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おまけ【外伝】その男、嘘つきにつき

 東角通りにある中規模酒場テミア。看板は頭が3つある黒羊。

 カウンター席のうち、壁側の一番端にこの酒場では少々有名な常連客が、久しぶりに着席した。

 常連客といっても、多くて月に数回、少ないと半年に1回しか現れない、キープボトルのウイスキーをチマチマ飲む細客。

 おまけにそのキープボトル、もう何年も本人が支払った品ではない。

 新規客を提供してくれることのない、無害だが利益にもならない男。

 約10年通ってくれていているので、店主も私も常連客と認識していている人物。


「久しぶりミンディ。今夜の予定は? 寒くない?」

「2、3ヶ月ぶりですかね? リムスルム、今夜もいつもので良いですか?」


 夏の終わりのまだ暑い時期に寒くない? とは酒で頭がイカれている。と彼を知らない人物ならそんな感想を抱くかもしれない。

 肯定の返事を聞く前に、彼の名前の札がかかっているウイスキーボトルを棚から出し、空のグラスとつまみのナッツを提供する。


「相変わらずつれないなあ。せっかく美人なのに、怖い顔。ニッコリ笑って。会いたくて、会いたくて仕方なかったですリムスルム。そういうリップサービスくらいしてくれよ」


 パチン、とウインクが飛んできた。

 邪魔な前髪を切れば、形の良い目元が良く見えそうなのに、指摘されてもその鬱陶しい前髪を切らない。恐らく、わざとだ。

 

「その続きは聞き飽きたので結構です」

「あはは、寂しいなあ。一度くらいその魅惑の唇を味わってみたいのに、またフラれた。あーあ、お嬢様学校の先生になろうかな。まあ尻の青い娘なんて、成長を待つのも育てるのも大変か」


 無邪気に笑う姿は一見すると10代に見える。

 ニコニコしているのに目の奥は笑っていなくて、黒紫色の瞳は真冬の井戸水のように冷たそうな印象を与える。

 私と同じそこそこ人生経験を積んだ30代、下手すると40代かもしれない。要は年齢不詳である。

 今日は黒いハンチング帽を被り、あまり顔のサイズに合っていない、大きめの丸メガネをかけている。相変わらず、口元の黒子が印象的。

 邪魔な前髪、帽子、メガネに黒子がそれぞれ目を引くので、リムスルムという男はひどく曖昧。似顔絵を描けと言われても描けない。

 顔よりも、仕草や笑い方に態度、それから田舎鈍りの方がリムスルムだ! と思わせるファクター。まるで霧みたいに形が不明瞭な男だ。

 本日の服は黄ばみ気味のよれよれの白いシャツに、少々毛玉が目立つ黒いジャケットと、同じ素材と思われるスボン。

 いつもこういう貧乏そうな服装だが、酒を飲むだけなのに、妙に所作が美しい時がある。

 約10年間、服装の傾向や纏う雰囲気に容姿、その殆どが変わらないので、時折彼だけ時間が止まっているのでは無いかと、奇妙な感覚に陥ることがある。

 本人も10年間ずっと弁護士見習いと名乗り、年齢は25歳と言い張るから余計に。

 姓は不明。住んでいる場所や勤務先も来店ごとに変わる。知れば知る程怪しい人物。

 しかし、店に迷惑がかかる大問題を起こしたことは一度も無い。

 少々有名なのは、気まぐれにしか来ないこの客に、訪ね人が増えて他の常連客も名前を覚えたから。

 ここ2年程、1日1度は「リムスルムはいつ来る?」と聞かれる。

 訪ね人は老若男女多岐にわたり、相談客と元相談客、自称元恋人や友人など様々だ。

 その中の誰かが「リムスルムのキープボトルが減ってきた」と気がついて新しいボトルを入れる。

 贈り主の名前のメモが添えてあっても「誰? 不気味」とポイ捨てし、マスターや私が伝言を預かっても聞くことを拒否する。

 住所不定だから、この酒場へ、と預かったリムスルムへの差し入れを渡すと「あげるー。売れば?」と受け取り拒絶。

 そのくせ直接本人から贈り物を渡されれば、ニッコリ微笑み「ありがとう」である。

 勿論、その贈与物は流れ作業的に、その日居合わせた他人へ譲渡される。


 リムスルムは入店直後は軽口を叩くが、その後は黙々と遠くを見つめて、チビチビとウイスキーを飲み続ける。

 時折右手の人差し指でトントン、トントンとテーブルを叩く癖がある。

 その時の空気は、誰も近づくなというような、強い圧迫感を発する。

 リムスルムが来店後、一刻程してカウンターテーブルが埋まった。

 今日は多くの職業の者の休前日だから酒場は賑やか。

 気がつけばリムスルムは隣に座る中年と、楽しげにおっぱいの大きさについて熱く語っている。

 

