青界
水族館の建物は、箱庭の林の奥にあった。
ガラス張りの入口の向こうで、青い光がゆっくり揺れている。
中から、かすかに水の匂いが漂っていた。
「思ってたよりちゃんとしてるじゃない」
アルラが言う。
腕を組んだまま、建物を見上げていた。
ピンク色の髪が、風で少し揺れる。
「水族館なんて、もっと小さいと思ってたわ」
「箱庭は広いですから」
スピカが静かに答える。
私は入口の端末に外出記録を通した。
電子音が小さく鳴る。
「はい」
私は振り返り微笑む。
「はい、今からカウンセリング開始」
アルラが眉をひそめる。
「水族館でカウンセリング?」
「まぁ……場所が変わるだけ」
私は軽く肩をすくめる。
「やることは同じ」
アルラは少し呆れたように息を吐いた。
「便利な言葉ね」
それでも視線は入口の奥に向いている。
ガラス越しに、大きな水槽の青い光が揺れていた。
「行きましょう」
スピカが小さく言う。
三人で中へ入った。
館内は少し暗い。
天井の照明が柔らかく落ちていて、床に青い光が揺れている。
最初の水槽には、小さな魚の群れが泳いでいた。
銀色の体が光を反射して、波のように動く。
スピカが水槽の前で立ち止まる。
「きれいですね」
魚の群れが一斉に方向を変える。
光が揺れる。
アルラが少し顔を近づけた。
「同じ方向にしか行かないのね」
私は水槽を見る。
「群れの魚ですから」
アルラはしばらく眺めていた。
それから小さく言う。
「ぶつからないのかしら」
「たまにぶつかるらしい」
私は肩をすくめる。
「でも、大体はうまく避けるみたい」
アルラは腕を組む。
「変なの」
そう言いながら、水槽から目を離さない。
しばらくして、アルラが指をさした。
「スピカ」
「はい?」
「あれ」
岩の隙間から細長い魚が顔を出していた。
鋭い歯が並んでいる。
「ウツボですね」
スピカが言う。
アルラが目を細める。
「歯すごいじゃない」
魚が口を開いた。
私は少し笑う。
「近づいたら危ないね」
「絶対噛むやつね」
アルラが言う。
「噛みますね」
スピカが頷く。
アルラが小さく頷いた。
「やっぱり」
アルラは少し楽しそうだった。
次の水槽の前で、アルラがまた立ち止まる。
砂の中から、細い魚が何本も顔を出していた。
ゆらゆら揺れている。
アルラが眉をひそめる。
「……何これ」
私が言う。
「チンアナゴ」
「名前ふざけてる?」
「真面目な名前」
アルラは少ししゃがみこんで水槽を覗き込んだ。
チンアナゴがゆらゆら揺れる。
「ずっと立ってるだけ?」
スピカが説明する。
「危ないと引っ込みます」
アルラが近づく。
その瞬間。
シュッ。
一斉に砂に引っ込んだ。
アルラが一瞬固まる。
「……逃げた」
私は笑う。
「警戒心強いんだよ」
アルラは腕を組む。
「感じ悪い魚ね」
スピカが少し笑った。
「アルラちゃんが怖かったのかもしれません」
アルラが振り向く。
「どういう意味?」
「強そうなので」
アルラは少し考えてから言う。
「まぁ、否定はしない」
次の水槽には、オレンジ色の小さな魚が泳いでいた。
白い模様が入っている。
スピカが少し嬉しそうに言う。
「カクレクマノミです」
アルラが水槽を見る。
「小さいわね」
「イソギンチャクと一緒に暮らす魚です」
スピカが言う。
アルラが目を細める。
「そのトゲトゲのやつ?」
「毒があるらしい」
私は言う。
「でもこの魚は平気」
アルラは少し考える。
「じゃあこの魚、ずるくない?」
「ずるい?」
「他の魚は刺されるんでしょ」
ミラは肩をすくめる。
「共生ってやつ」
スピカが水槽を見ながら言う。
「お互い助け合ってるらしいです」
アルラが小さく言う。
「ふーん」
それから少しだけ笑った。
「便利な友達ね」
クラゲの水槽の前は、少し暗かった。
青い光が水の中をゆっくり揺れている。
透明な体が静かに浮かんでいた。
アルラが足を止める。
「……クラゲ」
傘のような丸い体がふわりと縮み、またゆっくり広がる。
触手が細い糸のように揺れていた。
アルラが顔を近づける。
「泳いでるの?」
私は水槽を見る。
「体を縮めて、水を押し出して進むらしい」
スピカが言う。
「ポンプみたいな感じですね」
