予兆
林道には、まだ甘い匂いが残っていた。
焼きたての生地の香りと、甘い果実の匂い。風に混ざって、かすかに漂ってくる。さっきまでいたクレープ屋の気配が、この道の空気にまだ残っているようだった。
クレープ屋を出てから、二人はゆっくりと歩いている。
木々の間を抜ける風が、枝葉を小さく揺らしていた。葉と葉が触れ合う音が、静かな林道に細く続く。
足元では砂利が小さく鳴る。
その音だけが、二人の歩く速度を確かめるように響いていた。
スピカは紙を折りたたみながら言った。
「甘いもの、久しぶりでした。」
その声はどこか柔らかい。さっきよりも少しだけ、緊張がほどけているように聞こえた。
私は少し笑う。
「箱庭の中にも、意外と色々あるんだよ。」
「そうなんですね」
スピカは少し周囲を見回した。
林の向こうに、白い建物の屋根が見えている。朝の光がその壁を照らし、淡く反射していた。
施設の建物はどれも似ている。白い壁と、直線的な窓。整然としているのに、どこか冷たい印象があった。
砂利道を踏む音が、静かに続く。
しばらく歩いたところで、スピカが小さく言った。
「さっきの花……」
「スターチス?」
「はい」
スピカは少し考えるようにしてから続けた。
「色が好きなんです。落ち着くので」
風が吹いた。
林の葉が揺れ、光がちらつく。
その瞬間——
足元の落ち葉が、ふわりと舞い上がった。
強い風ではない。
それなのに、数枚の葉だけが不自然に浮き、ゆっくりと二人の前へ落ちる。
私は一瞬、足を止めた。
「……」
けれど、スピカは気づいていない様子だった。
ただ前を歩きながら、静かに林の奥を見ている。
風はすぐに止んだ。
落ち葉は何事もなかったように地面に戻る。
私は少しだけ振り返った。
林の奥は静かだ。
さっきまでと何も変わらない。
(……もうか)
そう思いながら、また歩き出す。
やがて林を抜けると、施設の建物が見えてきた。
白い壁の大きな建物がいくつも並んでいる。朝の光を受けて、その壁が淡く輝いていた。
それぞれ形は違うが、どこか無機質な雰囲気は共通している。
スピカが視線を向ける。
「あの建物は……?」
指差した先には、広いグラウンドのような場所があった。
高い柵で囲まれた空間。その中央に、何本かの鉄柱が立っている。地面は砂地で、所々に黒い跡のようなものが残っていた。
「あれは訓練棟って言ってね。」
私は答えた。
「能力のコントロールを練習する場所だよ」
スピカは黙ってそれを見ていた。
鉄柱の一本は、わずかに曲がっている。地面にも浅くえぐれた跡が残っていた。砂が焼けたように黒くなっている場所もある。
「……あの跡は?」
スピカが静かに聞いた。
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「あれは…異能事故。」
短く答える。
「制御できないと、ああなることもある」
スピカはもう一度、鉄柱を見る。
曲がった鉄。
えぐれた地面。
しばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……危ないですね。」
「だから訓練するんだよ」
私は軽く肩をすくめる。
「異能っていうのは、意外と扱いが難しいから」
スピカは小さく頷いた。
それ以上は何も言わない。
再び歩き出す。
やがて、施設の入口が見えてきた。
大きな扉の上には、丸い時計が掛かっている。
私は何気なくそれを見上げた。
針は、ゆっくりと動いていた。
静かな音もなく、ただ淡々と。
その針を見ていると、胸の奥にわずかな違和感が残る。
理由は分からない。
けれど——
(まだ……大丈夫)
そんな感覚だけが、ぼんやりと浮かんだ。
入口を通り、廊下へ入る。
外の光が消え、空気が少し冷たくなる。
白い壁。静かな床。
足音が、また静かに響き始めた。
やがて、スピカの部屋の前に着く。
淡い水色のプレート。
最初に訪れた時と同じ扉。
私は立ち止まった。
「今日はここまでにしよう」
スピカが顔を上げる。
「もうですか?」
「うん」
私は軽く笑う。
「初回はこのくらいがちょうどいい」
スピカは少し考えてから、小さく頷いた。
「……わかりました」
扉の前で、少しだけ沈黙が落ちる。
スピカはドアノブに手を掛けた。
それから、ふと振り返る。
「ミラさん」
「ん?」
「また……来てくれますか?」
その声は小さかった。
けれど、まっすぐだった。
私は迷わず答える。
「もちろん」
スピカは、ほんの少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
扉が開く。
室内の白い光が、廊下へこぼれた。
スピカは中に入り、静かにドアを閉める。
小さな音が、廊下に残った。
私はその場に少しだけ立っていた。
それから、ゆっくり歩き出す。
曲がり角に差し掛かった時——
「……あんた」
声がした。
壁にもたれて、少女が立っている。
腕を組みながら、こちらをじっと見ていた。
肩のあたりで揺れる髪は、淡いピンク色だった。蛍光灯の光を受けて、柔らかく光っている。
どこか不機嫌そうな目。
少女は顎を少し上げる。
「新しいカウンセラー?」
私は足を止めた。
「そうだけど」
少女は小さく鼻を鳴らす。
「ふーん」
そして、ちらりとスピカの部屋の方を見る。
「スピカの担当なんでしょ?」
その言い方は、少しだけ刺があった。
けれど同時に、どこか気にしているようでもある。
私は少女を見る。
「そうだよ」
少女はしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと呟く。
「……泣かせたら許さないから」
廊下の空気が、静かに揺れる。
私は少しだけ笑った。
「泣かせないよ」
少女は眉をひそめる。
その視線をまっすぐ受けながら、私は続けた。
「……絶対」
一瞬だけ、廊下の時間が止まったような気がした。
少女は少しだけ目を細める。
それから、ふいっと視線を逸らす。
「……ふん」
廊下には、また静けさだけが残った。