「リムスルムって常連客はいますか?」


 突然、酒場の中央から大きな声がした。中年団体客の一人だ。

 その近くに、薄汚れた灰色のおくるみを抱えた、不安げな女性が立っている。


「あー、リムスルムなら来てるな。あそこ。カウンターテーブルの1番端」


 常連客の老人が声を上げる。リムスルムは身を乗り出して、同じカウンターテーブルの、自分とは反対側に座る人物を見た。

 リムスルムを知らない客の視線はそちらへ集まる。


「おいリムスルムまたか! お前は本当、女泣かせのヤリ逃げ野郎だな!」

「何、別人のフリしてるんだよ!」


 古くからの常連客の何人かが、リムスルムを指差してゲラゲラ笑う。

 

「あはは、バレた? で、用事ってそこの君?」


 一度立ち上がり、背中をカウンターテーブルへ向けて座り直すと、こちら側からはもうリムスルムの表情は見えない。

 パチンッという軽快な指を鳴らす音が、騒がしいはずの酒場内に響く。

 知っている者はまたか、と思っているだろうし、初めての者は興味津々であろう。

 だから、店内のトーンが落ちるのだが、まるでリムスルムが指を鳴らしたから静かになったような錯覚がする。


「あー、誰だっけ? イルマ?」

「イムルです」


 赤ん坊を抱いた女性が、ソワソワした様子でリムスルムの元へ近づいていく。


「へえ、可愛いね。んー、男の子?」


 リムスルムは目の前に立った女性、イムルからおくるみをサッと奪った。


「そうよ」

「酷い母親。こんなに可愛い生まれたてって感じの子供に自分より粗末な服を与えて、おまけに捨てに来るとはね」


 この発言に、酒場内は静まり返った。

 酒場にはまるで似合わない、うあうあと弱々しく泣く赤子の泣き声が上がる。


「他人って、あな、あなたが父親でしょう! 捨てに来たなんて違うわ!」

「同じ女は2回も抱かないし、他に男が居ない女も抱かない。普通に考えて、別れられないってメソメソ言い訳しながら縋り付いてる暴力男が父親だろ。女を使って薬の金稼ぎしてるあの人」


 高い高いとリムスルムがおくるみを天井に向かって掲げる。


「えっ……」

「っていうか君、あの夜、俺の財布の金を持って逃げただろう? 宿代大変だったんだぞ! 騎士団に突き出されて、逮捕されちゃう?」


 機嫌の良さそうな声に、イムルは後退りした。


「し、証拠……」

「ママは美人なのに、頭に何も詰めないで成長して、死にたがりで、勿体ないですねえ」

「なっ⁈」

「子育てしたければ立派な実家に帰れば? プライドじゃ金も食べ物も得られない。子供より男や見栄でも別に本人の自由だけどさ」


 リムスルムは高い高いを止めた。片手で赤子を抱き、反対側の手で、カウンターテーブル上の自分のグラスを掴んだ。

 腕を振り、バシャリとイムルにウイスキーをかけた。

 イムルがスカートを両手で掴み、リムスルムを睨み、泣き始める。


「酒が無くなったから帰るね。床掃除させてごめんねマスター。ミンディ、今夜も愛してたよ」


 立ち上がると、リムスルムはクルリと体の向きを変えて店主と私にウインクをした。

 それからサッと身を翻し、スタスタとイムルの隣を通り過ぎていく。

 赤子はリムスルムの腕の中。


「待ってよ! 何でそこまで色々知ってるの!」

「今夜は君に決めた! って誰でも食事にする訳じゃないさ。寝たフリしたんだ、ごめんね。でもお金を盗むし、父親だなんて濡れ衣着せるし、おあいこだ」


 ヒラヒラ手を振りながら、軽やかな足取りで出入り口に向かうリムスルムを、ヨロヨロしたイムルが追いかける。


「ねえ、待って! リムスルム! その子をどこへ連れて行くの⁈」


 この発言に、リムスルムは足を止めて振り返った。不機嫌顔は珍しい。


「子供の養育費出せって脅す予定の怖ーい人が怒ることなんて知らない。憧れのパパになれたから子育てするんだ。明日にはパパに飽きて、そこらに捨てるかもしれないけど」


 イルムは倒れそうなくらい真っ青。話しをまとめると美人局だろう。

 

