84. 過去は過去、今は今
「……力試しはこんなものかな」
「そうね。もう十分でしょう」
ラウラが手を離すと、紅蓮の剣の炎が揺らめきが、跡形もなくふっと消える。まるで最初から存在しなかったかのように。
一方のアルトは、氷剣の切っ先を床に向ける。剣に宿っていた魔力が吸われていくように、淡青色の剣が徐々に透明になり、ダイヤモンドダストのように空中へと霧散し、きらめく雪の欠片が室内の光を反射しながら消えていく。
(終わった、のね……。魔法を使った模擬戦は初めて見たけれど、すごい迫力だったわ)
エディは沈黙を守ったまま、そのすべてを見届けていた。
先ほど鬼気迫る魔法をぶつけ合っていたとは思えないほど、普通に会話する二人を眺めながら、彼は慎重に言葉を選ぶ。
「あなた方は一体……。魔法は詠唱が必要だと聞いています。それを無詠唱で、これほど高度な魔法を次々と放つなど、普通はあり得ません。その技術は一体どちらで身に付けられたのですか? まさかとは思いますが、独学で……?」
エディの疑問はもっともだ。彼の問いに答えたのはラウラだった。
「あなたの感覚は普通よ。だって、私たちは他の人とは違うもの。……改めて自己紹介をさせてもらうわね。私の前世の名前は、イリス・ユルハ。マルシカ王国の守護結界を張った大魔女よ。かつてはマルシカ王国の魔法省の最高顧問を務めていたわ。魔法の知識は全部、前世の記憶によるものよ。アルトもね」
「は? アルトも前世の記憶があると?」
「……エディが驚くのも無理はないよ。でもね、これが真実なんだ。僕たちは前世の記憶を持って生まれ変わったから、魔力量は昔ほどではないにせよ、前世で使えていた魔法はある程度使える」
真面目な顔でアルトが答える。
エディは額に手を当てて黙考した後、ゆっくり顔を上げた。
「では……アルトもマルシカ王国の生まれだったのですか? だから、一流魔法使い並みの高度魔法を?」
「ちょっと惜しいね。前世の僕は、イリスと敵対する立場だったんだよ」
「敵対?」
「そう。個人的なものじゃなくて、国同士の戦いって言ったらわかりやすいかな? 当時、マルシカ王国と戦争していた国に所属していたんだ」
「…………まさか、シルキア大国?」
歴史の授業で先生から急遽当てられた生徒を褒めるように、アルトが短く拍手した。彼はにかっと笑い、エディにさらなる真実をあっけらかんと告げる。
「大正解。僕の前世は、シルキア大国の魔法中隊長エルメル・シルヴォラ。国の命令を受けてマルシカ王国とずっと戦ってきた。つまり、大魔女イリスは宿敵の相手というわけだね」
「……すみません、ちょっと待ってください。その話を信じると、あなた方は前世では敵同士だったということになります。なぜ、一緒にいるんです? 大魔女イリスの話は子どもでも知っています。お互い国を守るために戦ってきた過去を覚えているというのなら、今のあなた方が親しくなる理由なんてないでしょう。それとも、実はシルキア大国の諜報員だったのですか?」
「残念ながら、どれも不正解でーす!」
「……え……?」
金色の瞳が信じられないとはがりに、何度も瞬く。
エディは何かを言いかけては唇を引き結ぶ。眉を寄せ、警戒心たっぷりの目でアルトを見つめる。けれど、その反応は想定内だったのか、続くアルトの口調は軽い。
「僕とラウラは前世の記憶があり、過去は敵同士だった。でも今は、同じクラッセンコルト公国に生まれて、普通の人間として暮らしている。要するに……過去は過去、今は今! 僕はシルキアの間諜でもないし、ラウラだって今のマルシカ王国とは無関係だよ。僕たちが仕えているのはクラッセンコルト公国の大公家。つまるところ、今は仲間ってことだね」
