第24話 凡庸な男爵家次男は、断る練習台になりたくない
前回まで:
標準文案の具体例集が作られました。
例文は人を助ける一方で、「正しい断り方」という新しい採点基準にもなり得ます。
リオネルは「正しい断り方は一つではない」と口にし、その言葉もまた掲示板に貼り出されました。
そして最後には、ギルバートの「レイヴン家による追加外交圧力」という名の濃い茶に、少しだけ救われてしまいます。
主な登場人物:
リオネル・アルバート……男爵家次男。断る練習の練習台にされる未来が見えて胃が痛い。
ギルバート・レイヴン……伯爵家嫡男。断られる側の覚悟を覚え始めている。茶が濃い。
クラウス・ヴェルナー……子爵家三男。重すぎる問題を軽く運ぶ耐火箱。
ニール・ロイド……平民出身の奨学生。断る側の怖さを自分の言葉で語れるようになってきた。
セシリア・グランベル……侯爵令嬢。練習と本番の境界を見る。
レオンハルト・ヴァイス……生徒会長。制度を整え、影響を運用する人。
翌朝。
学院の廊下で、妙な光景を見た。
「ご案内ありがとうございます。今回は参加を見送ります」
「承知しました。理由の説明は不要です。また機会があれば」
「……どうでしょうか」
「少し硬いかな。でも、断れていると思う」
下級生二人が、廊下の端で向かい合っていた。
片方が誘う側。
片方が断る側。
手には、昨日掲示された『書き方の参考』の写し。
俺は足を止めた。
止めたくなかった。
だが、止まってしまった。
練習している。
断る練習を。
悪いことではない。
むしろ、良いことだ。
断るのが怖い者にとって、練習は助けになる。
本番で声が出ないなら、事前に言葉を口にしておくのは意味がある。
意味がある。
だから、嫌だった。
意味があるものは残る。
残るものは広がる。
広がるものは、いつか形になる。
そして形になったものは、俺の平穏を殺す。
「アルバート様」
気づかれた。
なぜ気づく。
いや、廊下で立ち止まっていれば気づく。
俺が悪い。
下級生たちは慌てて礼を取った。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺も礼を返す。
彼らの手元には、昨日の文例。
そして、別の紙。
『断る練習用』
見なければよかった。
非常に見なければよかった。
「練習、ですか」
俺が尋ねると、一人が少し恥ずかしそうに頷いた。
「はい。実際に言ってみると、少し楽になるので」
「それは良いことだと思います」
本心だった。
本心だったから、苦しい。
もう一人が言った。
「ただ、身分が上の方相手だと、練習でも声が出なくて」
嫌な予感がした。
「それで、できれば……」
言うな。
言わないでくれ。
「アルバート様に、練習相手になっていただけないかと」
来た。
やはり来た。
俺は内心で頭を抱えた。
練習相手。
つまり、俺が誘う側になる。
彼らは、俺を断る練習をする。
断る練習そのものは良い。
だが、俺が相手になると、どうなる。
“アルバート様を断れた”
“あの方相手にも断れた”
“アルバート様に見てもらった”
“アルバート様の練習を受けた”
全部、嫌だ。
練習台になるだけでは済まない。
俺が判定者になる。
また許可印になる。
彼らの瞳には、不安だけではないものがあった。
期待。
信頼。
そして、もっと厄介なもの。
この人なら、正しい答えをくれる。
この人に断れたなら、自分は大丈夫だ。
この人が認めてくれたなら、それは正しい。
そんな光が、ほんのわずかに混じっていた。
ぞっとした。
俺は、練習相手を頼まれているのではない。
正解を与える聖者の椅子に、座らされかけている。
「申し訳ありません」
俺は言った。
「私は、練習相手にはなれません」
二人の顔が、少しだけ曇った。
胸が痛い。
だが、ここで曖昧にしてはいけない。
「あなた方が断る練習をすることは、良いと思います。ただ、私を相手にすると、断れたかどうかに別の意味がつきます」