アルラはしばらく黙って見ていた。
「……でも」
「弱そう」
私が少し笑う。
スピカが言う。
「クラゲって、九割くらい水らしいです」
アルラが目を細める。
「え?」
「ほとんど水」
アルラはクラゲを見つめた。
「じゃあ、ほとんど水じゃない」
クラゲがまたゆっくり動く。
青い光が揺れた。
スピカが静かに言う。
「でも、綺麗です」
アルラは少し黙った。
それから小さく言う。
「……そうね」
館内の照明が少し暗くなる。
深海エリアだった。
水槽の中に、見たことのない魚がいた。
黒くて、目が大きい。
アルラが顔をしかめる。
「……怖い顔」
私が言う。
「深海魚」
「なんでこんな顔なの」
「暗いから」
アルラが首を傾げる。
「暗いとこうなるの?」
スピカが少し考える。
「光が少ないから……目が大きくなるとか」
アルラは魚を見つめた。
「進化って不思議ね」
それから小さく言う。
「でも、ちょっと可哀想」
私が聞く。
「どうして?」
アルラは水槽を見たまま言う。
「こんな暗いところでしか生きられないんでしょ」
少し沈黙が流れた。
そのとき。
スピカの足が少し止まる。
私はすぐ気づく。
「スピカ」
「……少しだけ」
アルラが振り向く。
「どうしたの」
「ちょっと目眩が」
アルラの表情が変わる。
「座りなさい」
「でもまだ」
「いいから」
アルラは近くのベンチを指す。
「休みなさい」
スピカは少し迷う。
私は言う。
「座ろう」
スピカは小さく頷いた。
ベンチに座る。
アルラは腕を組んで立っていた。
「さっきから顔白いじゃない」
スピカが申し訳なさそうに言う。
「すみません」
アルラは少し眉をしかめる。
「謝らなくていいわ」
少し間。
アルラは小さく言った。
「……心配するでしょ」
少し休んでから、また歩き出す。
通路が広くなる。
巨大な水槽が現れた。
黒と白の影が、水の中をゆっくり泳いでいる。
「……シャチ」
スピカが小さく言う。
アルラも水槽を見る。
「大きいわね」
シャチがガラスの前を横切る。
巨大な体が、水の中でゆっくり旋回する。
スピカが静かに言った。
「……好きなんです」
アルラが振り向く。
「何が?」
スピカは少し照れたように笑う。
「シャチ」
アルラは少し驚いた顔をする。
「そうなの?」
スピカは頷いた。
「強いから」
シャチが水の中を回る。
スピカはその影を目で追っていた。
「それに」
少し間。
「家族で一緒にいるって書いてありました」
アルラは黙る。
スピカは続ける。
「守ったり、助けたりするんですよね」
シャチがまた旋回する。
スピカは小さく笑った。
「そういうの、いいなって思って」
アルラは少しだけスピカの前に立つ。
自然と、守るような位置だった。
それから言う。
「いいじゃない」
スピカが振り向く。
「何がですか?」
「そういうの」
アルラは水槽を見たまま言う。
「守るやつ」
スピカは少し考える。
それから笑った。
「アルラちゃんみたいですね」
アルラが振り向く。
「は?」
「守ってくれるから」
アルラは一瞬黙る。
それから顔をそらした。
「調子乗らないで」
水槽の中で、シャチがゆっくり泳いでいた。
水族館を出ると、林の風が少し涼しかった。
三人で林道を歩く。
しばらく誰も話さない。
葉が揺れる音だけが続く。
スピカが少し前を歩いている。
そのとき。
後ろから声がした。
「……ねえ」
アルラだった。
振り向くと、彼女は前を向いたままだった。
「何?」
私が聞く。
アルラは少し黙る。
それから言う。
「あなた」
一瞬だけこちらを見る。
すぐ前を向く。
「スピカのこと」
少し間。
「ちゃんと見てるのね」
林道の風が静かに吹く。
私は少しだけ笑う。
アルラは何も言わない。
数歩歩く。
それから小さく言った。
「……そう」
さらに少し歩く。
アルラは前を向いたまま言う。
「少しは」
振り返らない。
「信用してもいいかも」
前を歩いていたスピカが振り向く。
「どうしました?」
アルラはすぐ言う。
「なんでもないわ」
スピカは少し首を傾げて、それから小さく笑った。
林の向こうで、施設の白い建物が光っていた。
箱庭の空は、今日も静かだった。




