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第10話 数える者

昭南島(旧シンガポール)

ケッペル港


徴用船第三大洋丸のタラップを降りた途端、突き刺さるような日差しが防暑帽を熱した。大陸の土で硬くなった軍靴が、照り返すコンクリートを踏む。


港湾一帯は、むせ返るような重油の匂いが充満していた。クレーンの鋼索がきしみ、ドラム缶がぶつかり合う。山積みの木箱には「南方軍」の黒々とした検印が押されていた。かつて大英帝国が築いた要衝は、今は日本軍の兵站基地としてせわしなく稼働している。


足元に置かれた柳行李と革鞄に、監督官である曹長の怒声が飛ぶと、数人の現地民労務者が駆け寄ってくる。その中の一人、痩せた苦力クーリーの若者が行李に手をかけ、ふと顔を上げた。


周囲の将兵より頭一つ抜けた長身。若者は、周囲を睥睨する真鍋勲まなべ・いさお陸軍中尉の、切れ長な鋭い目つきに視線を逸らし、慌てて荷を担ぎ上げる。腰につけた徴用札がチャリンと鳴った。


「中尉殿、こちらへ。他の方々はすでに先発されました。中尉殿が最後であります」


曹長が差し出す受領伝票を、真鍋は無言で受け取る。砲兵観測で計算尺を弾き続けてきた、骨張った長い指。爪の縁には、北支の黄土がまだ微かにこびりついている。


伝票に機械的に判を押し手渡す。それだけで、行李は「真鍋勲個人の所有物」から「軍の移動物資」へと性格を変える。曹長は、赤銅色に焼けて削げた真鍋の横顔を盗み見た。その薄い唇は感情を排して固く閉ざされていた。


真鍋は歩き出す。若者は重い荷に喘ぎながら、軍刀を揺らして進む真鍋の三歩後ろを、黙々と追った。


駐車場には、泥除けに白ペンキで「南方」と書かれた九四式六輪自動貨車が待機していた。荷台には、すでに他の転属将校たちの行李や私物が無秩序に積まれている。


真鍋は顎で指示して行李を積ませる。作業を終えた若者が深く頭を下げたが、真鍋は労いの言葉一つかけず、無表情に助手席へ乗り込んだ。この島における労役は、すでに占領軍の管理機構の一部として、完全に組み込まれていた。


「南方軍司令部、ブキ・ティマへ向かいます」


運転席の兵長が背筋を正して敬礼し、エンジンを始動させる。


港を離れると、車窓を白亜の洋館が流れていく。通り名は「大和通り」や「昭南通り」などの日本語の標識に付け替えられ、街角に立つ日の丸を腕に巻いた現地人の警防団が、トラックに向けて直立不動の姿勢をとっていた。


真鍋は軍服の胸ポケットから、銀鎖の繋がった懐中時計を引き出した。裏蓋に「御賜」と刻まれた精工舎製の時計が、無機質に時を刻み、短針は丁度二時を指している。


真鍋は流れていく景色を眺めた。南洋の陽炎の向こうで、新たな統治者によって張り付けられた「日本という秩序」が、異様なほど白く浮き上がって見えた。


九四式自動貨車の助手席で、真鍋勲中尉は汗を吸った九八式軍衣の襟をわずかに緩めた。肌にまとわりつく湿気は、内地とも支那とも違う不快さだ。


数週間前まで真鍋は、北支那方面軍・第百十師団の管轄下、石家荘せっかそうの荒野にいた。陸士五十五期を最上位の席次で卒業し、見習士官から少尉時代を過ごした師団砲兵隊。そこでの日々には、黄土と硝煙の臭いがあった。


トラックが港湾のゲートを抜け、舗装された「昭南通り」へ入る。タイヤの振動が均質になった。


「……支那の砂埃とは、勝手が違うな」


真鍋は前方を見据えたまま呟いた。乾燥した土と火薬の匂いが染みついた大陸とは異なり、車内には重油、生ゴム、熱帯の植物の匂いが入り込んでくる。


「はっ。大陸からいらした中尉殿には、この湿気は毒かもしれませんな」


ハンドルを握る兵長が応じた。真鍋の軍衣には何度洗濯しても変色して落ちない北支独特の黄土が染み付いていた。


「向こうは、水さえ乾いておりましたから」


兵長が言うと、真鍋は窓外へ視線を向けたまま応じた。


「ああ。計算の変数が多すぎた。土の硬さも、風の読みも、すべてが流動的でな」


中尉昇進と同時に届いた南方軍総司令部への転属命令は、真鍋を「土と火薬の戦場」から後方の兵站基地へと移した。


トラックは旧シンガポール・クリケット・クラブの脇を通過する。芝生のパダンは練兵場として使われている。クラブハウスの正面には「将校集会所」の看板が掲げられ、銃剣を立てた歩兵が立哨していた。


