第4話 テヘランの幻影
1944年一月上旬 帝都・東京
日比谷・第一生命館(東部軍管区司令部)
第二課の執務室は、今日も重苦しく官僚的な空気に包まれていた。
暖房の効きの悪い室内には、将校たちがふかす安煙草の紫煙が澱んでいる。
けたたましく鳴る黒電話のベル。
タイプライターの乾いた打鍵音。
そして、分厚い書類の束が机に叩きつけられる音。
辻村は自席で、管内の不穏分子に関する報告書に、無表情で目を通していた。
「……中尉。貴官は三宅坂(参謀本部)の十一課からの出向だったな。至急、これを見てくれ」
背後から声を潜めてきた長谷川少佐に、辻村は素早く起立して敬礼した。
長谷川の顔には、隠しきれない焦燥が張り付いている。
周囲の将校たちの目を盗むように差し出された手には、数枚の電報頼信紙が固く握られていた。
「通信班から、昨晩上がってきた物なんだがな……」
長谷川はさらに声を落とし、辻村の耳元に顔を寄せた。
「ハ特から三宅坂へ向けられた特種無線の電波だ。外側の陸軍暗号はどうにか解けた。……だが、中身が問題でな。ハ特が傍受し、解読したというソ連軍の極秘電の写しだ」
辻村は無表情のまま頼信紙を受け取った。
そこには、ハルピン特務機関が翻訳した日本語の解読文とともに、証拠として元のロシア語の暗号配列が几帳面に記載されていた。
【発】ハバロフスク・極東軍管区司令部
【宛】ウスリー・アムール両沿岸管区/各独立国境警備隊/各機械化狙撃師団
【暗号形式】内務人民委員部管轄 特種乱数表B類
【解読本文】
モスクワ最高司令部ノ特別指令ニ基ヅク。
各隊ハ現行ノ防衛態勢ヲ維持シツツ、極秘裏ニ後続作戦準備ヲ開始セヨ。
一、当方面敵国境陣地群ニ対スル砲撃標定データノ収集及ビ更新ヲ継続セヨ。
一、アムール・ウスリー両河川ニ於ケル渡河機材ノ総点検並ビニ結氷期ニ於ケル通行可能性ノ調査ヲ実施セヨ。
一、機械化兵力展開ニ備エ、前進集積所ノ秘匿構築ヲ行エ。
無線封止及ビ防諜ヲ厳守セヨ。
指令アルマデ一切ノ挑発行為ヲ禁ズ。
本指令ノ存在ハ厳重ニ秘匿セヨ。
以上。
「……『後続作戦準備ヲ開始セヨ』ですか……ソ連は条約を反故にすると」
「声が大きい」
長谷川が顔をしかめて制し、声を潜めた。
「テヘラン会談の直後に、こんなものが本物だとしたら……米英と欧州を分割した後に、帝国に攻め込んでくる……事実なら大変なことだぞ」
辻村は添付されている暗号配列の規則性を目でなぞり、わずかに息を吐いた。
「……ソ連内務人民委員部(NKVD)管轄の特種乱数表に間違いありません」
「検証できるか」
「はっ、やってみます」
辻村は静かに着席すると、自席の引き出しから分厚い簿冊を引き抜いた。
周囲では相変わらず電話のベルが鳴り、同僚たちが雑務に追われている。
その平穏な喧騒から意識を切り離し、辻村は頭に叩き込んだ第二部時代の符丁の記憶を頼りに、ハルピン特務機関が提示した暗号配列と解読手順の整合性を、ざらついたわら半紙の上で一つ一つ確認していく。
書類をめくる音だけが辻村の耳に響く、重苦しい時間が流れる。
それから二時間。検証は終わった。
辻村は万年筆を置き、長谷川へ報告に向かい、わら半紙を渡した。
「……少佐殿。ハ特の解読手順に誤りはありません。ソ連の暗号規則を、形式上完全に満たしています」
「……そう、か……」
長谷川の顔から、さっと血の気が引いた。
辻村は、震える手で頼信紙を握りしめる長谷川を見つめた。
(……出来すぎている……おそらくこれはモスクワのものではない)
辻村の口角が、ほんのわずかに、誰にも気づかれないほど微かに吊り上がった。
「これは……まずいことになったぞ……」
