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第5話

1944年一月中旬。上野・不忍池しのばずのいけ


池のほとり、灯火管制が敷かれた帝都の夜は、文字通り底なしの闇だ。

凍てつくような風が枯れた蓮の茎をカサカサと揺らす中、人目を避けるように木立の陰に立つ辻村の分厚い軍用マントの中に、非番の芳子の小柄な体がすっぽりと包み込まれていた。


「……寒くないか、芳子」


辻村は甘く低い声で囁き、芳子の背中に腕を回した。


軟膏で赤黒いひび割れはすっかり消え、滑らかになったその指先が、辻村の三式軍衣の胸元を熱に浮かされたように強く握りしめている。


「中尉殿の、お傍ですから……」


芳子は辻村の胸に顔を埋め、甘い吐息を漏らした。


「……あの。お願いされていた件ですが」


芳子は周囲の暗がりを怯えるように確認してから、辻村の温かいポケット中へ、自分の手を滑り込ませた。

小さく折りたたまれた、少し厚みのある紙の束が、辻村の手に握らされる。


「言われた通り……司令部の将校たちが外部へ電話を繋いだ際、『この通話は交換記録に残すな』と厳命されたものや、私自身が繋いでいて違和感があった番号をまとめました」


辻村は暗闇の中で紙を開く。


雲の切れ間から覗くわずかな月明かりを透かして見えたのは、几帳面な字でびっしりと羅列された、発信時刻と電話番号の山だった。

中には、特定の将校が一日に何度も執拗にかけている怪しい記録もある。


「大したものだ。よく、これだけの数を暗記したな」


「はい……。私、お役に立てましたか?」


不安げに見上げる芳子の顔を、辻村は手袋を外した素手で優しく包み込んだ。


「ああ。素晴らしい働きだ、芳子。私が欲しかったのは、まさにこれだ。……君のこの細やかな記憶が、帝国の目となり耳となる。よくやってくれた」


「中尉殿……っ」


辻村の整えられた口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


     *


数日後。


日暮れと共に軍務を終え、第一生命館を出た辻村は、九段下にある東京憲兵隊本部の裏門へと足を向けた。

お堀から吹き上がる凍てつくような冬の風が、軍用マントの裾を重く揺らす。


高いコンクリートの塀に囲まれた通用口の脇。

辻村が冷たい外気の中で静かに紫煙をくゆらせていると、やがて分厚い鉄扉が開き、軍靴の音を響かせて須藤大尉が姿を現した。


「……辻村。ずいぶんと、早かったな」


門に立つ衛兵の目を気にするように声を潜め、須藤はどこか落ち着かない様子で近づいてきた。

あの『茶封筒』の一件以来、彼は辻村の前に立つと、どうしても怯えたような愛想笑いを浮かべてしまう。


「……海軍省の『知人』から融通してもらったものです。お茶請けにどうぞ」


辻村は吸いかけの煙草を石畳に落として軍靴で揉み消すと、無表情のまま紙袋を差し出した。

中には、配給では絶対に手に入らない『とらや』の羊羹の箱が入っている。須藤の顔が、さらに卑屈な色を帯びた。


「おお……これは貴重なものを。恩に着る」


「例の男は、どこです?」


手土産の礼など意にも介さず、辻村が冷たい声で本題を切り出すと、須藤は慌てて頷いた。


「ああ。地下の特別房に放り込んである。……案内しよう」


須藤の先導で通用口を抜け、辻村は憲兵隊本部の中へと足を踏み入れた。

そのまま、コンクリートの薄暗い階段を下りていく。


一段、また一段と地下へ下るごとに、カビと血の入り混じった重苦しい空気が、べったりと鼻腔にまとわりついてきた。


「地下出版のルートを取り仕切っていた非合法組織の幹部だが、なかなかに骨があってな。二日かけて『可愛がって』やったが、何も喋らん」