「……この島は、すべてが石で固められている」


流れていく景色は、北京の土壁や中支の泥濘とは違う。切り出された石とコンクリートが並んでいた。


「左様であります。道も、水も、電気も」


兵長は前を向いたまま続ける。


「英国人が百年かけて張り巡らせた仕組みを、我々がそのまま使っております。支那のように、一度壊して作り直す必要はありませぬ」


九四式のタイヤが、アンダーソン橋の鉄骨をゴトゴトと鳴らす。シンガポール川は濁り、無数の艀が密集している。岸辺では、軍票を手にした現地の商人が公定レートに従って取引を繰り返していた。怒声はなく、物資と紙片が交換されていく。


「神社は、どこにある」


真鍋が問うと、兵長は答えた。


「昭南貯水池に『昭南神社』が、来月完成する予定でありまして、島内各所から遥拝することになっております」


兵長がハンドルを切る。トラックは北へ進路を取った。


車窓の景色は官庁街から、緑の多い地区へ移る。モダンな校舎群と赤茶けた屋根瓦。学校施設が軍に接収されている。ゲートには詰所と憲兵がいる。土嚢も鉄条網も置かれていない。


サイドブレーキが引かれ、エンジンが止まった。


「到着いたしました、中尉殿。南方軍司令部であります」


真鍋は無言でドアを開け、歩き出した。石畳をコツコツと軍靴の音が鳴らす。


正面玄関の壁面に、白木の表札が掲げられている。


『南方軍総司令部』


旧ラッフルズ・カレッジの建物の前は、その墨文字の存在感が支配していた。


営門の衛兵司令所で転属の辞令を示すと、下士官が直立不動で答礼した。


「副官部は正面本館の一階、右翼の突き当たりであります」


真鍋勲中尉は照りつける日差しの中を歩き、アーチ状の太い柱が連続する入り口をくぐって、マナセ・メイヤー棟の中へ入った。


庁舎内部は外の熱気を遮断していた。漆喰の壁と高い天井。中央で回転する天井扇シーリングファンが、冷ややかな空気を循環させている。


真鍋勲中尉の軍靴が、磨き上げられた廊下のリノリウムをコツコツと鳴らす。九八式軍衣の第二ボタンに掛けられた銀の鎖が左胸の内ポケットへ伸びている。


「副官部」と墨書きされたチーク材の扉を叩き、中へ入ると空気の質が変わった。タイプライターの打鍵音と紙の擦れる音、低い声での確認と命令が交差している。


彼方の窓際、一段大きな机に陣取るのが責任者だろう。真鍋は迷うことなく、奥へと歩を進めた。


書類から目を離さない中佐の前で足を揃える。


中佐の肌は古紙のように白い。縁なし眼鏡の奥の目は書類の行だけを追っている。


「北支方面軍より転属、真鍋勲中尉。本日付、着任いたしました」


中佐は顔を上げない。辞令を受け取ると決裁印を印肉に雑に擦り付け、書類に叩きつける。


「トンッ」


「参謀部。第四課付船舶統制班勤務を命ずる」


「中庭を挟んだ向かいが事務棟、二階第三事務室だ。物品は廊下奥の第五事務室、事務掛から受領しろ」


視線はすでに次の書類へ落ちている。


副官部を出て、風の通る回廊を歩く。中庭の向こう側に建つオエイ・ティオン・ハム棟からは、実務の湿り気が立ち込めていた。


二階の第三事務室は、かつて講義室だった石造りの大部屋だ。漆喰の高い天井の下に、数十の木製デスクが島を作って並んでいる。


真鍋は自分の席を見つける。部屋を支える太い石柱に「船舶統制班」と墨書された紙が貼られている。


その足元の末席。卓上の木製プレートには「中尉 真鍋」とある。


行李を置き、椅子を引く。


「中尉殿」


机の脇に国民服姿の男が立っていた。階級章はなく、軍属腕章のみ。


男は鉛筆、朱肉、帳簿類を机に置く。


「消耗品であります。受領印を」


男の視線は一瞬だけ真鍋の左胸の銀の鎖に向かうが、すぐに逸れる。


真鍋は無言で受領印を押す。


男は背を向けて去る。


真鍋は懐中時計を取り出す。菊花紋章の銀の蓋を開く。


「コチ、コチ、コチ」


時刻を確認し、蓋を閉じる。


机上には「昭和十七年度 第四四半期 管下船舶動静及輸送実績綴」の分厚い綴り込み帳。


真鍋は計算尺とペンを取った。


これより彼は、数える者として、この戦争に参加することになる。


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