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34話 あなたは……誰を見ていますか?


「奥様⁉」

「なぜっ……⁉」


 突然現れたお母様を見て、カンナとアネッサが同時に声を上げた。二人も知らなかったみたいで、本当に驚いているみたい。


「……」


 二人のことを見ないで扇を口元に開いたまま、ジッとお母様が私とお姉さまを見てくる。


『……気持ち悪い』


 顰め面になったスクルのボソッと呟いた言葉に、思わず心の中でうんと頷いた。


 約三年ぶりだ。お母様とこうやって会うのは。

 なのに、この姿は何? お母様って、こんなだった?


 顔は一緒。身長だって低くなってもいないし、体型だって変わっていない。


 でも、纏う空気が違い過ぎる。

 向けてくるその瞳の奥が、暗く淀んでいるのが分かる。


 ただ対峙しているだけなのに、目が合っただけなのに、ツーっと背中に嫌な汗を感じた。

 お母様からの視線が、これだけ重たく感じるのも初めてだ。その圧迫感に何も言葉が出てこない。


「……奥様、何故こちらに? バール様からは何も聞いておりませんが」

「あらアネッサ。奥様が許してもいないのにあなたから話すとは、随分と偉くなったものですね」


 お母様の横隣から、これまた久しぶりにジルの声が聞こえた。椅子に座っているからお母様の陰になって見えなかったよ。


 でも一歩前に出て現れたジルも、どこか雰囲気が違って見える。姿は同じ、声も同じ。でもやっぱり違うと頭が警鐘を鳴らしている気がする。


 ――お姉さまは大丈夫かな?


 さっき一瞬震えてから、すぐにお姉さまは手を下ろした。チラリとお姉さまの方に視線を動かすと、もう私の方ではなく、お母様たちの方を見ている。


 怖くないかな? 大丈夫かな? と思ってキュッと手を握ると、私の方をチラッと見てから、また視線を戻していた。その顔に怯えと恐怖は感じない。


 意外と大丈夫そうかも? それならちょっと安心だけど、でも油断できない。お母様が何を言ってくるか分かったものじゃない。


「そもそも、奥様がここにいることに何か不都合でもあるのかしら?」


 ジルの声でついお母様たちの方に視線を戻す。ジルはどこかバカにするかのように笑いながらアネッサとカンナに向かって話していた。


「不都合とかではなく、勝手に領地を出てきたことを聞いているのです。旦那様の言いつけをお忘れで?」

「あら? だから何故あなたが旦那様みたいに奥様に意見をしているのです? まさか、旦那様の代わりにとか言うつもりではないですよね?」


 クスクスとジルは笑う。こんな風に笑うジルは初めて見た。アネッサもカンナもジルの変化に気づいていると思う。怪訝そうに見ているから。


『これは……』


 スクルの呟きについ反応してしまう。スクル? でもそれからスクルはジッと二人を見るだけ。私が見ていることにも気づいていない。スクルのこんな顔初めてかも。これ、なんか理由ある?


 パシンといきなりお母様が扇を閉じたから、ついビクッと体が揺れた。


「ジル、少し黙って?」

「……失礼しました、奥様」


 ジルの方を見るでもなく、お母様は私とお姉さまからアネッサたちに顔を向けた。フッと口角を上げて、目を窄ませている。ジルはお母様に言われたからか、すぐにまた一歩下がっていた。従順なのは変わらない。


 でもやっぱり疑問に思う。お母様は、こうやって笑う人だっただろうか?


「アネッサ。ここに来たのは用があったからよ。旦那様ももちろん承知です」

「……先程も言いましたが、わたくし共は何も聞いておりませんよ。用とは何でしょう? すぐに確認しなければなりません」

「あなたたち使用人には関係のない話よ。もちろん、バールにもね」

「そういうわけには――」

「侯爵夫人としての仕事もあるのよ? それと……」


 カンナの言葉を遮って強い語気でお母様が黙らせると、また私とお姉さまに視線を向けてくる。ついギュッと口を引き結んだ。


「愛しい我が子に会いにきて、何か悪いのかしら?」


 愛しい。愛しい? 

 その言葉が重く、それ以上に怒りが沸き上がってくる。


 久しぶりに聞くその言葉に、これほど嫌悪感を抱くとは思わなかった。

 どこまでも、いつまでも変わらない、その言葉で、こんなに不快な気持ちにさせられるなんて。


 だって、私は知ってしまった。

 この三年、お父様とお姉さまの二人と過ごして、知ってしまった。

 タックやアネッサ、カンナと過ごして知ってしまった。


 お父様がお姉さまと私に向ける愛情を。

 皆が、私たちに向ける優しさを。


 お姉さまの温かさに感じる愛しさを。


 この屋敷に来る前まで、



 あなたはちゃんとその感情を私に与えてくれていたことを。



 喉の奥を苦いものが伝っていく。もう感じられないその言葉の温度が、虚しさを胸の内に運んでくる。


「本当はね、この屋敷を離れる気はなかったのよ。ごめんなさいね、フィ。寂しい思いをさせてしまって」


 まだそんなことを言ってるの、お母様?

