第2章【崩れる日常】3話【不器用その2】
……。
重い沈黙が、思ったより長く居座っていた。
紡は、袖を掴もうとして止めた手を、そっとポケットに押し込む。
指先が冷えているのに気づく。
怖さが、まだ完全には抜けきっていなかった。
それを誤魔化すように、別の疑問を口にする。
「あの時のことは分かったよ……。で、なんで清掃員なの?」
「あぁ……」
朔夜は、さっきまでの陰りが嘘のように、小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、紡の思考が一瞬止まる。
胸の奥で、何かが軽く跳ねた。
――こんな顔、初めて見た。
言葉にできないまま、視線が外せなくなる。
朔夜は少し照れ臭そうに頬を掻きながら、話し始めた。
――面談室
窓のない、白い部屋。
机を挟んで、人事と上司が向かい合って座っている。
朔夜は、その横で視線を落としていた。
「朔夜さん。貴方には辞めてもらいます」
あまりにも事務的な声だった。
「理由は言わなくても、理解できると思いますが……」
心当たりが、多すぎた。
反論の言葉は、最初から浮かばない。
喉の奥が乾く。
こうなることは、どこかで分かっていた。
人事が、ゆっくりと上司へ視線を向ける。
言外に「当然だろう」と告げている。
「本来なら、試用期間の三ヶ月を待たずして辞めてもらうはずでしたが……」
含みのある言い方だった。
上司は何も言わずに睨み返している。
「……お世話になりました」
朔夜は静かに頭を下げた。
もう、決まったことだと思った。
心残りは――彼女のことだけ。
けれど、これ以上巻き込むわけにはいかない。
だから、何も言わない。
「待って下さい」
低く、押し殺した声だった。
普段なら怒鳴る上司が、感情を必死に抑えている。
「確かに……彼は仕事ができないです」
人事の眉が、わずかに動く。
「でも、誰よりも愚直に努力していました」
間髪入れずに続ける。
「毎日、誰よりも早く来て手順を確認する。
帰る時は、必ず整理整頓をして、翌日の準備をしてから帰る」
言葉は飾らない。
ただ、事実を積み重ねていく。
「気持ちは分かりますが……これ以上は庇いきれませんよ。一鉄さん」
人事が、諭すように言った。
「仕事ができないのは、私の責任でもあります」
一鉄は、真正面から人事を見据える。
「人には適材適所があります。彼に合った仕事を、与えて下さい」
静かだが、芯のある声だった。
気づけば、朔夜の視界が滲んでいた。
――"見てくれていた人"がいた。
それだけで、胸の奥が崩れそうになる。
グイッ――。
突然、頭を掴まれ、強引に下げられる。
「もう一度、チャンスを下さい!」
一鉄の声が、わずかに震えていた。
朔夜と同じ角度で、自分の頭も下げている。
――屋上
「……そういうことで、夜勤専用の清掃員になった」
朔夜は、少し照れたように笑う。
「掃除機は苦手だから、モップ掛け専門だけど」
それでも、その表情はどこか誇らしげだった。
紡は、しばらく言葉が出なかった。
意外すぎる一鉄の姿。
それを嬉しそうに語る朔夜。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
――私も、見てたよ。
本当は、そう言いたかった。
でも、喉の奥で言葉が絡まり、出てこない。
代わりに漏れたのは――。
「あの人も、不器用なんだね……」
小さな、呟き。
風が吹き、タンポポがふわりと揺れる。
暖かい余韻。
――だが。
その静けさを裂くように。
ジジッ。
「朔夜さん。朔夜さん。至急、応接室に来て下さい」
放送が、工場に響いた。
少しだけ、ノイズが混じっている。
名前が反響し、何度も繰り返される。
二人の空気が、止まった。




