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誡師  作者: 小声奏
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05.宴 (1)

 外に出ると、空気はひんやりとした夜気に変わっていた。夕刻の慌しい人々の行き交いで生じた、土や草の匂いはすっかり消えて、家々の戸口の隙間や窓から、空き腹を刺激する良い香りが、風に乗って運ばれてくる。

 家内やうちから漏れる楽しげな団欒の声を聞きながら、マソオ達はウカンに案内されて会所へと向かっていた。

 村長の屋敷が寄り合いの場を兼ねる部族も多いが、シュザ族の集落には大抵、村人達が集う場が独立して設けられている。それはその昔、長の地位が世襲制ではなかった頃の名残ではないかと、師が他の誡師達と論じているのをマソオは耳にした覚えがあった。

 シュザの歴史は古い。大陸の東の端を統べる多民族国家カンランの中にあって、決してその数は多くないものの、カンラン領土の西の端に天高く聳えるサゴ山と、比較的なだらかな傾斜のコホウ山の間にある山地や丘陵地に住まい、長くその地を治めてきた。今でこそ農耕も営んでいるが、古くは狩猟のみで生きる山の民として、サン・シ・クン(山の賢人の意)と呼び習わされていたという。

 サン・シ・クン(山の賢人)の末であるウカンの頑健そのものの背を追って着いたのは、他の家と変わりない造りの屋舎だった。違いといえば、村人が暮らす家屋が一枚の戸で出来た片引き戸であるのに対し、二枚の戸をそれぞれ両側に開け放つ両引き戸であることぐらいだろうか。

 その戸板と戸板の間から光の筋が伸びて、ウカンの顔を照らす。眩しそうに目を細めたウカンが戸を開くと、途端に濃い酒の匂いが鼻をくすぐった。

 外からは同じ様に思われた家は、中に入ると随分と様子が違った。広い土間には煮炊きをする竈がついておらず、大きな水瓶が一つと沢山の草履が並べられている。長い一枚板の上り框から数歩もないうちに、木枠にひごを張った戸があり、内の様子がちらちらと透けて見えていた。

 十分に明かりの取られた室内は大勢の人影が見えるのに、寂として声もない。

 まるで葬儀のようだと、マソオはウカンの背に隠れて苦笑した。

 ―――――無理もない。

 野路神であるウツシロの堅牢な庇護をうけて、怪の脅威に晒される事無く暮らして来たのだろう。平穏な村には誡師である自分の存在は、白布に落ちた墨汁のように厄介なだけのものなのだ。

 師から離れ、初めて訪れた村で味わった、胃袋が焼けるような熱を思い出して、マソオはそっと腹に手を当てた。

 あれからもう二年になる。導いてくれる大きな手が消え、それでも変わらずやってこれたのだ。

 もう守られるだけの存在ではない。

 マソオは顔を上げて、笑みを浮かべた。

 とうに草履を脱ぎ終え、床に上がって、じっとマソオに閉じた眼を向けていたリョオウが、すっと手を差し出す。マソオは白い指先に己のそれを重ねた。


 脱いだ草履を整えていると、食べ物の匂いに誘われて、チチチ、とカチが可愛らしい泣き声をあげた。

 その声が耳に届いたのか、背後でウカンが息を呑む音が聞こえる。

 マソオは布の上から軽く叩いてカチを宥めると、袂に忍ばせてあるトグリの実を取り出し、巾着の緒を緩めて、素早く中に放り込んだ。途端にコリコリという小気味よい音が鳴る。

 長く袋の中に入れたままで不憫であった。長の家に置いて来られればよかったのだが、そうもいかない。カチの存在を確かめるように巾着を撫でると、マソオは立ち上がってウカンを見た。

 及び腰で眉間に皺を寄せながらマソオを見ていたウカンは、瞬時に背を伸ばすと口を開いて白い歯を見せた。弓なりに形作られた口元には相当な意思の力が加わっているらしく、不自然に筋肉が盛り上がっている。恐ろしいが、それを態度に出すまいとしているのだろう。

 しかし引き攣った笑みは、厳しい顔をさらに険しく見せるばかりで、マソオは目をまるくした後、ついくすりと笑みをこぼした。歪な笑みがウカンの不器用で真っ直ぐな人となりを表しているようで好ましかった。

 くすくすと微かに耳に届く笑い声を立てるマソオを前に、ウカンは途方に暮れたように立ちすくんでいたが、「まいりましょう」とリョオウがマソオに声をかけると、ばつが悪そうに頭をわしわしとかいて、戸に手をかけた。

