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悠久の森のアリア  作者: いろはこはる


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1話 悠久の森

はじめまして

いろはこはると、申します。

初めて投稿します。

永い時を生きた魔王と、すべてを失った王女の物語です。

ゆっくりと物語を紡いでいきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

1話 悠久の森


 今までに聞いたことのない悲鳴と怒号で、シルヴェリア王国第一王女は目を覚ました。

 深夜のはず。自室の扉はしっかりと閉まっている。それなのに起きてしまうほどの音。

 眠たそうにベッドから降りようと、体を起こしたとき激しく自室の扉が開いた。


 王城の中の音が鮮明になだれ込んでくる。知らない、気持ち悪い音たちだった。


 悲鳴が聞こえた。

 怒号が聞こえた。

 剣がぶつかり合う硬い音。

 誰かが倒れる鈍い音。

 そして、血の匂い。

 他人事のように感じてしまう。


「姫様!」


 扉を開けて勢いよく飛び込んできたのは良く知っているはずの侍女なのに、全く知らない人のような気がしたのは、いつも自分に向けてくれる穏やかな笑顔ではなく、見たこともないほど青ざめた顔で、涙でぐしゃぐしゃに濡れている頬。そのすべてが、アリアの知っている侍女とは違っていたから。


「アリアンロッド姫様!」


 名前を呼ばれてアリアが我に返るよりも先に、侍女はアリアの手を取り走り出す。薄い夜着で裸足のまま、アリアは手を引かれ走るしかなかった。


「お逃げください、姫様。こちらへ!」

「待ってくださいませ。父様は? 母様は? 兄様は――」

「アリア様!……レオンハルト様が……」


 初めて聞く侍女の厳しい声。

 アリアはまだ言葉を続けようとしたが、侍女の続けられた言葉を聞いてこれは夢なのかもしれないと思った。起きればまたいつもの穏やかな日々が戻ってくるのかもしれないと。


 レオンハルト。

 アリアよりも先に生まれてきた側室の子。

 アリアが生まれたことで、継承順位を譲ることになった王子。

 

 昨日まで優しく名前を呼んでくれた兄が?

