巨大商船の主
─何だか、不思議な気分だわ。
数刻前とは逆に、今は城を見上げている。
不意に風が止まった。
「シャルロット嬢、思い残すことはありませんか? この船が出てしまえば、貴女はもうこの国に戻ってくることはかないません。……本当に宜しいのですか?」
いつの間にか、シャルロットの後ろに長身の男が立っていた。風に遊ばれる赤い髪。見え隠れする緑の瞳が不安げに揺れているのは気のせいだろうか。
なかなか出港しないな、と思っていたら、どうやらシャルロットの為だったらしい。
「……今ならまだこの船を降りることも、東へ向かうお父上の船に乗ることも可能です」
ヴィックス商会という西大陸一の大商会の会頭ともあろう男が、目を伏せてシャルロットの返事を待っている。
「ヴィックス会頭、それは私に対する侮辱でしてよ? 父は私との婚姻を条件に提携したのでしょう? 私はマイヨール商会の娘ですもの。相手が契約を反古にしない限り、違えることは致しませんわ。私との婚姻がお嫌なのでしたら、どうぞ父と交渉なさって」
「しかし貴女は十年も彼を……」
「その十年の結果が今なのです。……父にねだれば、王太子妃の実家に見合う爵位を買うことも、国王陛下や貴族達を脅して、婚約者の地位を守ることも出来ました。殿下も先代陛下の遺言を盾に、私との婚約をつき通すことも出来たはず。でも、どちらもそれをしなかった……十年かけてもお互いがその程度だったという、ただそれだけのことですわ」
「そうでしょうか。私には貴女が強がっているようにしか思えません。そうでなければ迎えに来た私に、七日も時間をくれとは言わないでしょう?」
「そうですわね……けじめをつけたかったのかもしれません。次期国母として国を思っていた自分にも……十年あの人を思っていた自分にも」
「……それで、けじめはついたのですか?」
「ええ。私はもう、ただのシャルロット・マイヨールですわ」
「では、ただのシャルロットに改めてお訊きします。お父上の船ではなく、この船に乗るということは、私の妻になると承知したも同じなのですよ?」
「承知しているからこそ、この船に乗っておりますの。ヴィックス会頭こそ、十年も他の男を想っていた私を娶るのが不服なのでしょう? それで私に下船を唆していらっしゃるの?」
「そんなわけないでしょう。シャルロット嬢、私を不実な男にしないでください。私は貴女との婚姻に提携を条件にしたのではありません。提携に貴女との婚姻を条件にしたのです」
「ヴィックス会頭? おっしゃる意味がわかりませんわ。どういうことですの?」
「私はお父上に『貴女を妻に出来るなら、提携してもいい』と言ったのです」
ぽかんと一瞬呆けたシャルロットは、じわじわと意味がわかってきたとたん恥ずかしくなって、黙って船縁に視線を戻した。当然の如く彼が隣に並んでどこか遠くを見ている。
その視線を追うと、少し前までシャルロットが見上げていた王城があった。
また十年間の想い出が次々と浮かんできて、シャルロットを切なくさせる。けれど、もう取り戻せるともそうしたいとも思わなかった。
「本当に後悔しませんか?」
気づくと緑色の瞳がシャルロットだけを見つめて強く光っている。
「ええ」
シャルロットが頷くと同時に、男は彼女を見つめたまま片腕を振り上げ、船を出港させた。