第二十七話 ヘタレと恐竜とヒルクライム
背後から轟く咆哮は臓腑にまで響き、出る筈のない冷や汗が流れ落ちるように冷たい感覚が背筋から尻尾の先までをさっと走り抜ける。
一歩の大きさが違いすぎる故に平地ならば速度はあちらの方が上だろうが、道も茂みも区別なく走っているために障害物や勾配に阻まれて速度が出ない。木立を避けたりへし折ったりと行く手を阻むそれらを苛立たしげに排除しながらも諦める様子がないのは、奴の視界に俺が居るからに他ならないだろう。
走れど走れど絶対的な距離は広がらない。狭まりもしていないのが救いではあるが、敷設された道の構造上ヘアピンカーブを折り返して奴の目の前を掠めるように走らなきゃならんので、最接近した時に巨大な顎がテンション上げて吼えやがるのが鬱陶しい。
「振り切れねぇ……おい、なんとかならねーか!?」
「無茶言わないで!」
加減の利かないあの馬鹿出力なら何とかなる気がしなくはないが、首にしがみ付いているトリーシャは珍しく怯えたような悲鳴で答えた。
出会ってまだ一年足らずではあるが、コイツがここまでに恐怖に震えることなど今まであっただろうか。これほど巨大ではないが牛ほどの体躯を持ったイヌ科の魔獣とか地形を巧みに利用して数で追い込んでくる亜人のような今まで遭遇し、撃退してきた奴らも十分脅威だった筈だ。それに脅威の度合いで言えば砂埃を巻き上げて迫る荒野の野盗の集団やマドラの刺客は普通に考えたら絶体絶命だ。
「別に張り倒せとは言ってねえ。閃光とかでかい音で怯ませるなり、足止めしたりとかなんか手はあるだろ?」
「そ――そう、ね……」
ようやく我に返ったらしく、抱きついた姿勢だったトリーシャは僅かに身を起こして俺の腰に括りつけたポーチをまさぐり始める――って。
「なんでインスタントなブツに頼ろうとしてんだよ? 術装器でフツーに発動させればいいじゃねーか」
「こんなに手が震えてたら、落としちゃうかもしれないでしょ!?」
なるほど、言われてみれば一理ある。つーか、コイツがそこまで怯えるって後ろのアレはどんだけヤバいんだよ!?
何度目かの接近から突き放されを繰り返し、焦れてかなり頭にキているらしい恐竜が「待てやゴルァ!」とばかりに咆哮を轟かせる。
『恐竜』、追ってくるデカブツを形容するのにコレほどしっくり来る言葉は他に無い。
恐竜と言えば四足でどっしりした草食竜と二本足で如何にも早く走りそうな肉食竜の二種類あるが想起しやすいと言えば後者、それも大きな顎にずらりと並んだ鋭い牙、そして見上げんばかりの巨躯を誇るティラノサウルスだろう。
俺を追って雄叫びを上げている奴は正にソレ、かく言う俺も見掛けは恐竜だが奴は掛け値なしの恐竜だ。ゾウに似た灰色の分厚そうな皮膚に、胴体をガブリと咬まれたらそのまま飲み込まれそうな巨大な顎。太っとい血管と筋が浮き立った逞し過ぎる脚とひょろりと細く短い前肢がアンバランスな二足歩行体は、たとえ実物を見たことがなくても『ソレ』だと断言出来てしまう。
首にしがみ付いた少女が「ひぃっ」と短く引き攣った悲鳴を漏らすが、らしくねぇ。戦闘狂なコイツなら嬉々として迎え撃つところだろうに、全く以ってらしくねぇ。
それはそうと俺もウェイヴクラッカー辺りの目晦ましを覚えておくんだった……。
「えっと、これは……ナパームブラスト?」
「おいィ!? 障害物を焼き払ってどーすんだ!」
「書いてあるのを読んだだけでしょ、分かってるわよ! こっちは……サンダークラップ、これね!」
同じラベルが貼られた小さな柄付き手投げ弾を三つほどバッグから取り出す。……までは良かったが後ろを振り向いたら何故か静かになり、また首にしがみ付いてきた。
「お前、何やってんの?」
「う、うるさいわね! ちょっと遠すぎたから止めただけよっ」