 と、混乱をする。

 今、自分がどんな顔をしているのかわからない。きっとぼんやりしているだろう。泣き叫ぶこともできるのにできなかった。

 侍女が唇を震わせながら、それでも必死に微笑もうとしていたから。


「どうか、生きてください」


 その一言で、アリアは悟った。

 これは悪い夢ではなく、現実なのだと。

 何かが終わったのだと。

 もう二度と、昨日までの王宮には戻れないのだと。

 今夜、王城を襲ったのは敵国ではなかった。

  兄、レオンハルト王子の名を掲げた兵たちだった。

 意味が分からなかった。

 同じ血を分けた人間が、なぜ。

 同じ城で笑っていた人たちが、なぜ。

 兄様が、なぜ。

 けれど、考える時間はなかった。

 侍女に引きずられるようにして、アリアは隠し通路へ押し込まれる。背後では、扉を破る音が近づいていた。


「姫様。どうか、この先を真っ直ぐに。北へ向かってください。振り返ってはいけません」

「あなたは?」


 侍女は答えなかった。

 ただアリアの手に粗末な外套と小さな袋を握らせた。


「王女ではなく、ただの娘としてお逃げください。お名前も、身分も、誰にも明かしてはいけません」

「嫌です。あなたも一緒に――」

「姫様」


 侍女はアリアの頬に手を添えた。

 その手は震えていた。

 物心ついたときから、知っている優しい手だ。

 絡まりやすいアリアの細く長い髪の毛を丁寧にときすいてくれて、悲しいことがあれば抱きしめてくれて、不安な夜は寝る時に握っていてくれた。

 どれも優しい手だった。

 お別れです。

 というように、アリアの頬から侍女の手が離れた。

 アリアの中に一気に不安と恐怖が押し寄せる。


「どうか、生きてください。それが、王と王妃の最後の願いでございます」


 扉の向こうで、金属の砕ける音がした。

 侍女はアリアの身体を強く押した。

 暗闇の中へ。

 冷たい石の通路へ。

 そして、扉が閉まる。

 その直前、アリアが最後に見たのは、いつもの侍女の優しい笑顔だった。


「……っ」


 声を出してはいけない。

 泣いてはいけない。

 今は。

 今だけは。

 アリアは唇を噛みしめ、暗い通路を走った。

 王女としての礼儀も、気品も、何もかも忘れて。

 ただ、生きるために。



 そこから先の記憶は、ところどころ途切れている。

 走った。

 転んだ。

 立ち上がった。

 また走った。

 夜が明けても、歩き続けた。

 小さな袋に入っていた硬いパンを少しずつ口にし、川の水で喉を潤した。王宮で飲んでいた香り高い茶とは比べものにならない泥臭い水だったが、それでも生きるには必要だった。