「ま、待ってよ! 私の子よ! それで貴方の子だから責任取りなさいよ!」

「だから、俺の子じゃないけど、下半身がだらしなくて身に覚えがあるし、可愛いから貰っていくって。別に君は要らない。君に対する慰謝料請求をされても断固拒否する。ほらっ、そこの君。楽しい酒場でイライラされてもマスターが困るよ? あっ! 俺もか!」


 のんびりとした笑い声を上げながら、リムスルムは客の1人を指差した。荒々しそうな体格の良い青年。

 リムスルムを睨みながら立ち上がった。喧嘩なんて困るが、体格差が1.5倍はある2人が喧嘩しても、リムスルムの圧倒的大敗だろう。


「おお、そこの騎士! 名前は何だっけ?」


 急にリムスルムが肩を掴んだのは、私服姿のくたびれた中年男性。


「あの人麻薬売ってるってタレコミがあるから調べてくれる? タレコミ人は俺ね。沢山目撃者がいるけど証拠のメモがいる? すぐに書こうか?」

「おい、痴話喧嘩に巻き込むなよ。デタラメ言うと……」


 リムスルムに肩を掴まれた中年は言葉を切り、あーという声を出した。


「俺の子って言われたから引き取るのは誘拐? 何の証拠もないのに俺の妻に手を出したって金をむしり取るのは合法? しかもあの女は未婚だけど。ほら、この通り貧弱だから殴られたら多分死んじゃうんだけど」


 掴んだ肩を揺すりながら、リムスルムは騎士に顔を近づける。


「非番だから無視ですかー! 騎士団にタレコミしますよー! サー・ベルガルは麻薬横流しとか難癖つけるぞ! 知り合いが多いから集団投稿するからな! 何か投書するヤツが出来たって拾った新聞で読んだからそこにだ! 働け税金泥棒! 俺がずっと貧乏なのは税金のせいだからな!」

「黙って聞いてれば! 誘拐、侮辱罪で逮捕するぞ!」


 リムスルムに絡まれている中年の連れらしき男が立ち上がった。

 

「えー。じゃあそれでも良いや。連行して。今はあの怖い男と難癖女から逃げたい。弁護士見習いだから、自分で自分を弁護する。ちなみに侮辱罪は連行権適応の範囲外だから名目は誘拐罪ね。侮辱罪に関する改正がされてもう何年経つっけ? 忘れた。だからいつまでも見習いなんだな。まあ、行こう行こう」


 この発言に、リムスルムを逮捕すると口にした中年は虚を突かれたというように目を丸めた。


「そ、その前に赤ん坊を母親に返せ!」

「返したら誘拐罪疑惑適応じゃなくなるから嫌だ! 連行するなら早く連行しろ! それにパパなんだから一緒に牢屋に入って育てる。んー、税金で暮らせて子育て代も出るなんて素敵だ」

「話しは聞こえていたが、お前は父親じゃないんだろう⁈ 支離滅裂だぞ! 赤ん坊と牢屋に入るなんてそんな制度は無い! この酔っ払いが!」


 リムスルムを怒鳴りつけた中年男性が拳を振り上げる。リムスルムが赤ん坊を盾に身を竦めた。

 振り上がった拳が止まる。


「幼児虐待! サー・ベルガル! 逮捕して下さい! しないなら横領犯だからな!」

「貴様あああああ!」

「君に怯えて、この子がうっかり落ちて怪我したり死んだら君のせいだからな!  皆見てるぞ! 大人しく連行されるって言ってるのに暴力は違法だ!」


 青筋立てて怒っても、中年はリムスルムに手を出せない。何せ赤ん坊が盾だ。おまけにリムスルムの主張は一応正論ではある。

 私の隣でマスターが小さなため息を吐いた。

 カウンターに座る常連客がヒソヒソと「また始まった」と囁き合う。

「あいつ、今に殺されるな」とか「そう言いながら何年経つっけ?」というお決まりの台詞に「年々騒がしくなってるな」も続く。

「サー・ベルガル」とリムスルムに呼ばれた男はずっと無言。俯いている。


「もういい! 帰る! 部下の教育くらいしろよ。誰だよ、サー・ミガルドは優秀なんて言った奴。お前も投書するからな! 新聞で読んだ、何か偉い人が必ず目を通す凄い箱に投書しておくからな!」


