7・一郎
感情の窺えない端正な顔で、男が言う。
「僕の名前は一郎です。……あなたは?」
尋ねられて、あなたは戸惑う。
彼はあなたの記憶がないことを知らないのだろうか。
自分がここへ至るまでの経過を思い出そうとしたが、どうしても浮かんでこない。
「……」
「教えていただけないのですか。それは賢明なご判断です。名前を知られた魔物は、相手に支配されてしまうと言いますからね」
「ま、魔物?」
もしかして自分は魔物なのだろうか。
記憶のないあなたの心に不安が満ちる。
自分の花嫁だと言ったくせに、一郎は怯えるあなたを気遣う様子も見せず、座敷牢の中での生活について説明しただけで去って行った。どういう理由で自分がここにいるのかはわからないものの、一郎に愛されて花嫁に選ばれたわけではなさそうだ、とあなたは感じた。
ひとり座敷牢に取り残されたあなたは、することもないので辺りを見回した。
着替えの入った小さな箪笥、ちゃぶ台に座布団、座椅子と畳んだ布団。
お手洗いが部屋の隅の衝立の向こうにあるのは嫌な感じだ。
もっとちゃんと囲っていて欲しい。
「あら?」
箪笥と壁の隙間に黒い影を見たような気がして、あなたは覗き込んだ。
狭い空間に黒い影が浮いている。
あなたはなんの気なしに手を伸ばした。
しかし、影に触れることはできなかった。
本当になにかの影だったのか、手を動かすことで生じた風くらいで逃げる儚い埃だったのか。
わからないまま、影は消えた。
――それから。
座敷牢の中であなたの日々が紡がれていった。
一郎は変わらない。
相変わらず整い過ぎた人形のような顔で、一向に感情が窺えない。そもそも感情がないのかもしれない、とあなたは思っている。
あなたが記憶喪失だということを告白しても、わかりました、と頷いただけだった。
信じていないのかもしれないし、信じた上でどうでも良かったのかもしれない。
自分の花嫁に対して、そんな態度を取るものだろうか。
もし自分が名前を知られたら支配されてしまう魔物だとしたら、一郎は生贄だ。
あなたはそんなことを考え始めていた。
魔物の花婿になるような運命は、心を殺しでもしなければ受け入れられないに違いない。
一方、一郎とは逆に日々変わりゆくものもあった。
箪笥と壁の隙間に見える黒い影だ。
どんなに考えて手を伸ばしても触れられずに消えるのに、なんだか毎日少しずつ大きくなっているような気がするのだ。
あなたはこの影に――
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