静日
白い部屋は、いつも同じ匂いがする。
消毒液と、少し乾いた空気の匂い。窓から入る光が床に四角く落ちていて、その中を小さな埃がゆっくり漂っていた。
あの日のカウンセリングから、一週間ほどが過ぎていた。
箱庭の時間は、静かに同じ形を繰り返している。
椅子に座ったスピカは、変わらず窓の方を見ていた。
私は向かいの椅子に腰を下ろし、手元の端末を軽く確認する。
「体調はどう?」
スピカはゆっくり顔を上げた。
「大丈夫です」
短く答える。
それから少し考えるようにして、言葉を足した。
「今日は……よく眠れました」
「それは良かった」
私は小さく頷く。
部屋の中は静かだった。
遠くの廊下から、かすかな足音だけが聞こえてくる。
スピカは膝の上で指を組みながら、少しだけ視線を落としていた。
「ここには、慣れてきた?」
そう聞くと、スピカは少し首を傾げた。
「……まだ、少し」
「そっか」
窓の外では、木の葉が風に揺れている。
箱庭の空は、今日も穏やかだった。
しばらく沈黙が続く。
スピカは光の落ちた床を見ていた。
私は端末を閉じる。
「そういえば」
何気ない調子で言った。
「この前、廊下で会ったよ」
スピカが顔を上げる。
「え?」
「ピンク色の髪の子」
私は思い出すように視線を少し上げた。
「壁にもたれて、腕組んでた」
スピカの目が少し丸くなる。
「……アルラちゃん?」
「多分」
私は頷く。
「スピカの担当なんでしょって聞かれた」
スピカは少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「そうなんですか」
その表情は、前よりも少し柔らかい。
「アルラちゃん……」
スピカは小さく呟く。
「心配してたんだと思います」
私は腕を組む。
「泣かせたら許さないって言われた」
そう言うと、スピカは少しだけ目を伏せた。
それから困ったように笑う。
「……言いそうです」
部屋の中に、小さな静けさが戻る。
窓から入る光が、ゆっくり床を動いていた。
私はスピカを見る。
「仲いいの?」
そう聞くと、スピカは少しだけ考えてから答えた。
「……ここに来て、最初に話しかけてくれたのがアルラちゃんなんです」
その声は、どこか懐かしむようだった。
「私がまだ施設に慣れてなくて……」
スピカは膝の上の指を少し動かす。
「廊下で迷っていたら、急に声をかけてきて」
「なんて?」
私は聞く。
スピカは少し笑った。
「『あんた新入りでしょ』って」
思い出しているのか、その目が少し柔らかくなる。
「それで、『変な奴に絡まれたら呼びな』って言われました」
「頼もしいね」
「はい」
スピカは小さく頷く。
それから少し考えるようにして言った。
「アルラちゃん、態度はちょっと怖いんですけど」
「うん」
「でも……優しいんです」
窓の外で風が吹き、葉が静かに揺れた。
しばらく沈黙が落ちる。
スピカはそのまま外を見ていた。
そして、ぽつりと言う。
「この前、アルラちゃんが言ってたんです」
「何を?」
「箱庭に、水族館があるって」
私は少しだけ眉を上げた。
「ああ」
「ありますよね」
「あるね」
箱庭の敷地は広い。
研究施設だけじゃなく、生活施設もいくつかある。その中に、小さな水族館もあった。
スピカは少しだけ視線を落とす。
「行ってみたいなって思って」
その声はとても小さかった。
「でも……」
言葉を止める。
「勝手には行けないですよね」
私は椅子の背にもたれた。
「まあ、勝手には無理だね」
スピカは静かに頷く。
少しだけ残念そうだった。
私はその様子を見ながら言う。
「でも、外出許可は出るよ」
スピカが顔を上げる。
「え?」
「箱庭の中ならね」
私は窓の外をちらりと見る。
「ただし条件付き」
スピカは少し身を乗り出した。
「条件……?」
「カウンセラーの付き添い」
私は軽く肩をすくめる。
「異能事故の防止ためにね。」
その言葉に、スピカは少しだけ黙る。
訓練棟の話を思い出したのかもしれない。
私は続けた。
「もし行きたいなら」
少し考えてから言う。
「次のカウンセリング、外でやる?」
スピカは目を瞬かせた。
「え……」
「水族館カウンセリング」
私は少し笑う。
「たまには場所を変えるのも悪くない」
スピカは驚いたまま、しばらく黙っていた。
それから遠慮がちに聞く。
「……アルラちゃんも、一緒でいいですか」
「もちろん」
私はすぐに答える。
「人数は問題ないよ」
スピカは少しだけ考える。
それから、小さく頷いた。
「……行きたいです」
その声は、とても静かだった。
けれど、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
窓の外では、風がまた木の葉を揺らしていた。
それから、数日が過ぎた。
箱庭の中央通路は、昼の光で白く照らされている。
私は水族館の入口前に立っていた。
ガラス越しに、青い光がゆっくり揺れている。
腕時計を見る。
約束の時間まで、あと少し。
その時——
「ミラさん」
声がした。
振り向くと、スピカが立っていた。
少しだけ息を弾ませている。
「ごめんなさい、少し遅れました」
「大丈夫」
私は軽く手を振る。
「アルラちゃんは?」
スピカは周囲を見回す。
「もうすぐ来ると思うんですけど……」
その時。
後ろから声がした。
「来てるけど」
振り向く。
少し離れた柱の横に、少女が立っていた。
肩のあたりで揺れるピンク色の髪。
腕を組みながら、こちらを見ている。
アルラだった。
「……あんた」
アルラは私を見て言った。
「ほんとに来たんだ」
私は軽く肩をすくめる。
「付き添いだからね」
アルラは小さく鼻を鳴らした。
それから視線を逸らす。
「……別に、信用してるわけじゃないから」
その言葉のあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちた。
水族館のガラス越しに、青い光が揺れている。
スピカはその二人を見て、少しだけ困ったように笑った。
箱庭の空は、今日も静かだった。




