第17話 「ヤーーーーーーーッ!」
「死ねぇぇぇッ! 掃除屋ァァァッ!!」
勇者レオンの咆哮が、ピカピカになった大浴場に反響する。
彼は血走った目で俺を睨み据え、ただの鉄の棒と化した元・聖剣を振りかぶり、猛スピードで突っ込んできた。
殺気、速度、タイミング。
どれをとってもSランク冒険者らしい、必殺の一撃だ。
まともに食らえば、俺の体など一刀両断にされるだろう。
「し、師匠! 逃げてぇぇ!」
アイラが悲鳴を上げる。
だが、俺は動かない。 避ける必要もないし、防御する必要もない。
俺はただ、手に持ったワックスがけ用のモップを立てて、憐れむような目で彼を見た。
「……おい、言っただろ。 そこは『塗りたて』だぞ」
その警告は、殺意に染まった勇者の耳には届かなかった。 レオンの革ブーツが、俺が丹精込めて磨き上げ、最高級のワックスでコーティングした床に、力強く踏み込まれた。
その瞬間。
ツルーーーーーンッ。
漫画のような音がした。
「え?」
レオンの視界が、一瞬で90度回転した。
踏み込んだはずの足が、まるで氷の上――いや、重力が消失したかのように、前へと滑り出したのだ。 慣性の法則に従い、彼の体は空中に水平に浮き上がった。
「う、うおぉぉぉぉぉッ!?」
ゴッ!
「あいたっ!!」
凄まじい音と、妙に変な声が響いた。
レオンは後頭部から床に強打し、そのまま勢いを殺せず、人間カーリングのストーンのように猛スピードで滑走していった。
キュイィィィィィィン!!
「ヤーーーーーーーーーー」
アイラのカーリングの掛け声が『王の湯』に響く。
もぐもぐタイムが楽しみでしょうがないらしい。
摩擦係数ゼロの滑走音を残し、彼は俺の横を風のように通り過ぎていく。
「あ、あれぇぇぇぇぇぇ……!?」
レオンは手足をバタつかせながら、大浴場の端から端まで、およそ50メートルを一瞬で滑り抜けた。
そして。
ガシャァァァァァン!!
反対側の壁――そこに積まれていた『ホワイト・ナイツ』の商売道具(魔導杖やポーション瓶の山)に、頭から突っ込んだ。
高価な杖がへし折れ、ガラス瓶が砕け散る音が、フィナーレを彩る。
ボーリングで言えば理想的かつ完璧なストライクだ。
「…………」
静寂が訪れた。 壁の残骸の中で、勇者レオンは白目を剥いてピクリとも動かなくなっていた。 完全なる自爆していた。
「な、なんだ今のは……」
アフロ頭のエリートリーダーが、開いた口が塞がらないという顔で震えている。
「勇者の突進が……転んだだけで、あんな威力に……?」
「転んだんじゃない。『滑った』んだよ」
俺はモップを片付けながら、淡々と言った。
「俺が最後に塗ったのは、『業務用・3M超高密度ポリマーワックス』だ。
こいつはナノレベルで床の凹凸を埋め、表面をガラス以上に滑らかにする。
乾燥する前の『塗りたて』の状態なら、摩擦係数はほぼゼロだ」
俺はレオンが突っ込んでいる瓦礫の山を指差した。
「Sランクの脚力で、摩擦ゼロの床を踏み込めばどうなるか。 自分の加速力がすべて『滑る力』に変換される。自業自得だ」
俺はツナギのポケットからDAISOで買ってきた『足元注意』と書かれた黄色いミニチュア看板を取り出し、レオンの横に遺影の様に立てた。
「小学校で習わなかったか? 『掃除中の廊下は走るな』ってな」
シーン……。
誰も言葉を発せなかった。
彼らが持つ、魔法も、剣技も、権力までもが「掃除屋の理屈」の前に敗北した瞬間だった。
「……ま、参りました」
沈黙を破ったのは、監査官だった。
彼はガクリと膝をつき、深い溜め息と共に頭を垂れた。
「技術、知識、そして安全管理への意識……。 何一つとして、我々はあなたに及ばなかった。 この勝負、あなたの完全勝利です」
「お、おい! 監査官!」
ホワイト・ナイツのリーダーが慌てる。
「負けを認めるのか!? 僕たちは王立部隊だぞ! こんな薄汚い清掃員に……!」
「黙りなさい!」
監査官が一喝した。
「汚れているのはどちらですか! 見なさい、この床を! この空間を!」
彼は震える手で、大浴場を見渡した。
かつて「魔の湯」と揶揄され、ヘドロとカビに支配されていた地獄は、今や一点の曇りもない、神殿のように輝く空間に生まれ変わっていた。
天井の湯垢も、床の油膜も、すべてが消え去っている。
「魔法ですら成し得なかった『完全清掃』を、彼はたった一人で成し遂げたのです。 これをプロと呼ばずして、何と呼ぶのですか!」
監査官の言葉に、エリートたちは唇を噛み、俯くしかなかった。
へし折れた杖、汚れたスーツ、そして壁に埋まった勇者。
自分たちの敗北は、誰の目にも明らかだった。
「……吉岡殿」
監査官が立ち上がり、居住まいを正した。
その目は先ほどまでの侮蔑の色はなく、敬意に満ちていた。
「約束通り、5億円の賠償請求は破棄します。 それどころか……お願いがあります」
彼は俺の手を取り、熱っぽい視線で言った。
「どうか、我々『ギルド監査局』の特別指導官になっていただけませんか! あなたのその技術を、ぜひ全ギルド員に指導していただきたい! 報酬は言い値で払います!」
またか。
俺はうんざりして手を振り払った。
「断る。 俺はただのFランク清掃員だ。 人に教えるガラじゃないし、デスクワークも御免だ」
「し、しかし……!」
「借金がチャラになったなら、それでいい。 俺は帰るぞ。家で漬物が待ってるんでな」
俺は道具をまとめ、さっさと出口へと向かった。
「あ、待ってください師匠~!」 アイラが小走りでついてくる。
背後では、監査官とエリートたちが俺の背中(と『足元注意』の看板)を、まるで伝説の英雄を見るような目で見送っていた。
こうして、ギルド大浴場決戦は幕を閉じた。
だが、俺はまだ気づいていなかった。
家に置いてある『神の浅漬け』が、アイラの体に及ぼし始めている、とんでもない副作用に。