 リムスルムは赤子を抱きしめて、中年男性に背を向けた。


「おい待て、リスルムって言ったなお前。どうして俺の名前を知ってる……」


 リムスルムはサー・ミガルドに背を向けたまま。今なら殴れるし、肩を掴んで静止も出来るが、そのような事をする気配はない。

 体格の良いのはサー・ミガルドなのに、リムスルムの背中の方が大きく感じられる。

 

「リムスルム。北部に伝わる霜の化物。万年氷に住む破壊神の遣い。全く。税金泥棒なら勉強をしろ勉強。大聖堂で毎日無料の勉強会をしているぞ」


 帰ると言ったのに、リムスルムはクルリと体の向きを変え、サッと近くの席に着席した。


「疲れた。赤ちゃんって重い。パパなんて無理。捨てよう……。はあ……。森かなあ、川かなあ、海は遠いなあ……。こんなに可愛いのに……。可哀想に。親を選んで生まれてこれないもんなあ……」


 リムスルムはメソメソ泣き始めた。顔見知り以外は「すげえ酔っ払い」という感想を抱いているだろう。

 

「で? 俺を連行するの? 何罪で? それともあの男の身体調査や家宅捜索をするの? あの女に育児放棄法適応? ねえねえ、どうするの? サー・ベルガル」

「お……」

「おしめ? 変えてくれるの? 子育てしたことないから助かるよ」

 

 リムスルムはサー・ベルガルへはい、と赤子を差し出した。しかしサー・ベルガルは動かない。


「変えてくれないの?」


 サー・ベルガルは無言で立ち上がり、サー・ミガルドの腕を掴んで出入口へと向かい始めた。イムルという女性と、彼女にヒソヒソ話しかける男性を外へと連れて行く。


「おい無銭飲食!」


 マスターがボソリと「リムスルムめ、どの口が……」と呟いたのが聞こえた。

 確かにリムスルムがこの店に金を落としたのはもう何年も前の事だ。


「リムスルム! うちは前払い制だろう! この酔っ払い! 問題客! 今日はもう終わりだからな!」

「うえええええマスター! 金を払った客に飲ませない店なんてあるの⁈ 良心的だねえ」


 あはははは、とリムスルムの軽快な笑い声が店内に響き渡る。

 リムスルムが口喧嘩した相手はもう全員居ない。

 初目撃客は唖然として、リムスルムを知る客は「本当、どこの道楽息子なんだか」とヒソヒソ噂話を始める。

 リムスルムはニコニコしながらカウンター席へ戻ってきた。


「ミンディ、母乳ってメニューにある?」

「あるわけないだろう。ったく……。それにしても今夜は大騒ぎしたね」

「マスター、母乳ってメニューにある?」

「無いと分かっててなぜ聞く」

「あるかなって思って。なあミンディ、ブランデーってメニューにある?」

「品切れです」

「マスター、あそこのブランデーの瓶についている札、リムスルムって書いてない?」

「書いてない。リムスルム、飲み過ぎでかすれ目なんだな。あ生憎だが今夜はもう全メニュー品切れだ」


 リムスルムは返事をせずに微笑みながら腕の中の赤子を見つめている。


「リムスルム、その子をどうするんだ? 本当に引き取って育てるのか?」


 私のこの質問に、リムスルムはすぐに返事をした。


「ん? だから捨てるって。まあ、それまではパパだな。何日持つかなあ」


 リムスルムはその台詞を最後に、赤子を抱えて、鼻歌まじりで店から出て行った。

 そうすると、店内中でリムスルムの正体について予想する会話に華が咲き始める。


「マスターはどう思います?」


 カウンター席に座る小柄な女性客がワクワク顔で問いかけた。手元にはメモ帳とペン。記者だろう。

 