じゃあなんで涙声で震えてんだよ、とは可哀想な気がして言えなかった。つーか耳のすぐ近くでヒステリックに喚かれると結構クルものがあるので、ちょっと声量を落として欲しいと思うんだ。
「ならギリギリまで引き付けるから、タイミングを見て鼻先に放り投げろ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
速度を緩めようとする俺を制止したトリーシャは首にしがみ付いたまま、自分を落ち着けようとしているのか乱れた呼吸を抑えようと深呼吸を何度も繰り返す。しかしそれは一向に落ち着きを見せず、過呼吸に似た状態に陥って全くの逆効果となっていた。
あの巨体に加えて結構な勾配が付いた斜面、その上木々や草花を掻き分けて道なき道を突き進む蛇行追跡だ。スタミナはそう長く続かないと思いたいが、こちらも人一人と荷物を背負っての走行だ。このまま我慢比べをするにしても確実性が薄い、あまり賢くないようだし早いところ振り切って諦めさせねば。
そう思いながらも追いかけっこは数十分ほど続いてしまった。付かず離れずで追ってくる奴も疲れているはずだが、咆哮のテンションは相変わらず高いままだ。
こっちはいい加減、脚が重い。このままではいつか追い付かれる……。
「おい。ソレ、こっちに寄越せ」
「え? な、なに?」
「このまんまじゃどうしようもねーだろ。俺が投げるから寄越せって」
「アレに近寄るっていうの……!? い、嫌よッ!」
おいおい、勘弁しろよ。なんだってコイツ、いきなりヘタレちまったんだ……って、呆れてる場合じゃねえ。この追求、てか落とし前は後でキッチリつけるとして、今は後ろの危険物を何とかしなきゃな。
「怖ぇえんならしがみ付いて顔伏せてやがれ!」
言うまでもなくずっとその姿勢なのだが、しがみ付く腕の力が少し強まった気がする。
その手から小型手投げ弾を奪い取りチラリと背後を窺うと、ティラノサウルスは相変わらず猛って吼え捲り疲れた様子など微塵も見られない。それどころかこちらが速度を緩めた事で距離が少しずつ縮まり始め、奴のテンションが更に上がったように思えた……恐竜の表情などそう分かるものではないが、全く外れてはいまい。
急斜面をグイグイ駆け上がってくる捕食者の姿はくっそ恐ろしい。
雑食に順応した羽竜族と違い鋭く長い牙しか無い顎は完全に肉食である証だ。その凶悪かつ巨大な顎がジリジリ迫り来る様は、必死に慮外に押しやろうとしている恐怖を秒単位で割増しながら払い戻そうと押し寄せてきやがる。
脚は今にも竦んでしまいそうなくらいガクガクだ。正直なところ未だに走れているのが不思議なくらいだと思っている。ここで転んだり、何かの拍子に足を止めてしまったら、もう一歩も足を前に踏み出せなくなるだろう。
「ギャオーギャオーとでけぇ声で吼えやがって! どんだけ喧しいか、てめえも身を以って味わいやがれってんだッ!」
そんななけなしのチキン度胸を雑巾宜しくぎっちり振り絞って大声を張り上げ、思い切り振り返る。
腹を括ったつもりで気合を叫んでみたところでこちとら事勿れが暗黙の了解、野性動物の脅威は皆無ではないが自身は無縁に育った筋金入りの温室育ち。度胸なんざ異世界に来てから歳上と男の意地に齧り付き、責任感で涙と鼻水をちょちょ切らせて少しずつ身に付けてきた付け焼き刃だ。鋸みたいな牙の列も然る事ながら、射殺さんばかりの眼力でこちらを捉えている血走った目を見てしまった瞬間、全身の筋肉が引き攣り硬直したかのような息苦しさと重圧感に襲われる。
一瞬、時間の流れが異様に遅くなった気がした――が、頭の中にガリっと歯の軋む音が響いて虚脱しかけた意識が引き戻される。
負けるか! こっちは腹痛めて産んだ一人娘を預けてきてんだ。こんな所でくたばって溜まるかよッ!