 靴は泥で重くなり、薄かった夜着から町娘の服に着替えたはずなのに、そのスカートもすでに、どこかでひっかけて裾が裂けていた。

 プラチナブロンドの髪は何度もまとめ直したがすぐに乱れた。

 それでも走った。

 走れなければ歩いた。

 追手が来るかもしれない。

 見つかれば殺されるかもしれない。

 その恐怖だけが、アリアの足を動かしていた。

 何日経ったのか分からない。

 ただ止まることなく、どんなに遅くても足だけは動かし続けた。 

 陽の昇る方向と沈む方向だけを頼りに、アリアは北へ進んだ。

 人里には近づかなかった。

 どこに第一王子派の兵がいるか分からない。

 親切そうな村人さえ怖かった。

 王女であった頃、アリアは人を疑うことをほとんど知らなかった。誰にでも笑いかけ、誰の言葉にも耳を傾けた。

 その日々がなくなった今、誰を信じればいいのか分からない。

 誰に助けを求めればいいのか分からない。

  こんな気持ちは嫌だった。

  泣きたいほど嫌なのに、涙は出なかった。


 やがて、食べ物は尽きた。

 水だけで進んだ。

 足の感覚が薄れていく。

 頬はこけ、喉は焼けるように痛んだ。

 それでも、王城で聞こえた音を思い出すたび、止まることはできなかった。


「……わたくしは」


 何度も呟いた。


「生きなければ」


  自分を生かすために、命を差し出してくれた人たちのことを思い出して、唇を噛み締めた。



 アリアがその森へ辿り着いたのは暮れ時だった。

 目の前に広がる森は、これまで通ってきたどの森とも違っていた。

 木々は異様に黒く、枝は空を覆い隠すように絡み合っている。夕陽の赤ささえ、この森の前では色を失っていた。湿った土の匂いに混じって、冷たい霧が足元を這っている。

 足元を這う霧の冷たさにアリアは一瞬だけ足を止めたが、再び北を目指して歩き出す。


 幼い頃から聞かされてきた場所だった。

 北の果て。

 人の住む領域と魔の領域の境。

 そこには、誰も近づいてはいけない森がある。

 その奥には、悠久の時を生きる魔王が住んでいるという。

 人を喰らう化け物。

 国を滅ぼす災厄。

 神に背いた常闇の王。

 そんな噂をアリアは何度も聞いたことがあった。

 子供を戒めるための昔話だと思っていた。

 けれど今、目の前にある森は、昔話というにはあまりにも現実的で、あまりにも冷たかった。

 疲れ果てた体と頭ではそれが「悠久の森」だと考えることなどできなかった。

 入れば戻れない。

 そう言われてきた森の中をアリアは北へ北へと足を進めるのみだった。

 王女は禁忌の森へ足を踏み入れ、奥へと進んでいた。


 森の中は、夜の底のようだった。

 まだ完全に陽が沈んだわけではないはずなのに、木々の間にはほとんど光が届かない。湿った落ち葉が靴底にまとわりつき、遠くで獣とも鳥ともつかない鳴き声が響いた。

 アリアは外套の前を握りしめる。

 ここでようやく、いくつも超えてきた森とは様子が違うことに気がついた。

 怖い。

 怖くないはずがない。

 それでも、なぜか足は止まらなかった。

 不思議な森だった。

 恐ろしいのに、とても静かなのだ。

 追手の軍靴も、怒号も、剣の音もここまでは届かない。

 世界から切り離されたような静寂。

 王女でも、逃亡者でもなく、ただ一人の人間として立っているような場所。

 どれくらい歩いたのか。

 霧が濃くなり、足元すら見えにくくなった頃、アリアの膝がとうとう力を失った。


「あ……」


 身体が傾く。

 受け身を取る余裕もなく、地面に倒れ込む。

 冷たい。

 泥の匂いがする。

 起き上がらなければ。

 そう思うのに、腕に力が入らない。

 王女として育てられた身体は、逃亡生活に耐えられるほど強くはなかった。

 視界が滲む。

 声さえ出なかった。

 こんな森の中で倒れて。

 あるいは誰にも見つけられず、静かに冷えていくのか。

 父様。

 母様。

 ごめんなさい。

 そう思った時だった。

 何かの気配を感じて、アリアは息を呑む。

 顔を上げようとするが、身体がうまく動かない。

 霧の向こうに、黒い影が立っていた。

 浅黒い肌に長い漆黒の髪。

 夜よりも濃い黒の衣をゆったりと身につけている。

 血のように深い紅の瞳。

 その姿は静かだった。

 恐ろしいほどに。

 叫ぶでもなく、威嚇するでもなく、ただそこに立っているだけで、森そのものが人を模ったような男が立っていた。

 男はゆっくり近づいてきた。

 アリアは必死に身を起こそうとしたが、腕が震えるばかりだった。何か言葉を紡ぎだそうとすると、乾いた喉が、ヒューヒューと音を出すだけ。

 沈黙。

 長い沈黙。

 漆黒の中の男はじっとアリアを見下ろし、アリアは赤い瞳を見上げた。

 このまま声をかけるのは失礼だと、残っている力をふり絞ってアリアが立ち上がろうとする。うまく力が入らず、ひどく緩慢な動きで、ようやく上体を起こし、立ち上がれると思ったとき、身体がぐらりと傾いた。