淀んだ空気の底。

薄暗い廊下の突き当たりにある重い鉄扉の前で、須藤が立ち止まる。


重々しい音を立てて扉が開かれると、冷たい石の床の上で、手錠を壁の鉄環に繋がれた男がうずくまっていた。


軍靴の足音に気づき、男はゆっくりと顔を上げる。

無精髭の生えた顔は殴打で腫れ上がり、壁に繋がれた両手の指先はどす黒く変色している。活動家であるその男は、軍人である辻村を強い敵意を込めて睨みつけた。


辻村は男の前に立つと、ゆっくりと新しい煙草を取り出し、燐寸マッチを擦った。

青白い煙を吐き出し、見下ろすように語りかける。


「……随分と反抗的なんだってな」


男は血の混じった唾を床に吐き捨て、再び無言で辻村を睨み返した。


辻村はその視線を意にも介さず、部屋の隅に立っていた見張りの憲兵を振り返った。


「おい。そこらに金槌かなづちはあるか」


「は? 金槌、でありますか?」


憲兵は一瞬不思議そうな顔をしたものの、慌てて事務室へ走り、備品箱から鉄の金槌を取り出して戻ってきた。


辻村は金槌を受け取ると、冷たい柄を握り、鉄の重みを確かめるように軽く振ってから、再び男に向き直った。


「手錠を外して、こいつを伏せさせろ」


憲兵は須藤の顔を伺った。須藤が顎で頷くと、憲兵は手錠を外し、男をうつ伏せに押さえつける。


辻村は平坦な声で男に尋ねた。


「利き手は、どっちだ?」


男は答えない。


「……まあ、だいたいは右だな」


辻村は静かに片膝をついてしゃがみ込むと、男の『左手』を無造作に引っ張り出し、その手首を軍靴で強く踏みつけて床に固定した。


「しっかり押さえてろ」


そして、一切の躊躇もなく、高く振り上げた金槌を左手の甲へと振り下ろした。


――硬く、そしておぞましい破砕音が、地下牢の壁に反響した。


「あ、ぎッ……!!?」


「アァァァアアアアアアアッ!!」


男の喉から、鼓膜を裂くような絶叫が迸った。


辻村は男に対して何も聞かない。

眉ひとつ動かさず、感情の完全に抜け落ちた目で、二度、三度と無慈悲に金槌を振り下ろす。


「つ、辻村……!?」


あまりの光景に、歴戦の憲兵である須藤の顔すらも激しく引き攣った。


男は白目を剥いて床をのたうち回り、苦悶のあまり呼吸すらも忘れたように痙攣している。

恐怖の匂いが独房に充満した。


「お、おい辻村……いくらなんでも、これは……」


青ざめる須藤を完全に無視し、辻村は血塗れの金槌を床に放り投げた。

そして、部屋の隅で震えている憲兵に、静かに指示を出す。


「麻袋と、マチ針を持ってこい」


指示通りに持ってきた荒い麻袋を、辻村は無言のまま、泣き叫ぶ男の頭からすっぽりと被せた。

視界を完全に奪われた男は、恐怖でガタガタと痙攣している。


それから、しばらくの時間が流れた。


辻村は何も言わない。

ただ静かに煙草を吸い、男の嗚咽だけが響いている。


そして――唐突に。


辻村は麻袋の上から、男の顔面に向けて深くマチ針を突き立てた。


「ギャアアアアアアアアッ!!」


見えない暗闇からの、予測不能な鋭い痛み。男は狂ったように悲鳴を上げる。


だが、辻村はやはり『何も聞かない』。


ただ沈黙が落ち、また数分後、不規則な間合いで別の場所に針が突き立てられる。


「あァッ! ひぃぃぃッ!!」


暗闇の中で、いつ襲うか分からぬ理不尽な激痛。

防御も予測も不可能な恐怖に、男は晒され続けた。


辻村は無言のまま、ひたすら手当たり次第に針を突き立てていく。


顔、脚、腕……幾度となく、それは繰り返された。やがて……


「ゆ、許して……許してください!! き、木島です! 木島泰造先生が資金の出処です! 何でも言います! 何でもします!! お願いしますゥゥゥ!!」


須藤は身を乗り出す。