身体中を巡るマナの流れを操作し、指に挟んだ手投げ弾へと注げるだけ注ぎ込む。そして――。
「耳塞げェ!」
――急な傾斜を強引に駆け上がってくる奴の鼻面へ放ったら踵を返し、両手で耳を塞いで一目散にダッシュ!
放り投げた手投げ弾はティラノサウルスの巨体からすれば爪楊枝みたいなモノだ。山なりに飛来するそれには気にも留めないだろうし、もしかしたら見えていないかもしれない。
その小さな物体が金色に煌めき、破裂して空気を切り裂く轟音が立て続けて響き渡った。
サンダークラップはその名の通り、雷鳴の如き強烈な炸裂音を発生させる術式だ。以前、マドラでカタリナが使用したスタンフラッシュと違い閃光も衝撃波も無いが音は三倍増、耳を塞いでなお脳を揺さぶる凄まじい大音響だ。こんなのを不意に、しかも間近で食らえばあのデカブツといえど面食らう事だろう。
奴がどんな反応を示したか、それを確かめる事はしない。距離を稼ぐために少しでも速く走る、それだけに全精力を注ぎ込む。失神でもしてくれれば最良だが、目を回して怯んだ隙に距離を広げれば追う気を失ってくれるかもしれない。
背後から怒りとも嘆きとも取れそうな咆哮が上がり、轟く。
失神はしなかったか、と落胆する気持ちに蓋をして一心不乱に駆け上がった。
しかし再び聞こえ始めた地鳴りのような足音により蓋が揺らぐ。
効果無し。
それどころか猛り狂った激しい咆哮には今までとは少々異なる響き、なんだか怒っているようにも聞こえた。
もしかして以前にも似たような目に遭って取り逃がしたことがあるのではないだろうか、と、そんな推測が頭を過ぎる。
動植物の姿がめっきり減ってしまう冬山の食糧事情は相当に厳しいらしく、亜人は相変わらず鬱陶しいほど元気だが他の獣たちの姿はほぼ見ない。あの恐竜にしてみればどれくらいぶりに遭遇した獲物なのかは分からんが、そんなにひもじい思いをするくらいならさっさと冬眠しろや夜更かし野郎! と悪態を吐かずにはいられない。
「次、スタンフラッシュ!」
「ま、まだやるの……!?」
「状況が変わってねーんだから、やるしかねぇだろッ! 俺は投げたらさっさと走るから、お前はアイツの様子を監視しろ!」
「うぅ……わ、分かったわ」
こうなればもうヤケだ!
再び腰のポーチを弄り、取り出した小型手投げ弾を三つ受け取る。そして徐に振り向き、先程とあまり距離が変わっていない恐竜目掛けて指に挟んだモノを放り投げると、小さな物体が金色の光の尾を引いて山なりに飛んでいく――が。
「え……えぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇっ!?」
さっさと踵を返して走る俺に代わって後ろの様子を見ていたトリーシャが素っ頓狂な叫び声を上げた。
何が起こった、と思わず振り向いた視線の先で閉じた恐竜の顎がボンッ! と内側で何かが爆発したかのように大きく揺れた。牙の隙間から閃光らしきモノが漏れたように見えたが、もしや……。
「あのヤロー、今度は何をしやがった」
「……食べちゃった」
……やっぱりかよ。
何処ぞへ弾き飛ばすとかなら分からんではないが、何故その行為に至ったのか問い詰めたい。言葉が通じるならば縛り上げて小一時間問い詰めたい。
あんなもんを食ったら腹壊すだろうに。というか、光だけならともかく全方位に衝撃波と爆音を発生させる術式だ。大したものではないが、それでも至近で喰らえば前後不覚に陥る程度の威力はある。それを口内なんぞで発生させれば――。
「あ、倒れた」
――まぁ、そーなるわなぁ。
目を回したようにふらぁ~、と横へ傾いた恐竜は枯れた草木をへし折りながら大きな音を上げて急斜面を転がり落ちていく。
サイズ的に人間や亜人、中型の魔獣程度を対象とした術装弾だが、ありゃあ死んだかもしれんなぁ……。
まー、いいや。先に進もう。
かなり疲れてはいたが安心できる距離を稼ぐまでは、と未だ震えが止まらない脚を叱咤して斜面を駆け上がる。