「別の意味、ですか」
「はい」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「私を断れた、という事実が、あなた方の自信ではなく、資格のように扱われるかもしれません」
二人は黙った。
「それは、断る練習ではなくなります」
俺は続けた。
「誰かを断れたかどうかで、自分を測らないでください」
まただ。
また言葉が出ている。
やめたい。
本当にやめたい。
だが、ここで止めると、たぶん伝わらない。
「断る練習は、相手を倒す練習ではありません。自分の言葉を失わないための練習です」
言った。
言ってしまった。
背後で、誰かが息を呑む気配がした。
嫌な予感がして振り向くと、クラウスがいた。
いつからいた。
本当に、この人はいつからいる。
クラウスは軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます。今のは聞かなかったことにしてください」
「無理かな」
「努力してください」
「努力はするよ」
信用できない。
下級生たちは、少し考え込んでいた。
やがて、一人が小さく頷いた。
「すみません。アルバート様に断れたら、自信になると思っていました」
「それ自体は悪くありません」
「でも、資格にするのは違う」
「はい」
「分かりました。別の相手と練習します」
「それがいいと思います」
彼らは礼をして去っていった。
背中は、落ち込んでいるようにも、少し軽くなったようにも見えた。
判断できない。
判断したくない。
俺は深く息を吐いた。
「また良いことを言ったね」
クラウスが言った。
「やめてください」
「断る練習は、相手を倒す練習ではない」
「やめてください」
「自分の言葉を失わないための練習」
「本当にやめてください」
クラウスは笑った。
「今のは、僕の口から学生自治会に持っていく?」
「持っていかないでください」
「でも、たぶん必要だよ」
分かっている。
分かっているから嫌なのだ。
「必要なものは、どうして全部私の胃に悪いのでしょうか」
「君が胃に悪いものを見つけるのが上手いからかな」
最悪の評価である。
教室へ向かう途中、ギルバートと合流した。
彼は俺の顔を見るなり言った。
「顔色が悪い」
「おはようございます」
「おはよう。顔色が悪い」
もう定型文になっている。
よくない。
「何があった」
「断る練習の練習相手にされかけました」
ギルバートの眉間に皺が寄った。
「誰に」
「下級生です。悪意はありません」
「なら、俺がやる」
「何をですか」
「練習相手」
即答だった。
やめてほしい。
「レイヴン様を断る練習、などと始めたら、それこそ大騒ぎになります」
「だが、俺を断れたら大抵の相手は断れる」
理屈は分かる。
分かるから困る。
「それは、訓練として強すぎます」
「強い訓練は役に立つ」
「剣術の話ではありません」
「違うのか」
「違います」
ギルバートは真剣に考え込んだ。
「では、俺では駄目か」
「駄目です」
「お前でも駄目か」
「駄目です」
「では誰ならいい」
俺は答えに詰まった。
誰ならいい。
難しい。
実際に断るのが怖い相手でなければ練習にならない。
だが、怖すぎる相手では練習どころではない。
本物の利害関係がある相手では、本番になってしまう。
全く関係ない相手では、実感が薄い。
面倒だ。
本当に、人間関係は面倒だ。
クラウスが横から言った。
「練習相手は、実際にその勧誘権限を持たない人間がいいんじゃないかな」
「勧誘権限?」
ギルバートが聞き返す。
「たとえば剣術訓練会に誘う練習なら、実際の主催者ではない相手が誘う役をする。断っても現実の関係には影響しない」
なるほど。
やはりこの人は落としどころがうまい。
「それなら、練習と本番を切り離せますね」
俺は言った。
クラウスが頷く。
