8話【喪失】
――山奥の祠――
闇夜の祠。
……虫の声が聞こえなかった。
不自然な静寂。
風もなく、葉も揺れない。
全てが静止した世界。
ただ――
何かを待つように、空気だけが張り詰めていた。
まるで――
この場所だけ、世界から切り離されたかのように。
続々と集まる怪異たち。
誰もが焦燥と怒りを纏っている。
「わしが、皆を送ってやろう」
前に出る雲外鏡。
一瞬、ざわめきが走る。
「共存派の雲外鏡がどうした」
「長に相応しいのは、焔より雷獣だと分かったのか」
冷ややかな野次。
乾いた笑い。
「――それとも、お前も“選んだ”のか?」
「どっちを切り捨てるか――決めたのか?」
その一言に、空気が軋む。
「わしは……一刻も早く、座敷童子を救いたいだけだ」
雲外鏡は静かに言った。
野次には反応しない。
感情を押し殺すように。
その声は、わずかに掠れている。
「……遅れすぎたかもしれんがな……それしか、もう出来ん」
誰にも聞こえぬほどの小さな呟きが、闇に落ちた。
ふと、雷獣と目が合う。
「座敷童子を頼む」
絞り出すような声。
「任せておけ!」
雷獣の咆哮が、夜を震わせる。
全身に電気を纏う、勇ましい姿。
「今度こそ――奪われたものは、取り返す!二度と遅れはとらん! もう、誰も奪わせん!」
その言葉に、怪異たちの感情が一斉に燃え上がる。
「おぉ――!!」
怒号。
足音。
揺れる空気。
「千里眼」
雲外鏡の腹鏡が、鈍く光る。
映し出された都。
夜なのに、煌々と輝く城。
怪異たちが、次々とその中へと踏み込んでいく。
……その時。
ほんの一瞬だけ――
鏡の奥で、赤い閃光が走った気がした。
だが――
誰も、それに気づかなかった。
気づいたとしても、
それが何を意味するのかを理解するには――
もう遅すぎた。
――だからこそ。
怪異たちは止まらなかった。
「私も行かなければ……彼らを止めなければ……」
譫言のように呟く焔。
朽木に支えられながら、
遅れて、雲外鏡の前に現れた。
――すべてが動き出した後に。
疲労困憊の身体を引き摺るように、歩み寄る。
「もう……彼らに任せて、長は休んでおけ…… 焔。お前は、良くやった」
焔が共存のために尽力してきたことを、労う雲外鏡。
「……だが、もう遅い」
同時に、どうしようもない事実も突きつける。
焔は、それでも首を横に振る。
「まだ……」
最後まで言葉は続かなかった。
そのまま腹鏡を通ろうとした。
だが――
倒れた。
雲外鏡の目の前で、意識が薄れる焔。
身体はすでに限界を超えていた。
――八百万神社――
その頃。
闇夜で、もう一つの事件が起きていたのじゃ。
負の連鎖は、
転がる雪達磨のように、大きくなっていた。
松明の列が、八百万神社に向かう。
もう止まらぬ。
止められぬ。
二人を取り囲む大勢の人間。
松明の火と共に、影が怪しく揺れる。
「俺たちは……巳之吉を殺した……もう……もどれねぇ」
鎌を持った男。
視点が定まらない。
「占い師が言っていた……災いを鎮めるには、怪異と交わった痴れ者を殺せと……全ては、怪人の親が元凶だと」
松明を掲げる無精髭の大男。
「そんな……巳之吉さんを……手にかけるなんて……」
絶句する環。
膝から崩れる。
黒髪が地面に触れる。
口を手で覆う。
視界が滲む。
「同じ人間を襲うとは……気が触れたか」
環を守るように、前に立つ保名。
静かな口調だが、語気が強くなる。
「その、占い師とは誰なのです」
保名が無精髭の大男に尋ねる。
保名の問いには答えない。
代わりに、
「同族殺し……上等だ!」
「痴れ者は……生かしちゃおけねぇ」
「災いを鎮めるんだ!」
「怪人に殺された……私の子を返して――!」
怒りは、相手を選ばなくなっていた。
もはや――
理由すら、必要としていなかった。
矛先が、怪人の親――環と保名に向けられる。
「もう……やめてください……」
環の震える声。
それでも、はっきりと届く。
「これ以上奪って……何が残るのですか……!」