暫くして何処からか悲痛な響きを伴った獣の咆哮が聞こえた気がしたが、気のせいって事にしておこう。
九十九折れが落ち着いた辺りで結界装置を見つけ、俺たちは休息をとる事にした。
急勾配を駆け上がり続けるのはさすがにしんどい。喉は粘膜が乾燥して引き攣ったみたいな感覚があるし、全身が非常に重い。特に下半身は張り詰めてパンパンになっており、加えて関節がガクガクと震えて暫く動けそうにない。
奴の腹に納まることなく、こうして無事に走り抜けた自分を褒めても良いと思う。
それはそれとして、今はちょっとやらねばならんことがあるよなぁ。
「おめーよぅ、いきなりヘタレるとかマジ無いわ」
一応均してはあるが土を踏み固めただけで舗装されていない道にペタンと座り込み、枯れ草を敷いた上に腰を下ろして項垂れているトリーシャを問い詰める。
本当ならもっと強く詰問したいところだが、鞍から降ろしたら予想以上に憔悴していたのでなんだかちょっと気の毒になってしまった。
でも言うべきは言わねばならんだろうと心を鬼にして、でもちょっぴり抑え目に言ってみた。
「悪かったわね……アレだけはダメなのよ」
「恐竜が?」
「貴女たちの国ではそう呼ぶのね」
言い得て妙な呼び名だわ、と力なく笑うその面は血の気が引き、ただでさえ白い肌がまるで蝋のように色を失ってしまっている。
「なんかあったのか?」
「幼い頃にね、色々あったの」
深い溜息を吐き、キラキラ輝く金髪を気怠そうに掻き上げる姿は普段の優雅な立ち振舞いからはちょっと考えられない姿だ。張りの無い声からも、彼女の心に巣食った恐怖の根は相当深いのだろうことが窺える。
「だから冬眠している今の時期になら大丈夫と思ったのに……」
「予想外ってのは割とあるもんだ。それにわざわざ近寄らなくても、お前の馬鹿パワーでなら遠くからでも十分仕留められただろうが」
「……そうね……」
深く長い溜息を吐いたトリーシャはそのまま黙り込んでしまった。
今まで見たこともないような取り乱しようだったし、この様子なら本人も分かっているだろうからこれ以上は言わんでもよかろう。
それからは互いに無言のまま、葉の落ちた木々を見上げてボーっと座り込んだ。
辺りは相変わらず獣の声一つ聞こえない静寂に包まれているが、結界装置の近くなら滅多な事は起こらないだろう。
今更だが、結界装置というのは獣や亜人が街道に近付くのを防ぐために設置された術装器の一種だ。
大気や地中に存在するマナを自動で集めて作動し、動作を安定させるために魔晶石という蓄電池のような役割を持った鉱石が組み込まれている。
この魔晶石にも寿命があるらしく、定期的に交換するのは街道警備に当たる兵士らの重要な任務の一つ。治安の悪化が著しいこの地域ではこの交換作業もやや滞り気味で道を覆っている筈の結界が不安定になり、街道を行く人々が野盗だけでなく獣や亜人に襲われる危険性を更に高めてしまっているのだ。
そしてこの結界装置にはもう一つ重要な機能がある。それはこの装置に直接マナを注ぎ込むと一定範囲を覆い隠すように防護結界を展開するというものだ。強度は絶対的とはいえないものの気配遮断の効果も兼ね備えているため、こうしてだらけていられるというわけだ。ちなみにマナの供給役は俺、トリーシャにやらせたら馬鹿パワーで壊しそうな気がして怖い。
あと少し進んで次の装置を見つけたらそこで野営するか、と考えていたらすぐ近くでザシュ、という何かが勢い良く土に刺さる音がした。
それは本当にすぐ近く、結界装置から2メートルほどの枯れた草むらに金属槍のような長い物体が突き立っていた。
なんだこれ? と呆気にとられて眺めているとその表面に濃い紫色の光が奔り、中空に様々な図形や文様が次々と描かれ、浮かんでいく。ソレが何らかの術式だと気付いて立ち上がるが一歩遅い、紫色の光が弾けるように広がった。




