第2章【崩れる日常】5話【機械】
朔夜は紡を背負いながら必死に逃げた。
肺が焼けるように熱い。
喉の奥が鉄の味で満たされる。
振り返らない。
振り返れば足が止まると分かっていた。
すでに工場は見えない。
白夜の光だけが、均一な世界を無機質に照らしている。
『ここまで来れば……』
さすがに息が続かない。
肩で呼吸しながら周囲を確認する。
耳鳴りが酷い。
心臓の鼓動が、頭蓋の内側で暴れている。
膝がガクガクする。
身体中から汗が噴き出す。
限界だった。
ゆっくりと、片膝を地面に付ける。
「ごめんね」
背中越しに紡の声が落ちた。
自分を責めるような、震えた声。
自分が捕まらなければ。
自分が足を引っ張らなければ。
そんな後悔が、その一言に滲んでいた。
朔夜は何も言えない。
紡は静かに背中から降りる。
名残惜しそうに、一瞬だけ指先が服を掴んだまま止まった。
少し未練が残る背中から……手が離れる。
その時――。
キュイー……
遠くから朔夜の苦手な音が響いた。
細い針のような高音が、耳から脳に直接刺さる。
視界が微かに歪む。
頭痛が走る。
思わず眉をひそめる。
それでも声を絞り出した。
「離れて……」
息を殺しながら、紡に告げる。
『何とか手錠を……』
後ろ手に拘束された手錠を見る。
血で滑る金属。
皮膚が擦り切れている。
『……くそ』
音が聞こえていない紡は、状況が掴めず戸惑う。
だが朔夜の顔色を見て、無言で距離を取った。
ギュイーン!
今度は紡にも機械音が届く。
空気が震える。
咄嗟に、数メートル先の塀に身を屈めた。
冷たいコンクリートに背中を押し付ける。
鼓動がうるさい。
ギュン!
足音はしない。
代わりに機械音。
地面を滑るように現れた光統院の制服。
機械仕掛けのブーツが低く唸り、足元に赤い光を帯びている。
その足は、地面から数センチ浮遊していた。
ホバーの風圧で砂が円を描いて舞う。
男は静かに立ち止まった。
「頼光四天王が一人。綱」
ご丁寧に口上を述べると、鞘に手をかける。
ゆっくりと刀を抜いた。
下段の構え。
金属音はしない。
代わりに、微かな電子音が空気を震わせた。
鋭い眼差しが、朔夜を射抜く。
「いざ参る!」
言葉と同時に消えた。
次の瞬間、距離がゼロになる。
下から上に太刀が走る。
反射的に仰け反る。
鼻先を刃が掠めた。
ジッ――。
空気が焼ける音。
鼻先に熱が走る。
『速っ!』
紙一重で避ける。
だが。
ドゴッ!
腹部に蹴りがめり込む。
「がはっ!」
肺の空気が全部吐き出された。
そのまま後方へ吹き飛び、建物の壁に叩きつけられる。
衝撃で視界が白く弾けた。
内臓が揺さぶられ、吐き気が込み上げる。
人間離れしたスピード。
蹴りの重さ。
『人間じゃない……』
立ち上がりながら鎖を跨ぎ、ようやく手を前に持ってくる。
手首から血が流れ、酷く痛む。
その時――。
キラッ。
鉄塔が反射で光った。
視界の隅に刺さる白光。
朔夜は、あの時の記憶がフラッシュバックする。
白い処刑の光。
影の中の魍魎。
死の直前の感覚。
反射的に横へ飛ぶ。
しかし、飛んだ先には、既に綱が立っていた。
迷いのない動き。
未来を読んでいたかのような位置取り。
刀が振り下ろされる。
ガキンッ!
朔夜は咄嗟に手錠の鎖で受け止めた。
衝撃で腕が痺れる。
手首の血が飛び散る。
「案ずるな。あの鉄塔は対魍魎兵器だ」
綱が淡々と言う。
当然の知識を教える教師のような口調。
ジュグ――
次の瞬間、刀身が赤く発光した。
内部の回路が透けて見える。
熱が伝わる。
鎖が赤く染まり、溶け始める。
『熱っ!』
慌てて後方へ跳ぶ。
焼けた鉄の臭いが鼻を刺した。
だが結果的に、鎖は切れていた。
自由になった手を握る。
擦り傷と火傷で手首が痛む。
『これで戦える』
綱は軽く刀を振り、溶けた鉄を払う。
火花が散る。
怪人でも破壊できない鎖を焼き切る刀。
高速で地面を滑るブーツ。
そして、白夜維持装置でありながら魍魎を消滅させる鉄塔。
紡は塀の陰で震えていた。
理解と目が追いつかない。
ただ、朔夜が"自分と同じ人間と戦っている”ことだけは分かった。
怖い。
でも目を離せない。
「機械ばかり……」
朔夜は吐き捨てるように言った。
光も。
音も。
臭いも。
全部が神経を逆撫でする。
自分の世界を侵食してくる異物だった。
「これが人間の叡智。科学技術だ」
綱がその言葉に反応して、静かに答える。
誇りでも嘲りでもない。
事実の宣言だった。
刀を構える。
「貴様のような怪人を排除する。正義の機械」
ブーツと刀が更に赤く発光した。