 足が機能しなかった。

 限界だった。

 意識が遠のく。

 このまままた泥の中だと思った。

 そう思った瞬間、冷たい腕がアリアの身体を支えた。

 氷のように冷たい。

 けれど不思議と嫌ではなかった。

 魔王は腕の中のアリアを見下ろし、ひどく面倒そうに眉を寄せた。


「……厄介なものを拾った」


 それがアリアが意識を失う前に、初めて聞いた男の声だった。



 パチン。と、薪が爆ぜる音と同時に、アリアは目を覚ました。

 暖かい。

 冷たくもない。

 泥の香りもしない。

 最初に感じたのは暖かさ。その次にぱちぱちと薪の爆ぜる音。

 頬に当たる空気は、森の中よりもずっと穏やかだった。


 身体が動かないので、視線を動かす。

 黒い石壁。

 大きな暖炉。

 古びた長椅子。

 そしてその長椅子に横たわっている自分。

 自分の身体には厚手の黒い毛布が掛けられていた。

 しばらくぼんやりしてから、アリアは動かない体を動かそうとした。


「痛っ……」


 身体中からミシミシという音が聞こえそうな痛みが駆け巡った。

 それでも周囲を見回すと、部屋の奥に黒い影があった。

 さっきの森で見た、闇の支配者のような男性。

 先ほどの男が、窓際に立っている。

 外を見ているようだった。

 アリアが動いたことに気がついたのか、ゆっくりと顔をアリアの方に向けて少女を見据えた。


「ここは……」


 アリアの問いに男は答えることなく、ただ彼女を見下ろしていた。

 アリアも男をみていたのだが、様子を伺おうとぐるりと見渡した。

 横たわっている長椅子は、とても古めかしい年代物だが質がよいと、アリアでも分かる品だった。

 ここが彼の住まいなのだろう。

 石の床が冷たそうなのに、暖炉の火が部屋を暖めている。

 そんな見たままのことしか考えられないが、外で倒れたアリアをここまで運んできてくれたのは彼で、きっと毛布をかけてくれたのも彼だ。


「ありがとうございます」


 アリアからの自然な礼の言葉に、男からの返答はない。

 一瞬眉をしかめて溜息をついた。

 ただ面倒くさいと言わんばかりに。

 そして視線がアリアから外れ、先ほどまでそうしていたように、窓の外へと移った。


 本気で怒っているわけではなさそうだった。

 悪い方ではないのかもしれない。

 アリアはそう思った。

 その時、腹が鳴った。

 はっきりと。

 部屋の静けさに響くほど。

 アリアの頬が赤くなる。


「失礼いたしました」


 再びアリアの方に向いた男は、無言で歩き出し、部屋を出ていった。

  静かだった部屋がさらに静かになった。

  長椅子の上でソワソワしていると、男が木の器を持って戻ってきた。

 器の中には湯気の立つスープらしきものが入っている。


「よろしいのですか?」


 ギシギシと音を立てる体の痛みに耐えながら、アリアは横たわっていた長椅子の背もたれにゆっくりと上体を預けることができた。

 男はアリアの前でじっと彼女を見ていた。

 ただ黙って。

 何も言わず。


「面倒そうなのに、助けてくださるのですね」


 アリアが吐息を吐き出し、落ち着いたと言うことを確認したのか、男は無言でスープの入った木の器を差し出した。

 スープとそれを差し出している、長身の男を交互に見比べる。

 男は何も語らない。表情はなにもないものの、心底面倒そうな雰囲気だけ伝わる。

 アリアは器を受け取った。

 手が震える。

 温かい。

 たったそれだけで、涙が出そうになった。

 スープは薄かった。

 王宮の食卓に並んでいたものとは比べものにならない。


「……美味しいです」


 本心だった。

 アリアは両手で器を包みながら、もう一口飲んだ。

 喉を通る温かさが、身体の奥へ落ちていく。

 生きている。

 自分はまだ、生きている。

 そのことをようやく実感した。

 満腹ではない。

 身体も痛い。

 不安も消えていない。

 けれど暖炉が暖かかった。

 毛布が柔らかかった。

 何よりここには追手の足音がなかった。

 アリアは器を両手で持ったまま、うとうとと舟を漕ぎ始める。

 その様子を男は黙ってみている。

 面倒なのか、興味がないのか。だが、視線はアリアをとらえたまま、離さなかった。

 静かすぎる空間。時折暖炉の薪木が小さく爆ぜた音がした。

 だがこの静けさはとても心地よく、再びアリアを眠りへと誘う。

 アリアはスープの器を抱えたまま眠りに落ちた。

 長椅子に身体を預け、黒い毛布に包まれて。

 まるで長い逃亡の果てに、ようやく辿り着いた子供のように。

 静かだった空間に、アリアの規則正しい寝息が付け加えられた。

 男の表情は何一つかわらなかった。

 ただアリアを見ていた。


 男はしばらくその寝顔を見下ろしていた。

 人間の娘。

 泥だらけで、痩せて、疲れ切っている。

 おそらく、ただの娘ではない。

 立ち居振る舞いに隠しきれないものがある。

 だが、どうでもよかった。

 人間の事情など知ったことではない。

 明日になれば追い出せばいい。

 この場所に人間を置いておく理由などない。

 男は暖炉の火を少しだけ強めた。

 部屋の温度が下がっていたから。

 それだけだ。

 アリアの肩からずり落ちかけていた毛布を無言で掛け直す。

 寒そうだったから。

 それだけだ。

 眠るアリアは何も知らず、微かに息を吐いた。

 その表情は、森で倒れていた時よりも少しだけ穏やかだった。

 男はその顔を見て、静かにつぶやいた。


「……面倒な女だ」


 低い声。

 返事はない。

 暖炉の火だけが、ぱちりと小さく爆ぜた。

 王女アリアンロッドが初めて王宮ではない場所で眠った夜。

 王宮を出てから失ったものばかりを数えていた彼女が、初めて何かに守られて眠った夜でもあった。


始まりの物語、最後まで読んで頂きありがとうございます

拙いところもあったかと思いますが、楽しんで頂けましたら、嬉しい限りです


このような後書きは今回のみで、次回からは少し違う形でお目にかかれればと思っております。

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