「興味無いね。毎回毎回じゃないが変な客を減らしてくれるし、ここいらの治安も良くなるし、最近は今夜みたいに暴れるから見世物見たさに新規客も来る。触らぬ神に祟りなしさ。なあ、ミンディ?」

「皆の言う通り、どこぞの貴族関係者の道楽ですよ。じゃなきゃとっくに殺されてますって。国政に参加したりせずに、権力と知恵をひけらかして正義の味方気取り。まあ、あの赤ちゃんにとっては良かったんじゃないですかね?」

「へえ、辛辣ですね。自己満足の偽善者だと?」

 

 記者の好機の瞳には、あまり良い光は滲んでいない。

 30年少々、色々な人間を見てきて、あまり好まないタイプの人種だ。私は目を伏せて、洗い物に専念した。

 小さく「ええ」と返答する。


「おい姉ちゃん! リムスルムより、さっきの騎士の方が絶対金になるぜ。リムスルムってやつは疫病神でよお。本当に投書するらしいぜ。しかも沢山。叩いてホコリが出ないお偉いさんの方が珍しいからだって、前にペラペラ喋ってた」

「そのお話し、もう少し聞かせてもらえます?」


 記者と常連客が話し込む。


「ミンディ、空き瓶を運べるかい?」

「はいマスター」


 私はエプロンを外し、空き瓶の入ったカゴを持って、裏口から店外へ出た。


「遅かったね、ミンディちゃん」


 裏口すぐ脇の暗闇の中、ゴミ箱の上に座ってやあ、と手を上げたのはリムスルム。赤子はもう抱いていない。


「もう捨てたのかい?」

「またまた〜。誰か知ってる?」

「いや、最近は不妊で嘆いている話しは聞かないよ」


 ふーんと唇を尖らせると、リムスルムはニカっと笑った。


「まあ困ったら孤児院さ。最近手厚いらしいし。男の子だからあの子と違ってお嬢様になれないなあ」

「ったく。責任は取らないのに、犬や猫拾うみたいに子供を拾って。それにしてもリムスルム、ここのところどんどん言動が派手になっているけど良いのかい?」

「あの記者知り合いだから平気平気。それに俺が誰か知られたって、別に困らないし」


 じゃあね、と手を振って、もう用はないというように颯爽と遠ざかっていくリムスルムを、私は見えなくなるまで見つめ続けた。

 本当に、どこの誰なんだか。

 知り合って約10年か。長いようで短い。私はボンヤリと空を見上げた。今夜は曇り空。星なんて一つも見えやしない。


『こんな時間にこんなところにいたら死ぬよ?』


 真冬の寒空の下、近くの路地裏で声を掛けられたのが最初の会話。

 夫が死んで、借金が判明し、取り立て人が自分と子供を娼館に売ると言い出して恐ろしくて家を飛び出した。

 リムスルムに声を掛けられたのは、その日の夜、どこにも行き先が無くて途方に暮れ、路地裏に座り込んでいた時だ。

 雪が降っていて酷く寒く、生後1年に満たない子供と2人でどうしたら良いのか考える思考能力は無かった。いや、振り返れば考えることを放棄していたが正しい。

 優しく話しかけられ、温かい店へと誘われ、私はホイホイついて行った。神様はいると、本気で感激した。

 リムスルムはうんうんと話しを聞いてくれ、小遣いしか無いけど、と銀貨を3枚くれた。

 それが一転、店外へ出たら、リムスルムは抱えていた私の娘を奪って逃亡。


『悪いけど君は頑張れ。頼み続ければ住み込み仕事が落っこちてるかもしれない。無かったらゴメン』


 それが捨て台詞。必死に追いかけたけれど見失ってしまった。

 当時、甘い誘いには罠がある。人攫いだ、いや銀貨たった3枚で我が子を買われてしまったと、酷く後悔し、嘆き悲しんだ。

 騎士署では「諦めろ」としか言われず絶望。

 何もする気がしなくて、リムスルムが話しかけていた裏路地に座り込んでいたら、酒場テミアのマスターと、当時生きていた奥さんが拾ってくれた。

 約1年後、リムスルムと酒場テミアで再会。先に気がついたのは彼だ。

 いつからなのかは不明。ある日カウンター席に座って飲んでいたリムスルムが、私に向かって「銀貨3枚返して」と言い放った。

 リムスルムが今とは違って、目立たない客の一人だった頃だ。

 正直、彼がそう口にしなければ、私はリムスルムが誘拐犯だと気がつかなかっただろう。

 

『銀貨3枚返して』

『えっ?』

『そうそうミモリア街って良いよね。何かベビーブームらしいよ』


 何言っているんだこいつ?