「木島!? 間違いないか!」


ついに吐いた。須藤が眼を大きく見開き、視線が素早く部下の憲兵へと流れる。

記録を取っていた部下が「間違いない」と無言で頷く。


木島泰造。元・帝大教授であり、現在は内閣情報局の嘱託研究員を務めるソ連地政学の第一人者だ。

二日間、彼らが拷問の末に欲しがっていた、これ以上ない大物黒幕の名前だった。


袋の中で、男は赤子のように泣き叫び、床に額を擦り付けた。完全な屈服だった。


須藤はわずかに息を吐いた。

長かったが、これでようやく前に進める。――そう思った、その時だった。


辻村が冷たい声を、男の頭上から無慈悲に降りおろす。


「……駄目だ。お前は信用ならん」


「えっ……」


「改悛の情が本物だと認められるまで、その袋は取らん」


「嫌だ! 嫌だぁぁぁッ!! ぜ、全部話しますッ! 助けて、許してくれェェェ!!」


辻村にとって、こいつらが何者で、誰と繋がっていようが、そんな事はどうでもよかった。


……ポタ、ポタ、と。

どこかで水滴の落ちる音だけが、規則的に響いていた。


三時間が経過した。


麻袋の中で泣き叫ぶ声はとうに枯れ果て、時折ヒクッ、ヒクッと引き攣るような呼吸音だけが漏れている。


精神が完全に決壊し、ぐったりと床に丸まる男を冷たく見下ろしたのち、辻村はゆっくりとしゃがみ込んだ。

頭からすっぽりと麻袋を引き抜く。


不意に訪れた薄暗い電球の光に、男は涙と鼻水に塗れた顔を歪め、ガタガタと痙攣しながら辻村を見上げた。

そこには、金槌を振り下ろした悪魔ではなく、慈愛に満ちた聖人のように微笑む男の顔があった。


辻村は懐から、先ほど須藤に渡したものと同じ『とらやの羊羹』の切れ端を取り出し、極めて優しく、甘い声で囁きかけた。


「……羊羹でも、食うか?」


男は喉の奥でヒュッと息を呑み、震える右手で、すがるようにその羊羹を受け取った。

血と涙に塗れた顔で、すがりつくようにそれを頬張る。


「……おい。衛生兵を呼んで、処置してやれ」


立ち上がった辻村は、それまでの優しい声から一転、氷のように冷たい声で背後の憲兵に命じた。


「手首は切断させるな。だが、化膿して死なれては困る。『サルファ剤』投与させろ」


「は、サルファ剤……でありますか?」


戸惑う憲兵を尻目に、須藤が顔をしかめて一歩前に出た。


「おい辻村、骨が完全に砕けているんだぞ。手首を切り落とさずに薬だけで持たせようとすれば、こいつは下手すりゃ死ぬぞ。そもそも痛みに耐えられん」


「ええ。ですから、こいつを使います」


辻村は軍用図嚢から、小さな茶色のガラス小瓶と注射器を取り出し、カチャリと音を立てた。


「モルヒネ……か」


「いかにも……」


辻村はモルヒネの小瓶を冷たい光に透かし、無表情のまま淡々と答えた。


「こいつだけが、この男の救いになるのです」


辻村の目が、恐ろしいほどの冷ややかさを帯びた。


「地獄の苦しみにモルヒネを打ち、囁く。至福の安らぎを与えてやる。持たなければ腕ごと切断する、ただそれだけです」


辻村は、床で羊羹を貪る男に冷たい視線を投げた。


須藤は息を呑んだ。


「これでようやく、暴れるだけの狂犬に首輪が付きました」


須藤は、ただ青ざめた顔で尋ねる。


「……首輪を付けて、どうするつもりだ?」


「明日から、こいつの空っぽになった脳髄に、『新しい記憶』を少しずつ注ぎ込みます」


「な、なんだと……?」


「……教育には、まだ少し日数がかかる……まぁ、見ていてくださいよ」


辻村はそう言い残し、泣きじゃくる男を一瞥すらせず、踵を返した。


地下牢の空気が、いっそう冷たく淀んでいた。


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