 戸が開くと、室内に立ち込めていた酒の匂いが、押し出されるようにして土間に流れ込んできた。濃密な酒の匂いに混じって肉や魚の焼けた良い香りが、辺りを満たしていく。

 広い板間には中央に料理が並び、出入り口から向かって奥を正面に、右手の壁沿いに女達が、左手には男達が座り、最も奥まった席には厚手の布が敷かれている。敷布の横には一足先に着いていたシノメが控えていた。

 ウカンに伴ってマソオとリョオウが室内に足を踏み入れると、人々が一斉に頭を下げる。

 ほっこりとした湯気の中を進んで敷布の上に座ると、シノメがすり足で進み出てマソオ達の前で膝をついた。

 歓迎の口上を述べるシノメの硬いながらも堂々とした声を聞くうちに、マソオは自分と人々の間に、薄い膜が張られていくのを感じていた。

 それは、山羊の乳を温めた時のように、するすると広がりやがてマソオをも飲み込んでしまう。ただ一つ、膜の中から弾き出された心だけが、ふわふわと浮かび上がって、感謝の言葉を述べる自分自身を見下ろしていた。

 誡師としてあろうと強く意識した時、マソオはよくこのような感覚に陥った。自身とそれ以外の間に隔たりを感じ、まるで薄い膜を通して別の世界を垣間見ているような気分になるのだ。

 師を写したかのように悠然とした態度で臨む、膜の向こうにある自分とは違い、空をたゆたう己は、定まりもせずに、いかにも頼りない。

 シノメが下がると、入れ替わるようにして、ウカンが酒の入った片口と、土器かわらけを手にして敷布の側に座る。


「まずは一献、お召し上がりください」


 恭しい手つきで差し出された土器のざらざらとした感触が指に触れた時、ずん、と空気が重みを増した。

 波が退くように膜がさあっと消えていき、視界が明瞭になる。

 と、同時に硬質な声が頭の中に響いた。


 ―――――お前、俺達に酒を振舞うのに、何故土器が使われるのか知っているのか?

 ―――――土器ってのはな、もろいんだよ。釉もかけずに焼くんだからな。俺達は怪を倒せば用済み。長居をせずにさっさと去れってことなんだよ。


 忌々しげに吐き捨てた二つ年上の男は、里の中ではマソオと一番年が近い。しかし顔を合わせれば、苛立たしそうに睨みつけられるばかりで、珍しく口を開いたかと思えば、言われた言葉がこれだ。

 男を思い出し、憮然とした気持ちで、感触を確かめるように土器の縁を親指の腹で擦っていると、ウカンが片口を掲げた。

 内側を漆で黒く塗られた片口から土器へと酒が注がれると、酒の流れた箇所が濡れて色が濃くなる。

 水のようだと、マソオは思った。濁りがなく、さらさらと軽い。

 口元に近づけても、さして匂いも感じなかったそれは、ところが一口含むと、途端に喉を焼き、飲み下せば、かあっと胸が熱くなった。

 咽びそうになるのを堪えるだけで精一杯だ。

 目尻に涙を浮かべたマソオを見て、ウカンが慌てて水を持ってくる。

 ラカ酒には口をつけなかったリョオウは、この酒は気に入ったらしく、涼しい顔をして注がれる酒を次々に飲み干していた。

 ひりひりと痛む口内を水で冷やすマソオに、肩を窄めたウカンがあたふたと料理を取り分ける。

 並べられた馳走に、マソオは喉を鳴らした。

 一際香ばしい匂いを発しているのは、この地方で栽培されている、粘り気の多い小さな粒状の穀物―――シイを蒸して叩いて固め、片側だけを炭火で焼いたシイ・ライというもので、手のひら程の大きさのシイ・ライに様々な具を乗せて半分に折って食べるらしい。淡白な鹿肉に、ラカの実の甘煮を挟み、ぴりっとした辛味をもつショウの実をすり潰したものを振りかけて手渡される。

 焦げ目のついた外側はぱりぱりとした歯ざわりで、もっちりとした内側には鹿肉の旨みや甘煮の汁が染み込んで、すこぶる美味しい。

 シイ・ライに舌鼓を打つマソオに、ウカンが思案顔で出したものは、ぷんと酒の匂いを立ち上らせる品だった。


「酒造りの際に出ます粕を炙って砂糖で煮詰めたラカを塗ったものです。ほとんど酒精は残っておりませんので、宜しければお召し上がりください」


 ああ、戸を開けたときに嗅いだ匂いはこれかと、マソオは膝を打つ。

 細い木の枝に円筒状に塗りつけられたそれを、マソオはありがたく頂いて口に運んだ。

 一口噛むとまずラカの実の甘みが口いっぱいに広がり、次に芳醇な酒の香りが舌に溶けていく。量を食べられるものではないが、酒の肴にも、茶請けの甘味にもなりそうな不思議な味わいだった。

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