「あと、練習への参加自体も任意。見学だけも可能。断る練習を断る練習も必要だね」
「ややこしいですね」
「でも必要だろう?」
必要だ。
本当に必要だ。
だから嫌だ。
セシリア嬢が、いつの間にか少し後ろにいた。
本当に、今日は人が増えるのが早い。
「練習は、安全な失敗のためにあるべきです」
彼女は静かに言った。
「失敗できない練習は、本番と同じです」
その通りだった。
「練習でうまく断れなかったとしても、それを記録しない。笑わない。助言を求められた場合だけ、選択肢を示す。評価しない」
セシリア嬢の声は、いつも通り冷静だった。
「練習で評価をしてしまえば、それはまた採点になります」
昨日の話と繋がる。
断り方を採点してはいけない。
練習もまた、採点してはいけない。
正しい。
正しすぎる。
また制度になる。
俺はもう諦めに近い気持ちで額を押さえた。
「学生自治会に、これを誰が持っていくのですか」
クラウスが俺を見た。
セシリア嬢も俺を見た。
ギルバートも俺を見た。
見ないでほしい。
「私ではありません」
俺は先に言った。
「分かっているよ」
クラウスが肩をすくめる。
「僕が持っていく」
「助かります」
「ただし、君の言葉は少し薄める」
「かなり薄めてください」
「水みたいになるよ」
「それでお願いします」
ギルバートが不満そうに言う。
「薄い茶はよくない」
「茶の話ではありません」
本当に違う。
昼休み。
学生自治会室では、急遽「断る練習」に関する話し合いが行われることになった。
なぜ急遽なのか。
クラウスが持っていった話を、レオンハルト会長が即座に議題化したからである。
早い。
本当に早い。
静かな怪物は、火種の匂いに敏感すぎる。
俺は行かないつもりだった。
だが、議題名を見てしまった。
『断る練習および断られる練習の扱いについて』
断られる練習。
そこまで来たか。
行かないと怖い。
行っても怖い。
なら、怖い方へ行く。
最近の俺は、選択肢の基準が壊れている。
自治会室には、いつもの面々がいた。
レオンハルト会長。
マティアス先輩。
クラウス。
セシリア嬢。
ニール。
ギルバート。
数名の下級生代表。
研究会代表。
そして、新聞同好会のオスカー先輩。
来ている。
やはり来ている。
「練習という言葉は、記事になりますね」
オスカー先輩が楽しそうに言う。
「しないでください」
クラウスが即答した。
最近、クラウスの反応が俺より速い。
助かる。
怖い。
レオンハルト会長が口を開いた。
「断る練習そのものは否定しない」
静かな声。
「ただし、練習が新しい義務や評価になることは避ける必要がある」
正しい。
もうこの時点で正しい。
俺は帰りたい。
「まず、下級生側から意見を聞く」
ニールが立ち上がった。
「私は、練習があると助かると思います」
彼は言った。
「いきなり本番で断るのは怖いです。言葉が出ないこともあります。練習で一度言えたら、本番でも少し言いやすくなると思います」
そこで、少し息を吸う。
「でも、練習に参加すること自体が義務になると怖いです」
その通りだ。
「“断る練習をしない人は、本気で断る気がない”と思われるのも嫌です」
それもある。
ニールは本当に、どんどん鋭くなる。
「あと、うまく断れなかった時に、周りに見られるのも怖いです」
練習は安全な失敗のため。
セシリア嬢の言葉がよぎる。
エルマー先輩が手を挙げた。
「主催者側としても、断られる練習は必要かもしれません」
意外だった。
「誘って断られた時、表情を崩さずに受け止める練習です。正直、私も最初は寂しさや残念さが顔に出ると思います」
良い人だ。
本当に良い人だ。
だから、苦しくなる。
「ただ、それを下級生相手に本番で練習するのは違う。主催者側も、事前に練習しておくべきでしょう」
ギルバートが頷いた。
「断られる練習は必要だ」
部屋の空気が少し固まる。
「俺は、断られた時に不満を持ち帰ると言った。だが、持ち帰るにも技術がいる」