涙が頬を伝う。
それでも目は逸らさない。
「……その問いは、もう遅い」
誰かが吐き捨てる。
――その瞬間。
コツッ。
小石が、環の肩に当たった。
誰が投げたのかは分からない。
だが――
誰も止めなかった。
「やめなさい!」
厳しく言い放つ保名。
「……」
環は何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと周囲を見た。
そこに居たのは――
知っている顔だった。
かつて、笑い合った者たちだった。
だが今は――
誰も彼女を"正しく"見ていなかった。
「……違うのです」
小さく、弱々しい環の声。
「あなたたちは……本当は……」
そこで、環は言葉を飲み込んだ。
本当は、優しかった。
本当は、笑っていた。
本当は、同じ火を囲めた。
そう言いたかった。
次の石が飛ぶ。
鈍い音。
保名の身体が揺れる。
額から血が飛び散る。
そして――
一人が、踏み出した。
堰を切ったように押し寄せる群衆。
揉み合う保名と男たち。
「環――逃げなさい!」
保名の最期の言葉。
その背は、最後まで環を庇っていた。
誰かが、鎌を振り上げた。
誰かが、包丁を付き出した。
誰かが、手を伸ばした。
誰かが、押した。
――もう、分からなかった。
どれが最初だったのか。
誰が始めたのか。
ただ一つ、確かなのは――
誰も止めなかったということだけだった。
「……円……」
抱きしめたい。
守りたい。
その想いだけが残った。
立ち上がる環。
――その瞬間。
髪を掴まれた。
環の胸に鈍い衝撃。
視界が揺れる。
温かいものが、胸から染み出る。
「……あ……」
声にならない声。
何かを言おうとして――
言葉は、出なかった。
身体が、崩れる。
白衣が、赤く滲む。
地面が、近づく。
それでも環は、誰かを憎むことができなかった。
最期に見えたのは――
泣きながら手を伸ばす円の姿。
そこにいるはずのない、愛しい我が子。
それが幻だと分かっていても、
それでも、
環は手を伸ばそうとした。
「……生きて……」
届かない声。
そのまま――
動かなくなった。
――静寂。
一瞬だけ、
本当の意味での“静寂”が訪れた。
だが――
「やったぞ…… これで……二つ、消えた……」
血の付いた包丁を突き上げる男。
足元には、事切れた環。
「こっちも……終わった……」
息の荒い村人たち。
転がる、ぼろ雑巾のような保名。
赤黒く原型の崩れた顔。
――その時。
焔が到着した。
赤い髪は乱れたまま。
先程まで気絶していた身体に鞭打ち。
遅れて。
すべてが終わった後に。
「……環?」
焔の視線の先。
倒れている身体。
動かない。
血が広がっている。
「……何を……」
理解が追いつかない。
一歩、近づく。
人間たちを押し退ける。
もう一歩。
膝が地面に落ちる。
「……環」
環の頬に触れる。
触れた手から、環の温もりが――
消えていく。
「……環」
焔が呼ぶ。
返事は、ない。
「……環……」
その瞬間。
脳裏に、環との思い出が駆け抜けた。
焔の中で――
全てが崩れた。
音もなく。
何の抵抗もなく。
ただ――
静かに。
完全に。
――終わった。
次の瞬間――
「業火」
驚くほど静かな、
感情の欠落した焔の声。
その声には、
怒りすら残っていなかった。
群衆の身体が、炎のように揺らぐ。
ボワッ!
各々の身体が発火。
炎の渦が瞬く間に包み込む。
そして――
そこに居た全ての人間が、
跡形もなく焼失した。
焔は、苦痛を叫ぶ間も与えなかった。
――現在――
囲炉裏の火が揺れる。
「……あの時、焔様は……最後の光を失ったのじゃ……そして……」
朽木の声は、かすれていた。
「共存も……未来も……環様と共に、すべてが消えた。焔様の"正しさ"が塗り変わった瞬間じゃ」
誰も言葉を発さなかった。
誰も息をする音すら立てなかった。
ただ――
囲炉裏の火だけが、
静かに、揺れていた。