長谷川は大きく見開いた目を血走らせ、周囲を鋭く睨んだ。
「中尉、この件は絶対に外へ漏らすな。私から直接、上へご報告に上がる」
「はっ」
血相を変えて執務室を飛び出していく長谷川の背中を、辻村はただ静かに見送った。
*
翌日の午後。
辻村が通常業務の書類を淡々とめくっていると、長谷川少佐がひどく重い足取りで近づいてきた。
「辻村中尉。ちょっと来い」
長谷川の机の前に立つと、少佐は周囲を気にしながら声を潜めた。
「参謀長閣下がお呼びだ。昨日の件で、直々に貴官の専門的な分析を聞きたいと仰っている。五分後に参謀長室へ向かえ」
「……承知いたしました」
辻村は静かに答えた。
東部軍参謀長、辰巳栄一陸軍中将。
この司令部における事実上の最高実力者からの、異例の直接の呼び出し。
(当然この情報は、『関東軍』内でも共有され、今ごろ大騒ぎになっているはずだ)
辻村は一点を見つめ、呟く。
「ハ特から三宅坂へ直接……」
(辰巳参謀長が三宅坂に入る電波を秘密裏に傍受させていたこと自体は、軍内政治としてあり得る話だ。しかし、そもそもソ連の極秘情報という『最重要機密』が、なぜ東部軍の通信班でも解読できるような、一段水準の低い軍用暗号の『外箱』に入れられて送信されてきたのか……)
辻村は軍装を整え、図嚢を提げて第二課の執務室を出た。
大理石の階段を音を立てて上っていく。
踊り場から、書類束を抱えた伝令の兵が慌ただしく駆け下りていった。
六階。
床に敷き詰められた分厚い絨毯が、軍靴の足音をふっと吸い込んだ。
空気が急に重くなる。
参謀長室の前には、帯革をきつく締めた大柄な憲兵が二名、着剣した小銃を手に石像のように立哨していた。
辺りには高級な磨き蝋の匂いと、どこかの部屋から漏れ聞こえるモールス信号の乾いた発振音だけが漂っている。
「第二課、辻村中尉。参謀長閣下よりお呼び出しであります」
前室のデスクに座る副官に告げると、若い中尉は無言で立ち上がり、重厚なマホガニーの扉の奥へ姿を消した。
辻村は直立不動の姿勢で待つ。
やがて扉が内側から開かれた。
「失礼いたします。第二課、辻村中尉。出頭いたしました」
東部軍参謀長室。
分厚い絨毯の敷かれた豪奢な執務室には、紫煙と、物理的な重さすら感じる権力の静寂が満ちていた。
革張りの執務机の奥で、辰巳栄一中将が葉巻の煙をゆっくりと吐き出した。
「入れ」
辰巳は手元の書類から目を離さず、短く促した。
辻村が机の前に直立不動で立つと、将軍は昨日辻村が検証したばかりの報告書を、指先でツーっと滑らせた。
「長谷川から聞いた。ハ特が傍受・解読し、直接三宅坂へ送られたものが、我が軍の傍受網にかかったそうだな」
辰巳は目を細め、辻村の顔を底知れぬ眼差しでじっと見据えた。
「率直に言え。三宅坂にいた貴官は、これをどう思う」
辻村はわずかに目を伏せ、自重気味に口を開く。
「……閣下。ハ特の解読に誤りはありません。ですが、彼らが傍受した大元の暗号を、正規の通信であると仮定した場合、いくつか説明のつかない点が存在します」
辰巳の眉が、ピクリと動いた。
「ほう。それは何だ」
「暗号の『格』が、内容と矛盾しています。モスクワ最高司令部が極秘の作戦準備を命じる場合、原理的に解読不可能な『無限乱数』を使用するのが鉄則です。しかし、ハ特が傍受したこの電文には、我々がすでに体系を把握している既存の『特種乱数表B類』が使われています」
辻村は淡々と分析を述べる。
「最高機密に、敵に破られている可能性のある暗号を使う。そんな愚行は、ソ連軍の常識ではあり得ません。それに加え、乱数表の切り替え時期が、暗号学校の教科書のように完璧に整いすぎている。……これはハ特に、解読されることを前提とした通信である可能性も考えられます」
