勇者と公爵令嬢
勇者に選ばれてからというもの、俺の周囲には人が絶えなかった。
祝福する貴族。祈りを捧げる神官。期待の目を向ける騎士たち。
王宮を歩くだけで呼び止められ、会ったこともない相手から国の未来を託される。そのたびに勇者らしく笑わなければと思うのだが、その勇者らしさがどんなものなのか、俺にはまだ分からなかった。
「それで、今から誰に会うんだ?」
隣を歩く兄さんへ尋ねる。
兄さんは口元を手で覆っていた。その肩がわずかに揺れている。
「兄さん、なんで笑ってるんだよ」
「いや、悪い。知らない貴族に囲まれて、必死に笑っていたのを思い出してな」
「俺だって頑張ってるんだぞ」
「分かってる。立派だった」
「まったく心がこもってない」
ため息をついたが、足は止めなかった。
兄さんは以前にも増して俺をからかうようになった。おそらく、勇者という立場を重く受け止めすぎないようにしてくれているのだろう。
「これから会うのは、勇者一行へ加わる候補者だ」
「どんな人なんだ?」
「公爵令嬢だ」
思わず足を止めかけた。
「公爵令嬢が、魔王討伐の旅に出るのか?」
「不満か?」
「不安だ」
身分の高い令嬢を、魔物が待ち受ける旅へ連れていくなんて。
「彼女は妃殿下に仕えるため、ザイオン騎士団長から武芸を学んでいる。俺とは同門だ」
「強いのか?」
「自分で確かめろ」
兄さんはそれ以上、教えようとしなかった。
俺の反応を楽しんでいないかと疑ったところで、目的の部屋へ到着した。
扉の前には、殿下の従者であるエドガーが立っていた。
「お待ちしておりました。殿下と妃殿下がお待ちです」
エドガーは一礼し、扉を開いた。
室内へ入ると、殿下と妃殿下のほかに、一人の少女が座っていた。
俺たちの姿を認めると、少女はすぐに立ち上がる。
艶やかな黒髪。まっすぐに伸びた背筋。片手を胸元へ添え、流れるような仕草で一礼する。
「お初にお目にかかります、勇者様。サーシャと申します」
表情にも、声にも、動作にも隙がない。
「アレクサンダーです。よろしくお願いします、サーシャ嬢」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
優雅な微笑が返ってきた。
その顔を見ながら、彼女について耳にした噂を思い出す。
サーシャ嬢は、社交界で「公爵家の毒花」と呼ばれているらしい。
身分の低い者を見下す。気に入らない令嬢を追い詰める。公爵家の権威を利用し、妃殿下へ取り入っている。
よい噂は一つもなかった。
けれど、目の前のサーシャ嬢が本当に噂どおりなのか、俺にはまだ分からない。
会ったばかりの相手を、他人の言葉だけで決めつけたくはなかった。
「レオン様も、ご無沙汰しております」
「四日前に訓練場で会っただろ」
「そうでしたね」
二人の声には、気心の知れた者同士の親しさがあった。兄さんの話どおり、長くともに訓練してきたのだろう。
「皆、座ってくれ」
殿下に促され、俺たちは席に着いた。
サーシャ嬢は妃殿下の近くへ腰を下ろす。それからも背筋を伸ばし、膝の上に両手を重ねている。
見ている俺のほうまで緊張してきた。
「サーシャ」
妃殿下が穏やかに呼びかける。
「今日は公式な謁見ではありません。ただの顔合わせなのですから、堅苦しくするのはやめにしましょう」
「ですが、勇者様とは初対面ですので」
「俺のことは気にしなくて大丈夫です」
思わず口を挟むと、サーシャ嬢の視線がこちらへ向いた。
「そういうわけにはまいりません。勇者様に失礼があっては」
「サーシャ嬢が完璧すぎて、俺のほうが緊張しています」
「今さらか?」
兄さんが口を挟む。
「兄さんは黙っててくれ」
小さな声が漏れた。
サーシャ嬢が口元へ手を当て、笑いをこらえている。
やがて、ゆっくりと息を吐いた。膝の上で重ねていた手を解き、張り詰めていた肩から力を抜く。
まっすぐだった背も、ほんの少しだけ崩れた。
「失礼しました。でも、それなら僕も、肩の力を抜いてよさそうですね」
「僕?」
「気になりますか?」
サーシャ嬢はわずかに首を傾ける。
顔に浮かんだものも、先ほどまでの整った微笑とは違っていた。口元が柔らかく緩み、年頃の少女らしい表情になる。
「普段はこちらのほうが話しやすいんです。社交界では使いませんけど」
「少し驚いただけです。さっきより話しやすそうで、安心しました」
「それならよかったです」
サーシャ嬢は目を細めた。
「さて、本題に入ろう」
殿下が言った。
「サーシャ嬢には、勇者一行の斥候となってもらうことを検討している。偵察、経路の選定、情報収集が主な役目だ」
「その能力を確認するため、君には模擬戦をしてもらう」
「俺がですか?」
「ともに戦う相手だ。自分の目で確かめたほうがいいだろう」
俺が誰かを試すということに、少し居心地の悪さを覚えた。
勇者に選ばれてから、まだ日も浅い。仲間を選べるほど、自分が立派な人間だとは思えなかった。
それでも、互いの力を知る必要があることは理解できる。
「分かりました」
「僕も異存はありません」
サーシャ嬢が軽くうなずいた。
「社交界にも疲れていたので、外へ出るにはちょうどいい機会ですし」
「魔王討伐は、気分転換にしては危険では?」
「王都の近くでは、すぐ茶会へ呼び戻されてしまいますから」
からかうような声音だった。
本当に、それだけなのだろうか。
問い返そうとして、口を開きかける。
けれど、サーシャ嬢は変わらず穏やかな表情を浮かべている。その奥にあるものを探ろうとする俺の視線にも、気づいているようだった。
今は聞かないほうがいい。
そう判断して、続く言葉をのみ込んだ。




