序章
激しい雨が降りしきる夜。
街角に置かれた誰にも見向きもされないテレビが、静かにニュースを流し続けていた。
AIが社会を支配する時代。
書類の作成、映像の生成、意思決定のシミュレーション――あらゆる作業は極限まで効率化された。
そしてデータ技術が発達しきった今、「戦闘」さえも、かつてないほど容易なものとなっていた。
黒いロングコートをまとった一人の男が、高層ビルの間を軽やかに飛び移っていく。
男が装着したマスク越しに映る景色には、ゲームのナビゲーションのような青いルートが表示されていた。
視界の端では黄色いマーカーが点滅し、電子音が響く。
『前方の交差点を右折してください。』
男は一切ためらうことなく右へ曲がり、目の前の鉄扉を蹴破る。
そのまま薄暗い階段を駆け下り、路地裏へと飛び出した。
そこにはターゲットがいた。
地面にしゃがみ込み、だらしなく座っている一人のチンピラ。
男が闇の中から姿を現すと、チンピラは吹き出すように笑った。
「なんだお前? 道化師か?」
男は低い声で言い放つ。
「好き放題やってきたようだが、それも今日までだ。」
「あぁ?」
笑みを消したチンピラは、脇に置いてあった金属バットを手に取り、男を睨みつけた。
「ここは俺たちの縄張りだぞ。今日は運が良かったな。ボスがいなかったから助かったようなもんだ。じゃなきゃ、生きて帰れねぇぞ。」
男は静かに答える。
「……いや。」
「運が良かったのは、お前たちのボスのほうだ。」
その一言でチンピラの怒りは頂点に達した。
雄叫びを上げながら、金属バットを振りかざして突進する。
その瞬間、男のマスクに無数のデータが走る。
《対象の攻撃姿勢を解析中──》
《右スイング:90%》
《左スイング:10%》
《振り下ろし:19%》
《攻撃なし:1%》
《最適解──右へ回避。》
男は指示どおり右へ身をかわし、一撃目を紙一重で回避した。
しかし次の瞬間、チンピラは勢いのまま不自然に体をひねり、左から追撃を放つ。
鈍い衝撃音が響いた。
男の肩にバットが直撃し、その身体が大きくよろめく。
耳元から電子音声が流れた。
『……私を信じてくれないの?』
男は肩を押さえながら、小さく息を吐く。
「避けたあと、追撃してくると思った。」
チンピラは腹を抱えて笑った。
「変なマスクまで付けて、その程度かよ!」
電子音は、どこか意地を張るように続ける。
『信じて。私は、ずっと君を信じているから。』
男は静かに深呼吸し、ボクシングの構えを取った。
チンピラが再び突進する。
《右へ回避──反撃。》
男の拳が鋭く頬を打ち抜く。
チンピラは怒り狂い、バットを無茶苦茶に振り回した。
《左へ回避──攻撃。》
《連撃。》
《右へ回避。》
まるで譜面どおりに踊るダンサーのように、男はAIの指示を忠実になぞりながら、相手の攻撃を完璧にさばいていく。
顔中を殴られ、血まみれになったチンピラは、獣のような咆哮を上げると一直線に突っ込んできた。
しかし、その行動はAIの予測を超えていた。
チンピラは突進と同時に、手にしていた金属バットを男の顔面へ投げつけたのだ。
視界が塞がれた一瞬の隙を突き、チンピラは男の足へ飛び込み、その両脚を抱え込む。
男は体勢を崩し、激しく地面へ叩きつけられた。
そのまま馬乗りになったチンピラは、理性を失ったように拳を振り下ろし続ける。
男のゴーグル型マスクには細かな亀裂が走り、赤い警告表示が激しく点滅した。
《システム損傷》
《警告》
《最終解析を実行中──》
システムが停止する寸前。
男はAIが示した重心の位置と、自らの格闘経験を頼りに腰をひねる。
一気にチンピラを投げ飛ばし、二人は地面を転がった。
男は先に立ち上がると、全身の力を右拳へ込める。
そして渾身の一撃を、チンピラの顔面へ叩き込んだ。
鈍い衝撃音が響く。
チンピラは白目をむき、そのまま意識を失って動かなくなった。
男は激しい雨の中で肩を上下させながら、倒れた男を見下ろす。
やがて遠くからサイレンの音が近づいてきた。
「そこだ! 動くな!」
路地へ飛び込んできたのは、ショートヘアの若い女性警察官だった。
「こちらです!」
彼女の声に応じ、他の警察官たちも次々と駆け寄ってくる。
しかし、その頃には男は建物の影へ身を溶け込ませ、誰にも気づかれることなく夜の闇へ姿を消していた。
薄暗いセーフハウス。
男は鏡の前に立ち、壊れかけたマスクを外す。
アルコールで傷口を消毒し、黙々と包帯を巻いていく。
鏡に映るのは、疲労を滲ませながらも鋭い眼差しを失わない自分自身。
男はゆっくりと息を吸い込み、静かに吐き出した。
「……まだ足りない。」