不満を持ち帰る技術。
また名言のようなものを言い始めた。
やめてほしい。
「顔に出すな。声に出すな。態度に出すな。相手の前で処理するな。持ち帰ってから、自分で処理しろ」
非常にギルバートだった。
「それができない者は、誘うな」
強い。
強すぎる。
だが、本質的だ。
レオンハルト会長が短く言った。
「記録」
マティアス先輩が書く。
ペンの音がする。
また鎖の音に聞こえる。
セシリア嬢が続けた。
「練習相手は、実際に勧誘権限を持たない人が望ましいと思います」
「理由は?」
マティアス先輩が尋ねる。
「練習の失敗が、現実の関係に結びつかないようにするためです。練習で断れなかった、断り方が拙かった、相手が不快そうだった。それらが本番の評価につながるなら、練習は安全ではありません」
安全な失敗。
必要な言葉だ。
必要な言葉だから、また残る。
クラウスが軽く手を上げた。
「それと、練習には観客を置かない方がいい」
「なぜ?」
「見られている時点で、本番に近くなるからです」
クラウスは淡々と言った。
「断る練習は、自分の言葉を出すためのものです。周囲に“断れる人間だ”と証明するためのものではない」
ああ。
俺の言葉だ。
朝、下級生に言ってしまったやつだ。
かなり薄めてくれている。
水に近い。
でも、分かる。
俺には分かる。
クラウスは、ちらりとこちらを見た。
俺は見なかったふりをした。
「練習台になる人にも、断る権利があります」
セシリア嬢が言った。
「練習相手を頼まれた側が、断れないなら、それは本末転倒です」
その通りだ。
非常にその通りだ。
下級生代表の一人が、少し恥ずかしそうに手を挙げた。
朝の少年だった。
「私からも、よろしいでしょうか」
「どうぞ」
レオンハルト会長が頷く。
少年は少し緊張しながら言った。
「今朝、アルバート様に練習相手をお願いしようとして、断られました」
言わなくていい。
いや、言ってもいい。
でも、胃が痛い。
「その時、断る練習は、相手を倒す練習ではないと言われました」
やはり言うのか。
クラウスが少しだけ視線を逸らした。
セシリア嬢は静かに目を伏せた。
ギルバートは俺を見る。
見ないでほしい。
「自分の言葉を失わないための練習だと」
部屋が静かになった。
非常に嫌な静けさだ。
少年は続ける。
「私は、アルバート様を断れたら自信になると思っていました。でも、それだと、断ることが勝ち負けみたいになるのだと思いました」
言葉が、本人のものになっている。
俺の言葉ではない。
彼の経験として語られている。
それなら、まだいい。
まだ、いいはずだ。
「だから、練習は、誰かすごい人を断れるかどうかではなく、自分の言葉を出せるかどうかにしたいです」
とても良い意見だった。
良すぎた。
俺は頭を抱えたくなった。
レオンハルト会長が頷く。
「採用する」
早い。
本当に早い。
「断る練習は、相手を倒すためのものではなく、自分の言葉を失わないためのもの。記録」
マティアス先輩のペンが走る。
鎖が増える音がした。
だが、今回の鎖は少し違った。
俺の首ではなく、誰かが転ばないための手すりにも見えた。
そう思ってしまった自分が、少し嫌だった。
会議の終盤。
レオンハルト会長がこちらを見た。
来た。
また来た。
「アルバート」
「はい」
「現案に過不足は」
やはり。
俺は文案を見た。
『断る練習・断られる練習の試行運用』
一、参加は任意。見学のみも可。
一、練習への不参加も不利益なし。
一、練習相手にも断る権利がある。
一、実際の勧誘権限を持たない者を相手役とする。
一、観客を置かない。
一、練習結果を記録しない。
一、断れたかどうかを評価しない。
一、断られた側は、その場で感情を相手に処理させない。
一、断る練習は、相手を倒すためではなく、自分の言葉を失わないためのもの。
よくできている。
かなり、よくできている。
だから嫌だ。