「米英、あるいは国民党の工作ということか」
辰巳の視線がわずかに細まった。
「それは分かりかねます……ですが、外部の工作にしては、都合よく出来すぎている印象を受けます」
一拍置いて、辻村は自重気味に続ける。
「……あくまで理論上の話ですが、このような電文を外部からの傍受に見せかけることは、不可能ではありません」
辰巳は黙って先を促す。
「例えば……穿孔テープや自動送信機、可変減衰器を用いて送信系統に一時的に信号を流し込み、受信記録として残す。多少雑音を混ぜれば、外部からの発信との区別は困難になります」
「……できるのか?」
「設備と知識を持つ内部の者であれば、可能です……もっとも、それを実行した者がいるかどうかは、別の話ですが」
辰巳は葉巻を持った手を止め、探るような目で辻村を見つめ返した。
「そうか、偽物か……貴官が見抜いたのなら、参謀本部の暗号班も偽物だと見抜くのであろうな」
「はい。専門家は、私と同じように『作られた匂い』を感じ取るでしょう」
辻村は無表情のまま、あっさりと肯定した。
「ですが閣下。彼らは絶対に、これが『偽物である』とは断言しません」
「なぜだ?」
「形式上は、NKVDの既存の暗号規則を完全に満たしているからです。確たる証拠もないのに、ハ特の報告を『偽造だ』と断定し、万が一それがソ連通信兵の重大な規定違反による『本物の漏洩』だった場合、握り潰した者は取り返しのつかない責任を負わされる。……ですから彼らは完全否定を避け、『一定の蓋然性が認められ、現時点で断定は困難である』という、玉虫色の報告書を上げるはずです」
辰巳が、ふっと口元を緩めた。
「……なるほど……ありそうな話だな」
辰巳のその表情を見た瞬間、辻村の脳内で点と点が繋がった。
(……そういうことか……発端は些細なものだ。誰かが見たいものを見てしまった……だが、一度上がった情報は、欲している者の手で『証拠』に変わる……軍中央の枢機にまで手を伸ばし、大陸で謀略を巡らす特務の人間たち。そして、彼らと繋がりのあった参謀長が、この絵図に気づいていないはずがない)
辻村は、紫煙の向こうにいる将軍の真の意図の輪郭を見た。
辰巳は興味深げに辻村を見据えている。
辻村は少し自重気味に口を開いた。
「ですが閣下。参謀本部が『偽物とは言い切れない』と判断したとしても、軍務局などの頑強な主戦派たちは、これを『敵の謀略だ』と一蹴するでしょう」
「……そうだろうな」
「ただ……このようなものがいくつか積み上がれば、多少なりとも風向きは変わるのかもしれません」
辰巳と辻村の視線が、紫煙の向こうで静かに交錯した。
辻村からの暗黙の提案。
しばらくの重い沈黙が続き、やがて辰巳はゆっくりと息を吐き出し、吸いかけの葉巻を灰皿に押し付けて揉み消した。
「……私は、何も聞いておらん」
辰巳の低く重い声が、執務室に響く。
「だが……私が待っているのは、貴官の専門的な分析と、それに付随する『裏付け』の報告書だけだ。……わかるな」
辰巳は再びじっくりと辻村の目を見据えた。
「……好きにやれ」
「はっ。承知いたしました」
辻村は一切の感情を見せない、完璧な角度の敬礼を残して踵を返した。
重厚なマホガニーの扉が背後で閉まり、将軍の紫煙と重苦しい権力の匂いを完全に遮断する。
前室を出て廊下に戻ると、二名の憲兵は依然として石像のように前方を睨んだまま立哨していた。
辻村は彼らを一瞥すらせず、分厚い絨毯の上を歩き出す。
僅かに口角が上がる。
「……ハ特は、保険をかけたか」
やがて大理石の床へと足を踏み出すと、コツン、と硬質な軍靴の音が冷たく響いた。




