5話【機械】
朔夜は紡を背負いながら、必死に逃げていた。
肺が焼けるように熱い。
喉の奥が、鉄の味で満たされる。
背中に伝わる体温。
それだけが、倒れられない理由。
振り返らない。
振り返れば、足が止まると分かっていた。
すでに工場は見えない。
白夜の光だけが、均一な世界を無機質に塗り潰している。
『ここまで来れば……』
思考が途切れる。
息が続かない。
肩で呼吸しながら周囲を確認する。
耳鳴りが酷い。
心臓の鼓動が、頭蓋の内側で暴れている。
膝がガクガクと震えた。
身体中から汗が噴き出す。
限界だった。
ゆっくりと片膝を地面に付ける。
背中。
紡の体重がわずかに揺れた。
すぐには降りられなかったのかもしれない。
それでも――
「ごめんね」
紡の声が静かに落ちる。
自分を責めるような震えた声。
自分が捕まらなければ。
自分が足を引っ張らなければ。
その全部が、その一言に滲んでいた。
朔夜は何も言えなかった。
言葉が出てこない。
紡はゆっくりと降りる。
名残惜しそうに、指先が一瞬だけ服を掴んだまま止まった。
――離れたくない。
そんな感情が、ほんの一瞬だけ触れて。
そして、手が離れる。
その時――
キュイ……
遠くから、機械音。
朔夜の敏感な聴覚に届く。
細い針のような高音。
耳から脳へ直接刺さる。
視界が微かに歪む。
頭痛が走る。
思わず眉をひそめる。
それでも、声を絞り出す。
「……離れて」
息を殺しながら告げる。
『何とか手錠を……』
後ろ手に拘束された手錠を見る。
血で滑る金属。
擦り切れた皮膚。
『……くそ』
音が聞こえていない紡。
状況が掴めず戸惑う。
だが、朔夜の顔色を見て――
何も言わず距離を取った。
ギュイーン!
今度は、紡にも機械音が届く。
空気が震える。
反射的に、数メートル先の塀へ身を屈めた。
冷たいコンクリートに背中を押し付ける。
鼓動がうるさい。
ギュン!
足音はしない。
代わりに機械音だけが近づいてくる。
地面を滑るように現れた光統院の制服。
機械仕掛けのブーツが唸る。
足元に赤い光を帯びている。
その足は――地面から数センチ浮いていた。
ホバーの風圧で、砂が円を描いて舞う。
男は静かに立ち止まる。
「頼光四天王、筆頭。綱」
抑揚のない名乗り。
鋭い目つき。
無駄のない引き締まった体格。
綱が鞘に手をかける。
抜刀。
金属音はしない。
代わりに、微かな電子音が空気を震わせた。
下段の構え。
鋭い眼差しが、朔夜を射抜く。
「いざ参る」
言葉と同時に――消えた。
次の瞬間。
距離がゼロになる。
下から上へ太刀が走る。
朔夜は反射的に仰け反る。
鼻先を刃が掠めた。
ジッ――
黒髪が焦げる。
空気が焼ける。
『速っ!』
避けたはずだった。
そう思った瞬間。
ドゴッ!
腹部に蹴りがめり込む。
「がはっ……!」
肺の空気が全部吐き出された。
そのまま後方へ吹き飛ぶ。
建物の壁に叩きつけられる。
衝撃で視界が白く弾けた。
内臓が揺さぶられる。
吐き気が込み上げる。
『人間じゃない……』
立ち上がりながら鎖を跨ぐ。
ようやく手を前に持ってくる。
手首から血が流れ、酷く痛む。
その時――
キラッ。
鉄塔が反射で光った。
視界の隅に刺さる白光。
瞬間。
記憶が甦る。
白い処刑の光。
影の中の魍魎。
死の直前の感覚。
反射的に横へ飛ぶ。
だが――
飛んだ先に、すでに綱がいた。
迷いのない位置取り。
刀が振り下ろされる。
ガキンッ!
朔夜は咄嗟に手錠の鎖で受ける。
火花と手首の血が飛び散る。
衝撃で腕が痺れる。
「案ずるな」
綱が淡々と言う。
「あの鉄塔は対魍魎兵器だ」
教師のような口調。
次の瞬間――
ジュグ――
刀身が赤く発光した。
内部の回路が透けて見える。
熱が伝わる。
鎖が赤く染まる。
熔け始める。
『熱っ――!』
慌てて後方へ跳ぶ。
焼けた鉄の臭いが鼻を刺す。
だが――
鎖は焼き斬れていた。
自由になった手を振る。
少しでも熱を冷ます。
擦り傷と火傷で、手首が痛む。
『これで……戦える』
綱は軽く刀を振る。
熔けた鉄を払う。
火花が散る。
怪人でも破壊できない鎖を、焼き斬る刀。
高速で地面を滑るホバーブーツ。
そして、白夜を維持しながら魍魎を消滅させる鉄塔兵器。
――
紡は塀の陰で震えていた。
理解が追いつかない。
ただ一つだけ、分かることがある。
朔夜が、“人間と戦っている”ということ。
――なのに。
その動きは、到底そうは見えなかった。
怖い。
それでも、目を離せない。
――
「機械ばかり……」
朔夜は吐き捨てるように言った。
光も。
音も。
においも。
全部が神経を逆撫でする。
自分の世界を侵食してくる異物。
綱が反応する。
「これが人間の叡智。科学技術だ」
誇りでも嘲りでもない。
ただの事実の提示。
刀を構える。
「貴様のような怪人を排除する」
一拍。
「正義の機械だ」
それは誓いではない。
人間側の周知の事実。
ホバーブーツと電子刀が、さらに赤く発光した。