だが、一つだけ引っかかる。
またか。
また見えてしまった。
「……練習後の助言について」
俺は口を開いていた。
「求められていない助言は禁止した方がいいと思います」
ペンが止まる。
「断り方が拙かった、もっとこう言うべきだった、表情が硬かった。そういう助言は、本人が求めた場合だけにしてください」
言いながら、朝の少年の便箋を思い出す。
赤ペンを入れたくなった自分を思い出す。
「練習後の助言は、簡単に採点になります」
静かだった。
「本人が求める場合も、“正しい答え”としてではなく、“選択肢”として示す。そう明記してください」
言ってしまった。
また、言ってしまった。
レオンハルト会長は頷いた。
「採用する」
やはり早い。
「求められていない助言は禁止。助言は正解ではなく選択肢として示す。記録」
マティアス先輩のペンが走る。
今日は、いつもより音が大きく聞こえた。
会議後。
俺は廊下で深く息を吐いた。
疲れた。
本当に疲れた。
ギルバートが近づいてくる。
「茶を」
「まだ言っていません」
「言う前に分かる」
「それはそれで怖いです」
「レイヴン家の判断だ」
またそれか。
クラウスが横から言う。
「今日は濃い茶案件だね」
「案件にしないでください」
ニールが少し心配そうに言った。
「アルバート様、今日のことは、たぶん本当に助かる人がいます」
「そうでしょうか」
「はい。練習でまで点数をつけられたら、私は多分もう何も言えなくなります」
それは、たぶん本当だ。
ニールのような生徒にとって、助言は簡単に評価になる。
評価は簡単に沈黙を作る。
俺はそれを知っている。
前世で、何度も見た。
「ロイド様が、そう言ってくださるなら」
俺は小さく言った。
「少しだけ、よかったと思います」
言った後で、また怖くなる。
よかった。
そう思うのは危ない。
自分の言葉が人を助けたと感じるのは、甘い。
甘いものは、依存になる。
だが、今日はもう少し疲れていた。
すぐに否定できなかった。
セシリア嬢が、静かに言った。
「今は、それでよいのではありませんか」
「名前をつけない、ですか」
「はい」
「便利な言葉ですね」
「利用価値がありますので」
少しだけ笑ってしまった。
ギルバートが真顔で言った。
「茶にも利用価値がある」
「それはあります」
「では飲め」
「なぜ命令形なのですか」
「外交圧力だからだ」
本当に便利に使うな、外交圧力。
夕方、掲示板に試行運用が貼り出された。
『断る練習・断られる練習について』
一、参加は任意。見学のみも可。
一、練習への不参加も不利益なし。
一、練習相手にも断る権利がある。
一、実際の勧誘権限を持たない者を相手役とする。
一、観客を置かない。
一、練習結果を記録しない。
一、断れたかどうかを評価しない。
一、求められていない助言はしない。
一、助言は正解ではなく、選択肢として示す。
一、断られた側は、その場で感情を相手に処理させない。
一、断る練習は、相手を倒すためではなく、自分の言葉を失わないためのもの。
また長い。
また正しい。
また残る。
掲示板の前で、生徒たちが読む。
「練習相手にも断る権利がある、か」
「そりゃそうだよな」
「求められてない助言は禁止って、ありがたい」
「でも、助言しないのも難しそう」
「断る練習を断ってもいいんだ」
良い反応だった。
かなり良い反応だった。
だから、胃が痛かった。
正しさは、また一つ形を得た。
そして、その形のどこかに俺の言葉が残っている。
夜。
寮に戻ると、机の上に紙はなかった。
二日連続である。
快挙だ。
俺はしばらく何もない机を眺めた。
美しい。
何もないというのは、本当に美しい。
茶を淹れようとした時、扉が叩かれた。
二日連続である。
嫌な予感がする。
「誰ですか」
「ギルバートだ」
やはり。
扉を開けると、ギルバートが茶器を持って立っていた。
かつてないほど威厳に満ちた表情。
そして、耳の先が少し赤い。