 私は全然寂しくなんてない。


 もうかつての温かさを少しも感じないお母様には何を言っても無駄。

 何度も何度も自分に言い聞かせて、覚悟も決まっている。


 もう、あなたを捨てる覚悟を、私はとっくの昔に決めているんだ。


 一度深呼吸してから、お母様をまっすぐ見つめた。その眼差しからは、やっぱり愛情なんて感じられない。


 お姉さまの手を握りながら、ニコリと極上の笑顔を作って。


「いいえ? 全く寂しくなんかありませんでしたよ。お父様もいたし、何よりお姉さまがいましたから」


 ピクッとお姉さまの手が動いた。でも離さない。お母様にお姉さまのことを傷つけさせないから。安心してほしくて、大丈夫ですからねと伝えたくて、さらに強く握ってしまう。


 ハアと軽く息を吐いて困ったように笑いながら、お母様は片手を頬に当てていた。聞き分けが悪い子供を見ているように。


「……旦那様にも困ったものね。すっかりその子に騙されちゃって」

「何も騙されていないんですよ、お母様? 数年経っていても、その思い込みが激しいところは全く変わっていないようですね?」

「バールの教育が悪いせいもあるのかしら。フィ。お母様は悲しいですよ。母親に対して思い込みが激しいなんて」

「バールにはこれ以上ないくらいの教育をさせてもらっています。感謝しているぐらい。甘やかすだけじゃなく、駄目なところもきちんと叱ってくれますよ。どこかの誰かとは大違い」


 お母様の奥にいるジルも視界に入れながら、ニコニコと返してあげる。私は忘れていないからね。前の時間軸、ジルはただただ褒めるだけだったこと。


 アネッサとカンナだって、駄目な時は駄目だと言う。でも、ちゃんと教えてくれるんだ。だから苦手なことも頑張ってやってみようかなって思えたんだよ。お姉さまへの誕生日プレゼントだって、手作りであげようって思えたんだから。


 でも何より頑張れた理由は。


「それに、お姉さまの頑張る姿を見ていたら、私も頑張れたんですよ」


 マナーの講義も、普段の勉強も、刺繍の練習も、全部お姉さまの頑張る姿を間近で見てきたから。


 お姉さまを笑顔にしたくて、何とかしたくて、いっぱい考えて、スクルにも相談して。


 でも、そのお姉さまが、私に動く理由をくれる。

 頑張る理由をくれる。


 本心を伝えると、お母様が口元を歪めた。


「……ああ、やっぱり駄目ね。フィ。あなたは何も分かっていないわ」


 パシンと扇子をもう片方の手に打ち付ける姿に、やっぱり伝わらないかと思ってしまう。伝わるとは微塵も思っていないけど。


「旦那様もバールもあなたも、その子に影響され過ぎだわ。見せかけの姿に騙されて、心の中では嘲笑っているでしょうね。自分の思い通りに事が運んで。後で旦那様もあなたも手酷く裏切って、この侯爵家の財産を根こそぎ奪うつもりでしょう」

「奥様っ⁉ セレスティアお嬢様は裏切るとか考える方ではありません!」

「黙りなさい、カンナ。あの女の娘なのよ。生きている時に吹き込まれているでしょうに。自分が旦那様を手の平で転がしたような策略を」

「ミアラ様はそんな方ではありません!」


 カンナが声を張り上げる。こんなに怒っているカンナを見るのは初めてだけど、お母様はバカにしたように鼻で笑った。


「ああ、あなたはあの女を随分と慕っていたわよね。知ってるわ、ちゃんと」

「奥様……いい加減にしてくださいませ。ミアラ様はカンナが言ったようにあなたが思っているような方ではございませんよ。ただただ自分の娘を慈しみ、最期までお嬢様のことを想っていた立派な方です」

「アネッサ。あなたも本当に騙されやすいわね。あれは演技よ、全部。私には分かる。私だけにしか分からない。だって、あの女は全部自分のことしか考えていない傲慢で強欲な女なんだから」