「信じ、られません……。相手はかつての敵でしょう? 記憶があるのならなおさら、そんな簡単に割り切れるとは考えにくいです」
誠実な考え方だと、セラフィーナは思った。
エディがすぐに事実を飲み込めないのも当然の帰結だ。
(でも、どんなに信じがたいことでも、これが真実なのよね……)
セラフィーナが困惑したままのエディに同情していると、アルトが少しむくれて言う。
「言っておくけど、僕は好きでマルシカ王国に攻め入っていたわけじゃないよ。それが国の命令だったから。本当は大魔女イリスをさらって、僕の花嫁にしたかったぐらいなんだから。でも当時はどんなに彼女に恋い焦がれても、決してその願いは成就しなかった。当たり前だよね、敵国の人間として生まれたんだから。しかも、彼女はマルシカ王国の守護の要ともいうべき、唯一無二の宝。敵国の花嫁にやるわけがない。……当時、本人にも断られたしね」
「…………」
「前世から続いたこの恋は、今世で決着をつける。もう国のしがらみに縛られることもないしね。まだ片想い中だけど、いつか『アルトがいい』って言わせてみせるよ。……エディにも僕の本気、少しは伝わったかな?」
アルトが自信満々に言い切り、エディは呆気にとられたように黙っている。
いつもなら、ここでラウラが否定するところだが、彼女はエディの結論を静かに見守っていた。
困惑した表情のまま、エディが顎の下に人差し指を添えて考え込む。
突拍子もない話を一気に披露されて、混乱しているに違いない。整理する時間も必要だろう。
(ラウラ先輩やアルトさんは敵じゃない。二人の力は脅威になるかもしれないけど、彼らは私利私欲でその力をふるうことはない。……少なくとも、アルトさんがラウラ先輩に向ける感情は純粋なものだもの。それだけでも伝わってほしい)
だが、エディはレクアルの近衛騎士だ。
レクアルに忠誠を誓い、公国のために身を尽くす騎士だ。もし彼が二人の力を危険と見なせばどうなるか。そして、エディをこの場に連れてきたのは、他でもない自分だ。
彼が非情な判断をするとは考えにくいが、深刻に考え込む様子に、セラフィーナはたまらず口を開いた。
「あの、エディ様。アルトさんのラウラ先輩への気持ちは本物ですよ。本気でラウラ先輩を慕っていらっしゃいます。前世で叶わなかった恋心をひたむきに捧げています。そこだけはどうか、信じてあげてください」
「セラフィーナ……。あなたも前世の記憶があるのですか?」
「ま、まさか! お二人が特別なだけです。わたくしに前世の記憶なんてありません。もちろん、魔法だって使えません。ラウラ先輩とアルトさんが別格なのです」
その答えに少しの安堵を見せ、エディの硬い表情がふっとゆるむ。
彼はラウラとアルトに向かい合い、自分の胸に手を当てた。その横顔には畏怖や不安の色は消え失せ、しっかりとした声が信頼を伝える。
「先ほどは狼狽してしまい、失礼しました。……見事でした。あなた方の実力、確かに拝見しました。レクアル殿下をお守りする力としては十分すぎるほどの力です。人の力で余る事態になったとき、その力を頼りにできるならば、非常に心強いです」
「……エディ様」
恐怖の対象としてではなく、守る力として考えてくれたことに、セラフィーナは泣きそうになった。三人だけの秘密を知る者が増えるということは、それだけ情報漏洩のリスクが高くなる。
なのに今では、こうして彼に知られることが、こんなにも頼もしく感じる。
「お二人の考えは必ず、レクアル殿下に届けましょう。きっとわかってくださいます。レクアル殿下はこういう面白いことにはおおらかですから」
「おおらか……」
「言うねぇ、エディ」
「主人の心を推し量るのも、騎士の務めですので」
心配そうに見ていたセラフィーナに、エディが穏やかな笑みを向けた。