巡刻
この物語を読んでいただきありがとうございます。
ゆっくりとした話ですが、最後まで付き合っていただけたら嬉しいです。
静まり返った施設の廊下を、私はただ佇んでいた。
空気はひんやりと冷たく、朝の光が淡く床に伸びている。
呼吸が、うまく整わない。
目元には涙が滲んでいる。
浅い呼吸が何度も喉に引っかかる。
肺の奥まで空気が届かないような感覚。
胸の鼓動だけが妙に速い。
私は足を止める。
静かな廊下の中で、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
手のひらには、いつの間にか冷たい汗が滲んでいる。
一度、深く息を吸う。
冷たい空気が肺に入る。
ゆっくり吐く。
もう一度、同じことを繰り返す。
しばらくすると、ようやく呼吸が落ち着いた。
私は小さく息を吐いて、また歩き出す。
廊下は相変わらず静まり返っていた。
朝の光が床に淡く差し込んでいる。
窓から差す光が白い壁を照らし、静かな空気の中に柔らかく広がっていた。
この時間の廊下はいつも静かだ。
職員の多くはまだ業務室にいるし、被験者たちもそれぞれの部屋で過ごしている。
靴底が床を踏む音だけが、一定の間隔で響いていた。
その音が、まるで遠くの時計の針のように感じられる。
手に握ったカルテは、まだ少し温かい。
「おい、なにぼーっと突っ立てるんだ?」
背後から、不意に上司の声が落ちてきた。
振り返る。
そこには、いつもと変わらない無表情の顔があった。感情の温度を感じさせない目で、まっすぐにこちらを見ている。
その手には、一冊のカルテ。
「今日から、お前が受け持つのはこいつだ」
差し出されたそれを、私は静かに受け取った。
紙の束の重みが、妙に指先に残る。
上司は肩をわずかにすくめた。
「まあ……大丈夫だとは思うがな」
軽く言ったつもりなのだろう。
だが、続いた言葉は重かった。
「扱いを間違えれば危険だ。そこだけは覚えておけ」
声音は相変わらず淡々としている。
それなのに、その一言は胸の奥に沈むような重さを帯びていた。
私は小さく頷く。
「異能力者のカウンセリングは初めてか?」
上司が尋ねた。
「…ええ」
息を整え短く答える。
「理屈は普通のカウンセリングと同じです。違うのは……対象…だけだと思います…」
一瞬の沈黙。
「そう単純なら、苦労はしないがな」
上司はそう言って、ほんのわずかに口の端を上げた。
笑ったというより、皮肉に近い表情だった。
「能力は感情に影響される。精神が不安定になれば、それだけ危険性も増す。」
ゆっくりと言葉が落ちてくる。
「だからカウンセラーが必要だ」
私はもう一度頷いた。
「理解しています。」
上司はそれ以上何も言わなかった。
私はカルテを抱え、廊下の奥へと歩き出した。
やがて、廊下の突き当たりに一つの扉が見えてくる。
淡い水色のプレート。
小さく番号が刻まれていた。
その前で、私は小さく息を吐いた。
扉の向こうに、誰がいるのか私は知っている。
そして扉を押す。
静かな軋みとともに、扉が開いた。
室内には、少女が一人だけ座っていた。
窓際の椅子。
白い光の差し込むその場所に、彼女は小さく腰掛けている。
白いテーブルの上を、指先がゆっくりとなぞっていた。
意味のない動き。けれど、なぜか目を引く静かな仕草。
髪はボブヘア。
窓からの光を受けるたび、淡くきらめいた。
銀とも青ともつかない色が、細い髪のあいだを流れる。
夜空を横切る光の帯――
ふと、天の川を思わせるような、不思議な色だった。
部屋は静かだった。
時計の音さえ聞こえないほどの静けさ。
けれど、その静けさはただ穏やかなものではない。
水面のように穏やかなのに、覗き込めば底が見えない。
そんな気配が、この部屋にはあった。
その中心にいるのが、目の前の少女だ。
やがて――
テーブルをなぞっていた指が止まる。
少女が、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなたが私のカウンセラーさんですか?」
小さな声だった。
けれど、視線はしっかりこちらを見ている。
「私はスピカです。」
私はゆっくり部屋の中へ入る。