 最初の感想はそれ。その次はリムスルムに掴み掛かっていた。


『凍死した方が良かったか?』


 微笑んではいるが、氷のような眼差しだと感じた。今と同じ、リムスルムが私に向けているのは軽蔑だ。

 言葉を詰まらせた私に、リムスルムは追撃の台詞を放った。

 

『間違えた。殺したかった?』


 全身の力が抜けて、床に座り込んだ私は大泣き。マスターがリムスルムを店から叩き出した。

 その際のリムスルムの捨て台詞は大声で『触れずに言葉で店員を口説いただけで退店させるな! 酔ってエロトークしたくらいで泣くな!』である。

 以降、リムスルムは悪びれた様子を一切見せずに顔を出す。

 私に向かって、必ず一言「ミモリア街」という単語の入った言葉を投げるので、娘は王都隣街のミモリア街で暮らしているのだろうと推測している。

 今夜の発言だと、ミモリア街のセント・バルル・バーリー女学院に通学中だ。

 アルタイル王国に三つある、超お嬢様学校のうちの一つ。

 雪の中で母親と心中。どこかの貴族の養女。天と地の差だ。

 マスターだけが、私と娘、リムスルムの関係を知っている。

 当時その場にいた客で「私がリムスルムに泣かされた事件」を覚えているのは2人。

「ミンディがまだウブだった頃」と揶揄われる。

 今夜は大嫌いな雪は降らなそう。まだ冬ではないから当然。

 

 リムスルムの顔を見るたびに、叫び出して殴りつけたくなる。私の神様で悪魔。娘にとっては、神様だ。彼女にとってリムスルムとの出会いは生か死かの分岐路だったのだから。

 リムスルムはどこの誰だか分からない、年齢さえ不詳の男。

 リムスルムは霜の化物。万年氷に住む破壊神の遣い……。この偽名に込められた意味はなんだろう……。


『こんなに可愛いのに……。可哀想に。親を選んで生まれてこれないもんなあ……』


 今夜のリムスルムの発言のところどころは、まるで私への当て付けみたいに感じられた。

 親失格。こんな女の元に生まれて可哀想。確かにその通りだが、途方に暮れて心中寸前だったが、可愛い我が子のために奮い立ったかもしれない。

 それなのに、リムスルムは私の全てを否定する。彼の目はいつだって私を非難している。

 ため息と共に座り込み、込み上げる涙を堪える。


「ミンディ、本当に知らない? 俺は1人知っているんだけど」


 去ったはずの男に声を掛けられて、ギョッとした。顔を上げて、見上げると、リムスルムが私の前に立って前屈みになっていた。


「リム……」

「ここって母乳売ってないし、母乳出る人も居ないけどさあ。絶対に可愛い赤ちゃんを捨てない人がいるでしょ?」

「何言って……」

「君は可愛い我が子を守る為に極悪非道な悪人から必死に逃げた。それで悪魔にその我が子を奪われた悲しい女性だ。なのにやっぱり泣くのか。捨てたのと、守って逃げたのに盗まれたじゃ全然違うぞ」


