


「どういう意味?」


「強そうなので」


アルラは少し考えてから言う。


「まぁ、否定はしない」


次の水槽には、オレンジ色の小さな魚が泳いでいた。


白い模様が入っている。


スピカが少し嬉しそうに言う。


「カクレクマノミです」


アルラが水槽を見る。


「小さいわね」


「イソギンチャクと一緒に暮らす魚です」


スピカが言う。


アルラが目を細める。


「そのトゲトゲのやつ?」


「毒があるらしい」


私は言う。


「でもこの魚は平気」


アルラは少し考える。


「じゃあこの魚、ずるくない?」


「ずるい?」


「他の魚は刺されるんでしょ」


ミラは肩をすくめる。


「共生ってやつ」


スピカが水槽を見ながら言う。


「お互い助け合ってるらしいです」


アルラが小さく言う。


「ふーん」


それから少しだけ笑った。


「便利な友達ね」


クラゲの水槽の前は、少し暗かった。


青い光が水の中をゆっくり揺れている。


透明な体が静かに浮かんでいた。


アルラが足を止める。


「……クラゲ」


傘のような丸い体がふわりと縮み、またゆっくり広がる。


触手が細い糸のように揺れていた。


アルラが顔を近づける。


「泳いでるの?」


私は水槽を見る。


「体を縮めて、水を押し出して進むらしい」


スピカが言う。


「ポンプみたいな感じですね」


アルラはしばらく黙って見ていた。


「……でも」


「弱そう」


私が少し笑う。


スピカが言う。


「クラゲって、九割くらい水らしいです」


アルラが目を細める。


「え?」


「ほとんど水」


アルラはクラゲを見つめた。


「じゃあ、ほとんど水じゃない」


クラゲがまたゆっくり動く。


青い光が揺れた。


スピカが静かに言う。


「でも、綺麗です」


アルラは少し黙った。


それから小さく言う。


「……そうね」


館内の照明が少し暗くなる。


深海エリアだった。


水槽の中に、見たことのない魚がいた。


黒くて、目が大きい。


アルラが顔をしかめる。


「……怖い顔」


私が言う。


「深海魚」


「なんでこんな顔なの」


「暗いから」


アルラが首を傾げる。


「暗いとこうなるの?」


スピカが少し考える。


「光が少ないから……目が大きくなるとか」


アルラは魚を見つめた。


「進化って不思議ね」


それから小さく言う。


「でも、ちょっと可哀想」


私が聞く。


「どうして?」


アルラは水槽を見たまま言う。


「こんな暗いところでしか生きられないんでしょ」


少し沈黙が流れた。


そのとき。


スピカの足が少し止まる。


私はすぐ気づく。


「スピカ」


「……少しだけ」


アルラが振り向く。


「どうしたの」


「ちょっと目眩が」


アルラの表情が変わる。


「座りなさい」


「でもまだ」


「いいから」


アルラは近くのベンチを指す。


「休みなさい」


スピカは少し迷う。


私は言う。


「座ろう」


スピカは小さく頷いた。


ベンチに座る。


アルラは腕を組んで立っていた。


「さっきから顔白いじゃない」


スピカが申し訳なさそうに言う。


「すみません」


アルラは少し眉をしかめる。


「謝らなくていいわ」


少し間。


アルラは小さく言った。


「……心配するでしょ」


少し休んでから、また歩き出す。


通路が広くなる。


巨大な水槽が現れた。


黒と白の影が、水の中をゆっくり泳いでいる。


「……シャチ」


スピカが小さく言う。


アルラも水槽を見る。


「大きいわね」


シャチがガラスの前を横切る。


巨大な体が、水の中でゆっくり旋回する。


スピカが静かに言った。


「……好きなんです」


アルラが振り向く。


「何が?」


スピカは少し照れたように笑う。


「シャチ」


アルラは少し驚いた顔をする。


「そうなの?」


スピカは頷いた。


「強いから」


シャチが水の中を回る。


スピカはその影を目で追っていた。


「それに」


少し間。


「家族で一緒にいるって書いてありました」


アルラは黙る。


スピカは続ける。


「守ったり、助けたりするんですよね」


シャチがまた旋回する。


スピカは小さく笑った。


「そういうの、いいなって思って」


アルラは少しだけスピカの前に立つ。


自然と、守るような位置だった。


それから言う。


「いいじゃない」


スピカが振り向く。


「何がですか?」


「そういうの」


アルラは水槽を見たまま言う。


「守るやつ」


スピカは少し考える。


それから笑った。


「アルラちゃんみたいですね」


アルラが振り向く。


「は?」


「守ってくれるから」


アルラは一瞬黙る。


それから顔をそらした。


「調子乗らないで」


水槽の中で、シャチがゆっくり泳いでいた。


水族館を出ると、林の風が少し涼しかった。


三人で林道を歩く。


しばらく誰も話さない。


葉が揺れる音だけが続く。


スピカが少し前を歩いている。


そのとき。


後ろから声がした。


「……ねえ」


アルラだった。


振り向くと、彼女は前を向いたままだった。


「何?」


私が聞く。


アルラは少し黙る。


それから言う。


「あなた」


一瞬だけこちらを見る。


すぐ前を向く。


「スピカのこと」


少し間。


「ちゃんと見てるのね」


林道の風が静かに吹く。


私は少しだけ笑う。


アルラは何も言わない。


数歩歩く。


それから小さく言った。


「……そう」


さらに少し歩く。


アルラは前を向いたまま言う。


「少しは」


振り返らない。


「信用してもいいかも」


前を歩いていたスピカが振り向く。


「どうしました?」


アルラはすぐ言う。


「なんでもないわ」


スピカは少し首を傾げて、それから小さく笑った。


林の向こうで、施設の白い建物が光っていた。


箱庭の空は、今日も静かだった。

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