机と椅子だけの簡素な部屋だった。
壁も床も白く、余計なものは置かれていない。
「こんにちは、私は今日からは君のカウンセラーになったミラ、よろしくね」
そう言うと、スピカは小さく頷いた。
「よろしくお願いします」
声は穏やかだ。
私は机の上にカルテを置き、軽く開いた。
白いカルテの紙を開くと、そこには文字が並んでいた。
「対象者:スピカ」
「能力:不明」
「安定性:変動あり」
「注意事項:精神状態による危険性増大」
観測された現象は一貫性に欠け、明確な能力分類は不可能とされている。
ただし複数の記録に鑑みて
現時点では、因果関係に干渉する能力の可能性が示唆されているが、詳細は依然として不明
私は指で文字をゆっくりとなぞった後カルテを閉じる。
そしてスピカを見る。
彼女は静かにこちらを見返していた。
その瞳の奥が、ほんの一瞬揺れた気がする。
まるで、水面のように。
「緊張してる?」
私は軽く聞いた。
スピカは少し考えてから答えた。
「……少しだけ」
「ここに来てから、カウンセリングは受けたことある?」
「いえ」
首を横に振る。
「今日が初めてです」
「じゃあ簡単に説明しておこうか。」
私は椅子に腰掛けながら言った。
「難しいことはしないよ。ただ、君のことを知るだけ。」
「知る?」
「どういう時に落ち着くのかとか、何が嫌なのかとか。そういうことだよ」
スピカは少し考えてから、小さく頷いた。
「……それで、能力も安定するんですか?」
私はスピカの質問に口ごもる。
「場合によるね。」
「でも、心が落ち着いている方が能力も安定しやすい」
スピカは小さく言った。
「そうなんですね」
少し沈黙が落ちる。
部屋の外から、かすかに風の音が聞こえた。
私は立ち上がる。
「少し外を歩かない?」
私が言うと、スピカは少し驚いたようだった。
「外、ですか?」
「うん。気分転換。カウンセリングは、話しやすい場所の方がいいからね」
スピカは少し考えてから、小さく頷いた。
私たちは廊下を歩き、施設の外庭へ出る。
朝の空気はひんやりしていた。
外に出た瞬間、スピカが少し目を細めた。
太陽の光が強かったのかもしれない。
風が木の葉を揺らし、柔らかな光が庭に落ちている。
「外に出るの、久しぶり?」
私が聞く。
スピカはゆっくり周囲を見回した。
「はい」
「ここに来てから、あまり外には出ないので。」
「外に出るのは嫌い?」
「いいえ」
スピカは少し考えてから言う。
「ただ静かな場所が好きです」
その言い方が、どこか慎重だった。
花壇には、いくつかの花が咲いていた。
白い花。
紫の花。
小さな黄色い花。
スピカは、歩きながらその一つをじっと見ていた。
——この子は、いつもこの花の前で立ち止まる。
私はそれを見て言った。
「君はあの花が好きなの?」
スピカが足を止めた。
「え?」
驚いたようにこちらを見る。
「あ……はい」
少し間を置いて、彼女は頷いた。
「なんでわかったんですか?」
私は花壇に目を向ける。
そして、少しだけ考えてから答えた。
「ただ——君がそれを見ていたからかな」
スピカは不思議そうな顔をした。
それから、首を傾げた。
「不思議ですね」
「何が?」
「花を見ていただけなのに、気づかれるなんて」
私は少し肩をすくめる。
「人は、意外と視線に出るものだからね」
「そうなんですね」
そうスピカは小さく頷いた。
それから、また花壇の方へ視線を戻す。
「この花、好きなんです」
小さく言った。
「色が落ち着くので」
風が静かに吹く。
やわらかな風に押されて、花がゆっくりと揺れた。花びらが触れ合い、その影もまた地面の上でかすかに揺れている。
私はその様子を、少し離れた場所から眺めていた。
風と花の揺れだけが、静かに時間を動かしている。
スピカは、花のそばに立っていた。
ただ何も言わず、じっと花を見つめている。
風に髪を揺らしながら、静かに、ただ静かに花を見ていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語を見届けてくださったこと、本当に嬉しく思います。
もしどこかの場面が、少しでも心に残ってくれたなら幸いです。
改めて、ありがとうございました。