 アネッサも怒っている。この二人はお姉さまのお母様をよく知っているから。ごめんって思うよ。こんな母親でごめんって。


 でもね、お母様に通じないのは、私が一番分かっている。お母様の中で、ミアラ様は憎む対象。どんなに違うと言っても聞き入れないし信じない。


 それに、もうお母様にお姉さまのことを愛してくれなんて思わない。


 私がただただ願うのは一つだけ。


 だから、アネッサとカンナに振り向いて、ニコリと笑いかけた。


「アネッサ、カンナ。大丈夫です。誰もミアラ様のことをそんな人だなんて思っていません」

「お嬢様……」

「フィリアお嬢様……」


 私の言葉に、二人が言葉をつぐんでくれた。本当はもっとお母様に言いたいと思う。だけどね、二人から何を言っても通じない。私から言っても分かってもらえない。


「フィ、あなたもね、騙されているだけなのよ。お母様の言うことの方が正しいの。いつまでもね、その子の隣にいるのは危険よ。それだけはちゃんと分かって頂戴」

「お母様」


 どこまでも言うことは同じこと。数年経っても変わらないその言葉。


 その妄言で、

 その思い込みで、


 その胸の内に秘められた憎しみだけを糧に、



「もう、ここに来ないでください」



 お姉さまを、傷つけないでほしい。



 スウッとお母様の目が細められた。


「お母様の言うことのどこが正しいのですか?」

「……」

「お姉さまのどこがどう危険なのですか?」

「…………」

「いつも同じことしか言っていないと、あなたはいつ気づくのですか?」

「…………」


 何も言わず、お母様はジッと私を見つめ返してくる。


 いつからだろうか。具体的に何も言わなくなったのは。もうここ数年会っていないから、それすらも記憶の彼方だけれど。


 でも、お母様はもう同じことしか言わないのだ。


 騙されている。

 危険。

 自分の言うことが正しい。


 だから、そばにいてはいけない。


「お母様」


 ミアラ様への憎しみに囚われていることに気づいていないのではないですか?


 だから、具体的に言えない。

 お姉さまのそばにいない理由を具体的に言えない。

 全ての理由はミアラ様の娘だから。


 でも、だからこそ、はっきり言います。



「もう、お姉さまを、傷つけないでください」



 自分のその憎しみのはけ口に使わないで。


 私がそう告げると、沈黙がその場を流れる。

 誰も何も言わない。

 お母様もジルも、アネッサもカンナも、お姉さまも何も言わない。


「……あなたは」


 沈黙を破ったのは、小さいお姉さまの声だった。


 ついお姉さまの方に視線を向けると、少し悲し気な眼差しでお母様を見つめている。



「あなたは……誰を見ていますか?」



 その言葉の意味が、お母様に伝わったのかは分からない。


 でもジッとお姉さまを見ていたかと思えば、クスリとお母様が嗤った。その歪んだ目と口元にゾクリと背筋が震える。


「ふ……ふふ……」

「奥様……?」


 不安そうに聞いたのはジル。私もアネッサもカンナも、笑いだしたお母様を恐る恐る眺めるしかできない。でもそのジルを片手で制して、歪んだ笑みをお母様はお姉さまに向けている。


「やっぱり……あなたはあの女の娘だわ」


 どこか満足そうに、含みのある笑みを浮かべながらお母様がそう告げた。さっきのお姉さまの言葉で、なんでそう思ったのかが分からない。


 扇子をバサッと広げて、お母様はその歪んだ口元を隠す。


「フィ」


 名前を呼ばれて、ビクッと体が震えた。どこにも感情が感じられない、無機質な声。こんな風にお母様に呼ばれることなかった。


 分からない。

 分からない。


 初めて思った。

 怖い、と。


 お母様が、怖く感じる。


 でも、お母様は何も言えなくなった私に構わず、言葉を続けてくる。


「いつか、あなたは感謝しますよ」


 ……感謝? 


「私の言葉を聞いておけば良かった、とね」


 そんなの、絶対思わない。


「だから、今、あなたが反抗的でも全部許します。私はあなたの母親ですからね」


 だけど、お母様の声が、視線が、これでもかと体を縛り付けてくる感覚が広がった。


 許されなくていいです、とか、もうこの屋敷に来ないでとか、お姉さまに酷いことしないでとか、色々と言いたいのに、口は全く動いてくれない。


 体が怖いと叫んでいるから。


「ジル、帰るわよ」

「……はい、奥様」


 え、は? 帰る? 帰ってくれるの?


 私に笑いかけてから、お母様は踵を返し、ジルが私たちを睨みつけてからお母様の後ろについていく。ゆっくりと静かに二人の姿が屋敷の奥に消えていった。


「……アネッサ、バール様に伝えてきます」

「ええ、カンナ。お願い」


 私たちの後ろでもアネッサとカンナが動き出したけど、私はまだお母様の去っていった方向をただ見つめていた。スクルもやっと私たちの方に顔を向けてきて、『大丈夫?』なんて聞いてくる。


 ……大丈夫じゃない。

 何、これ。


 こんなにお母様のことを怖いって思ったことなかった。

 思い出すだけで、ゾクゾクと嫌な寒気が襲ってくる。


 お姉さまも何も言わないで、お母様が行った方向を見ていた。


 お姉さまも、怖かったかな……?


 でも、握っている手からは、震えも怯えも感じない。

 今、何を考えているのか分からない。


 それでも、お姉さまの手の方から強く握り返してくれて、


 離さないでいてくれて、



 お母様から感じた恐怖が、少しだけ和らいだ。



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