第1章【偽りの日常】5話【光統院】
ブィン。ブィン。ブィン。ブィン。
近くの光の鉄塔の一基が、低く唸り声を上げ始めた。
まるで、巨大な肺が息を吸い込むように。
何かを溜め込み、吐き出す準備をするかのように。
だが、朔夜は気にも留めない。
今はただ、駆けることだけが全てだった。
風を切り、地面を蹴り、白い光の中を――。
『――いけるっ!』
さらに強く、地面を踏みしめる。
視界の端で世界が歪み、流れていく。
泣き崩れた子供の顔。
振り飛ばされそうなぬいぐるみ。
それらだけが、はっきりと輪郭を保っていた。
「こっちだ! 早くっ!」
朔夜は叫びながら、手を伸ばす。
涙でぐしゃぐしゃになった小さな顔。
震える指先が、必死にこちらへ伸び返される。
――その瞬間。
魍魎が、触手のような黒い腕を伸ばした。
ズズンッ!
空気を引き裂き、尖った異形の腕が伸びる。
狙いは一直線。子供の後頭部。
『触れたら……終わる』
理屈ではなく、本能が告げていた。
朔夜の指先が、子供に届こうとした。
その刹那。
ほんの一瞬だけ――魍魎の方が速かった。
――だが。
シュイィィン――。
甲高い電子音と共に、鉄塔が眩く輝いた。
次の瞬間。
轟音。
白い閃光が槍のように放たれ、一直線に魍魎の腕を貫いた。
焼ける。
溶ける。
魍魎の腕が、悲鳴を上げる間もなく崩れ落ちる。
照射された部分は霧散し、地面に落ちることすら許されず、光の中で消えた。
魍魎が一瞬だけ怯み、低く唸る。
怒りのような気配が膨れ上がる。
『……今だっ!』
朔夜は子供の腕を掴み、強引に引き寄せた。
軽い体が胸にぶつかる。
子供は何も言わない。
ただ、必死に朔夜の服を握りしめていた。
「もう大丈夫だ。行けっ!」
言い終わるより早く、朔夜は子供を背に庇うように立つ。
小さく頷いた子供は、振り返ることなく走り去った。
――守れた。
そう思った瞬間。
魍魎が、朔夜を見ていないことに気づいた。
視線すら向けない。
存在しないかのように、真横をすり抜けていく。
すれ違いざま、陰湿で粘つく闇の気配だけが頬を撫でた。
ヘドロのような悪臭が肺に流れ込み、吐き気が込み上げる。
魍魎は、ただ――
背後の子供だけを追っていた。
『……なんで』
朔夜の思考が、追いつかない。
怒りでも、恐怖でもない。
理解できないという感覚が、胸の奥でざわめいた。
その瞬間――。
パシャンッ!
世界が、白に塗り潰された。
音が消える。
空気が止まる。
影が、完全に消える。
時間そのものが凍りついたかのような感覚。
『しまった――!』
本能が警鐘を鳴らす。
朔夜は視線だけを動かした。
そこに立っていたのは、光の紋章を胸に刻んだ制服の男達。
無表情。
感情の揺らぎを一切感じさせない目。
人を見る視線ではない。
まるで、標本を観察する研究者のような、冷たく、正確な眼差し。
動きは実に規則正しい。
無駄がなく、迷いがない。
『……光統院……』
あのポスターが脳裏をよぎる。
【怪人を見つけたら――】
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
怒りとも、恐怖ともつかない感情が、静かに、しかし確実に、内側で軋み始めていた。