 こちらを見ないで、凛と背を伸ばしながら、ポンポンと頭を撫でられて戸惑う。

 泣くかもしれないから帰ったフリをして様子を見ていたとは驚きだ。


「リムスル……」

「俺なら母親が2人って嬉しいけどな。奇跡の再会だ。自分を責めていたって、幸せにはなれないぞ」


 ポンポン、ポンポン、リムスルムは私の頭を撫で続けた。


「バカ言うなよリムスルム。職場は酒場、片親で……」


 私を見下ろすリムスルムはやはり冷たい目をしている。しかし、あんまりにも優しい微笑みなので喉をつまらせた。


「そう? 飢えなんて知らないで育つだろうし、ワイワイ賑やかで楽しそうだ。悪ガキになろうにも、エロジジイやご近所さん、怖いマスターとか見張りだらけだ」


 クスクス笑うと、リムスルムは私から離れた。


「時間切れ。さようならミンディ。早く私を恨んで憎め。その為に私がいる。母親に戻りたくなった時は、一目見るだけでもと願った時は、投書箱に入れると良い」


 俺ではなく私。それにイントネーションの訛りがない。とても自然な発音。リムスルムが遠ざかり、逆に彼に幾つかの影が集まっていく。


「もし返事がなかったら、大聖堂へ行って、大司教様にこの国で1番出世した男の隠し子の母親だって主張しなさい。リムスルムは今夜女に刺されて死んだ」


 あはは、といういつもの笑い声を残して、リムスルムは闇夜に溶けるように消えた。


 翌日から、街のあちこちにある国家掲示板に「騎士取締月間。税金泥棒は許すな。市民は監視者であれ。例)侮辱罪は連行権適応の範囲外」と「要望や不満、タレコミは投書箱へ。議員、公務員、匿名投書は不可」と「知識は宝。アルタイル大聖堂で無料勉強会開催中」いう張り紙がされた。

 数週間後、騎士団員が麻薬横領で逮捕され、売買組織と製造組織が摘発されたというニュースがあったが、それ程話題にならず。

 国王宰相の1人が、舞踏会で有名オペラ歌手に鉄拳で殴られたという、しょうもないスキャンダルの方が騒がれた。


 ❄︎ ❄︎ ❄︎


 数年後。

 ふと思い立って、私は投書箱に【銀貨3枚を返したいです。追伸.まだ会えません。死ぬまでかもしれません】と投函した。

 半年経って、返事の封筒が届いた。封の刻印は王家の紋様。

 中身は同じ大きさの紙が2枚。

 1枚目は【銀貨3枚は返却不可です。どこかへ寄付しなさい。このような私的要望は困ります。読むのが大変で過労死します。酒を飲む時間、いっそ育児休暇が欲しいです】

 2枚目は溌剌とした少女の絵。裏には絵の少女と思われる名前が記されている。

 封筒の裏面にはタイプライター文字で【リチャード国王宰相】そして、隣には手書きでリムスルムと記入されていた。


 マスターにだけ投書に対する返信を見せたら、マスターも投書をした。

内容は【住所不定の常連客が失踪し数年経過しました。彼が来たら渡して欲しいと預かっている伝言、品物が溜まっていて処理に困っています】

 返事は2週間後。

【ケースバイケースですが、今回指摘の失踪者に関しては死亡の確認と、生前の意思確認がなされています。伝言は破棄。品物はポケットマネーに変えましょう。この件に業務上横領罪は適応されません。このような私的要望は困ります。読むのが大変で過労死します。貴方は噂のタレコミをするべきです。そちらの場合は過労死なんて気にせずに投書しましょう。よく隣にいる美女に仕返しは大罪になるので考えないようにお伝えください。なお可愛い娘を抱っこしたければ、投書を私的文通に利用せず、直接本人宛てに送るようにお伝え下さい。郵便物受取許可者名簿に氏名と住所を加えておきます。男性老人など全くタイプではありませんが、こちらの氏名と住所もおまけで許可者とします。娘を抱っこすると長生きという加護があるかもしれません。私的文通に噂のタレコミはしないようにして下さい。間違えないようにしましょう。なお私的文通に関しては返信保証は全くありません】

 この返信封筒の裏面にも、タイプライターの文字は【リチャード国王宰相】で、隣に手書きでリムスルムである。


 この日の夜、酒場テミアに騎士団が「業務上横領罪調査」だと乗り込んできて客を追い出し、マスターと私だけが残された。

 騎士の中に、年齢相応にぷくぷくしていて、黒髪でクリクリ黒目をした1歳児を抱いた優男が混ざっていて、他の騎士団員が無言で整列している中、ペチャクチャ喋って、私とマスターに赤ちゃんを抱っこさせて帰宅。

 騎士団は帰る前に店の壁に「不規則不定期抜き打ち調査。業務上横領罪の可能性なし。優良。日付」という紙を貼り付けていった。


 アルタイル王国には3人の宰相がいる。

 そのうちの1人は元捨て子だ。

 

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