1話【失われた日常】
チッ。チッ。
木漏れ日が、ゆらりと揺れる。
深い緑の隙間を、やわらかな風が通り抜けた。
枝先で、小鳥が軽やかにさえずる。
清流が、さらさらと音を立てる。
土の匂い。
葉の匂い。
命の匂い。
穏やかで――
何ひとつ、欠けていない世界。
壊れる理由など、どこにもない世界。
「が――……ず――……が――……」
木陰。
一体の怪異が、無防備に眠っている。
大きく開いた口。
間の抜けた鼾。
あまりにも平和な寝顔。
その隙へ――
ぽいっ。
「……が?」
鼾が止まる。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
ツ――ン。
鼻を突き抜ける刺激。
喉が焼ける。
目の奥が熱を帯びる。
クスクスッ……
押し殺した笑い声。
木の陰。
潜む、人間の子供たち。
「かっ――!! 辛っ……!!?」
怪異――焔が、跳ね起きた。
喉を押さえ、激しく咳き込む。
赤い髪が暴れる。
涙が溢れ、顔がぐしゃぐしゃになる。
「だははははっ!!」
子供たちは腹を抱えて転げ回る。
地面を叩く。
無邪気な、残酷さのない笑い。
「ぺっ、ぺっ……!」
焔は口の中の山葵を吐き出す。
鼻が痛い。
喉が焼ける。
涙が止まらない。
「こら――」
すっと、声が差し込む。
やわらかく、けれど通る声。
「焔様の昼寝の邪魔をしないの。夜の見廻りで、お疲れなんだから」
振り向く子供たち。
境内の奥。
白衣と緋袴の巫女が、静かに歩いてくる。
風に揺れる裾。
長い黒髪を後で束ねる。
凛とした立ち姿。
けれど――その眼差しは、どこまでも優しい。
「あっ、環さんだ~!」
子供たちは駆け寄る。
自然と距離を詰める。
そこに壁はない。
「焔様はね」
環はしゃがみ、目線を合わせる。
「太陽を司る、すごい怪異様なの。厄災から、私たちを守ってくださっているのよ」
叱るでもなく、責めるでもなく。
ただ“知ってほしい”という声。
「……まぁ……大丈夫だから……」
焔が、小さく呟く。
涙を拭いながら。
困ったように笑う。
子供たちの視線が、二人の間を行き来する。
「……ねぇ」
女の子が、焔の耳元で囁いた。
「環さんのこと、好きなんでしょ?」
「なっ!!」
焔の顔が、一瞬で真っ赤になる。
「わ~ 赤くなってる~!」
「図星だ~!」
子供たちの、からかう声。
逃げ場のない視線。
「……ち、違う……!」
焔の否定は弱い。
視線は泳ぐ。
耳まで赤い。
――その様子を見て。
環が、ほんの一瞬だけ微笑んだ。
誰にも気づかれないほど小さく。
「すみません。すぐ、お水を持ってきますね」
背を向ける。
ほんの少しだけ早足で。
逃げるように。
「……あ」
焔が、何か言いかけて――やめた。
言葉にできない距離。
懐の金細工の綺麗な櫛を握る。
暖かな空気。
澄んだ光。
自然を敬い、生きる時代。
怪異と人間が共に暮らし、互いを尊重する。
それが――“当たり前”だった。
――
「おめでとうございます」
白無垢の環。
静寂が場を満たす。
あまりにも美しくて――
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
隣に立つ焔は――
完全に固まっている。
「……焔様、息してる?」
「止まってる~」
子供たちがつつく。
無反応の焔。
笑いが弾ける。
焔が、ゆっくりと口を開く。
ぎこちなく。
けれど逃げずに。
顔が引き締まる。
「怪異には寿命がありませんが、人間には寿命があります。それは、自然の摂理であり……円環です」
一度、言葉が詰まる。
それでも――続ける。
「だからこそ、環が天寿を全うできるよう、寄り添っていきます」
静かに。
けれど、揺るがずに。
「……私と環は……怪異と人間の架け橋になりたい」
沈黙。
――次の瞬間。
拍手が溢れた。
祝福。
笑顔。
疑いのない未来。
壊れるなど――
誰一人、考えなかった。
――
「おぎゃ―― おぎゃ――」
産声。
新たな命。
怪異と人間の混血――怪人。
壊れそうなほど、小さな体。
一瞬、触れるのをためらう焔。
それでも――
そっと、抱き上げる。
「……これが、未来か」
感慨無量の焔。
命の温もりが掌に広がる。
「可愛い~!」
子供たちが集まる。
怪異も。
人間も。
誰も違いを見ない。
境界など存在しない。
ただ受け入れる。
ただ愛する。
それが、この世界の“普通”だった。
――だからこそ。
それは――許されなかった。
光が。
“境界のない命”を――拒絶した。
――常闇――
「……」
かつて“焔”と呼ばれた存在。
今は――常闇の主。
ゆっくりと、目を開ける。
世界は、生温い闇。
境界のない闇。
上も、下も。
内も、外も。
すべてが溶け合い、区別がつかない。
千年。
変わらない世界。
腐り続ける時間。
違う。
変わったのは――
“自分だけが、世界から切り離されたこと”
ジャリン……
鎖が鳴る。
重く。
冷たく。
現実を刻む音。
未だに、都の穢れた臭いがする鎖。
何百年ぶりに見た――夢。
『……環……』
あの時間が永遠に続くと。
疑いもしなかった。
壊れるなど――
考えたことすら、なかった。
だが。
押し寄せる。
黒。
虚無。
怒り。
絶望。
すべてを呑み込む、底なしの闇。
「……環は、もう……いない」
ギシッ――!
鎖が食い込む。
骨の奥まで軋む。
「白々しい光が……奪った……」
低く。
押し殺した声。
「……奪っておいて」
わずかに、笑う。
歪んだ笑み。
「まだ照らすのか」
吐き捨てる。
――沈黙。
「反吐が出る」
その視線の先――
遥か彼方。
白夜の都が滲んでいた。
今は、ただの――処刑の光。
かつて。
あの光の中に――
すべてが、あったはずだった。




