旅人
少しだけ、物語は時を遡る。
その旅人は英雄になりたかった。はるか昔にいたという大剣豪のように、数々の妖魔を打ち倒して名を上げたかった。だからこそ、初対面の村人の頼みを聞いて、こうして森に分け入っている。その若者の恋人は、生贄としてその妖魔に捧げられたという。村人たちに聞けば言葉を濁して語らない。その態度が若者の言葉を裏付けているように思えた。
村から見えた煙の方向へ、ただまっすぐに進んでいく。煙が上がるようになったのは最近のことだと、気味悪げに村人たちが教えてくれた。森は深くなって、もう空は見えない。うっかり向きを間違えでもしたら、妖魔の元へたどり着くどころか帰る道すらわからなくなってしまうだろう。木々に印をつけながら、旅人は慎重に進んだ。
森に入った頃はまだ日も高かったが、ずいぶんと暗くなってきた。木々が生い茂るためばかりでなく、もう日が落ちてきたのだろう。朝まで待つべきだったと後悔し始めた頃、急に視界が開けた。
古ぼけた堂が目の前にあった。丁寧に手入れされているように見えるそこは到底妖魔の棲むところとは思われず、旅人は一人首を傾げた。
格子戸に隙間なく張られた麻布のために、中の様子は伺えない。耳を澄ましてみると、何事かを話す女の声が聞こえた。
贄の娘は生きているのだろうか。ならば助け出して村へ連れ帰れば、あの若者はさぞ喜ぶだろう。慎重に堂に近づくと、中からがたりという物音とともに、怒鳴るような低い声がした。
慌てて格子戸を開け放つと、白い着物を着た娘に覆いかぶさるようにしている妖魔が見えた。その鋭い爪の生えた手が、娘の細い手首を握っている。とっさに駆け寄って刀を振るうと、娘を掴んでいた片腕がぼとりと落ちた。
恐ろしい獣の声が辺りに響き渡り、傷口から吹き出す血が堂の中を染め上げていく。娘は呆然とその獣を見上げていたが、ふと我に返ったように悲鳴を上げて、片袖を破って獣の傷口に押し付けた。
娘の目は、妖魔の血を写したかのように赤かった。
「どうして……」
呆然と呟いたその声に、女がゆっくりと振り向いた。その涙に濡れた赤い目を見た瞬間、旅人は自分がとんでもないあやまちをおかしたのだと直感した。どくり、どくりと鼓動とともに吹き出す赤に気がついて、慌てて駆け寄る。
痛みに暴れる獣を押さえつけ、傷口を女が渡してきた布で覆い、止血のために腕を縛った。床に落ちていたその布は、織り上げたばかりとみえてずいぶんきれいなものだった。
処置を終えると、獣はそのまま意識を失った。旅人も女もひどく慌てたが、獣はただ眠っている。血は止まっていたし、しっかりとした鼓動も確認できて、二人はほっと胸をなでおろした。
獣の残された片手を握って寄り添う女に向かって、旅人は土下座して謝罪した。誤解をしていたと頭をあげられぬまま言う彼に、もういいです、と女は言った。
「あなたがいなければ、この方は生きてはいなかったでしょうから」
静かにそう女は言う。もちろん旅人がいなければ、彼が傷つくこともなかったのだが。
陽の光が差し込みだしたばかりの薄暗い小屋の中で、女の目は赤く輝く。
「……その、あなたは……生まれつき、そのように目が赤いのですか」
旅人が問うと、女は目を瞬いた。
「わたくしの目は、赤い、のですか?」
旅人は懐から鏡を取り出して、女に渡す。女はそれを覗き込み、わずかに目をみはった。
「……どうしてまた目が見えるようになったのか、不思議だったのですが……。あの方の流した血が、わたくしの目を蘇らせてくれたのですね」
女は微笑んで、鏡を返してくる。
「あなたはもう、ここを離れられたら良いでしょう」
「あなたは……」
旅人は問いかけようとして、口をつぐんだ。女の赤い瞳は、閉鎖的な村社会には受け入れられないだろう。
「もともとここにいたいと思っていたのです。……むしろ、都合がいいくらいです」
この森に入る前に聞いたこととは矛盾している。けれどその矛盾こそが、あの若い村人が妖魔の討伐を願った理由であるのだろう。
旅人は結局、彼が目覚めるのを待たずに出立した。
森を出ても、村には寄らなかった。説明できる気はしなかったし、したくもなかった。
それからしばらくして、旅人は旅をやめた。英雄という名には、もう興味を持てなかった。
その後、その村は流行り病で滅びてしまったと、元旅人は風の便りに聞いた。その村の近くの森、その奥深くに棲む片腕のけものと赤い目の女がどうなったのか、それを知るすべはもうない。けれど、二人が誰にわずらわされることなく、穏やかなときを過ごしていればいい。元旅人は、小さな後悔とともにそっと願った。
これにて完結となります。
お付き合い頂き、ありがとうございました。