見なかったことにした。
「レイヴン家による定例外交圧力だ」
「定例になったのですか」
「なった」
「誰が決めたのですか」
「俺だ」
「横暴ですね」
「文句があるならレイヴン家に言え」
もう完全に定型化している。
俺は額を押さえた。
「……いただきます」
「よし」
茶は、やはり濃かった。
「今日の茶は、また濃いですね」
「当然だ」
ギルバートは、かつてないほど真剣な顔で言った。
「俺が淹れる茶が濃いのは、レイヴン家の伝統が重いからだ」
「茶葉の量の問題では」
「伝統の重みだ」
「私の好みは」
「関係ない。外交圧力だからな」
意味が分からない。
だが、ここまで堂々と言われると、俺の好みや遠慮が入り込む余地がない。
友情ではない。
心配でもない。
レイヴン家の伝統と外交圧力。
そういう形にされると、俺は少しだけ受け取りやすくなる。
この人は、たぶん分かってやっている。
分かっていない顔で、分かってやっている。
俺は茶を飲んだ。
濃い。
濃すぎる。
なのに、少しだけ美味い。
毒を飲んでいる自覚はあった。
これは依存だ。
誰かが勝手に差し出してくれる温かさを、受け取ってしまうこと。
逃げたいはずの場所に、喉の渇きを覚えてしまうこと。
危ない。
分かっている。
それでも、喉が渇いて仕方がなかった。
俺はまた一口、茶を飲んだ。
今日一番の敗北は、たぶんこの一口だった。
問題は解決した。
断る練習は、相手を倒すものではなく、自分の言葉を失わないためのものになった。
練習相手にも断る権利がある。
求められていない助言は禁止。
助言は正解ではなく選択肢。
全部、必要なことだ。
たぶん。
だが、俺の平穏はまた死んだ。
断る練習の練習相手にされかけた結果、断る練習そのものが制度になった。
俺は茶を飲んだ。
濃い。
濃すぎる。
なのに、少しだけ美味い。
俺がこの味に慣れ始めていることが、今日一番の問題かもしれない。
たぶん。
その時、扉の下から紙が差し込まれた。
やはり来た。
何もない机の美しさは、長続きしない。
恐る恐る拾う。
差出人は、学生自治会。
『次回議題予告。
各指針・標準文案・具体例集・練習運用についての公開説明会。
希望者参加可。
代表発言者については調整中。
レオンハルト・ヴァイス』
公開説明会。
代表発言者。
その文字を見た瞬間、頭の中に嫌な光景が浮かんだ。
俺が必死に逃げ道を作った。
断れる道。
引き返せる道。
名前を出さなくていい道。
練習で失敗してもいい道。
その道が、きれいに舗装されていく。
標識が立つ。
案内板が置かれる。
人が集まる。
そして最後に、その道の開通式で、俺にテープカットをさせようとしている。
冗談ではない。
逃げ道を作っていたはずなのに、気づけば俺自身が、その入口に立たされようとしている。
ギルバートも覗き込む。
「代表発言者とは何だ」
「聞きたくありません」
「お前ではないだろうな」
「そう願っています」
茶の湯気が、静かに上がる。
俺は目を閉じた。
また、次の火種が来た。
たぶん、かなり大きい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は「断る練習」をめぐるお話でした。
練習は人を助けます。
でも、その練習に「正解」や「資格」を求めてしまえば、それはまた新しい圧力になります。
リオネルは練習台になることを拒みました。
冷たいようでいて、自分が誰かを採点する側に回らないための、彼なりの誠実さでもあります。
ニールは練習の怖さを語り、セシリアは安全な失敗の条件を整え、クラウスはリオネルの言葉を薄めて運び、ギルバートは「不満を持ち帰る技術」を本質的な言葉として出しました。
そして最後は、公開説明会と代表発言者という新たな火種。
逃げ道を作っていたはずなのに、その開通式に立たされそうなリオネルを、ブックマークや評価で見守っていただけると嬉しいです。




