欠けてはならないもの
1
三日後の、八月十四日の夕刻であった。
その日、アイシィは普段と比してどれだけか忙しなく働いていた。彼女が所属するFBU極東管轄に対し、別のFBUから臨時の増援を求められたことが発端である。
天界においての業務委託というものは通常、頼む側と頼まれる側に共通する可能な限り近い管轄内で完結するように取り決められている。具体的には、まずは同じ工場の中で仕事を引き受けてくれる相手を探し、見つからなければ隣接する別の工場で、それでも見つからなければ更に上――即ち、人間界における県や州、時には国家といった粒度――で、といった段階を踏む。その方が互いに連絡を取りやすく、事情の急変や割り込み等の不測にも対処し易い為だが、このことは人間界での仕事に関しても同じことが言えるだろう。
だが、ことFBU間における業務委託においてはその限りではない。この「汚れ仕事専門部隊」はそもそもの話、絶対的に人数が不足している。
一例を挙げるとすると、FBU極東管轄――人間界において日本と呼ばれる国を担当する――に所属する天使は、現状では僅か三十人しかいない。無論、対応する面積や人口が多くなるに応じて、その国や土地を担当するFBUに属する天使も多く割り当てられてはいるものの、いずれにせよ仕事量に対して頭数が十分に確保されているかについては、どこの管轄も共通してNOと断言できる状況にあった。
加えて、FBUが人手不足に陥った場合にその代役と成り得る組織は、やはり同族であるFBUしか存在しないことも大きい。FBUに回されるような過激な現場をボランティア精神で引き受ける一般天使を身近なところに限定して探す方が、手間の面では余程のこと面倒であった。
故に、各FBUの統括長に該当する上級天使は、一般天使から送られてくる依頼に対し、ある程度の取捨選択によるふるいをかけている。有体に言うならば「大した死に様にはなりそうにないから我慢しろ」と説得するわけだが……時には通じない場面もある。
この日、FBU華夏管轄が騒がしかったのは、彼女たちが見守る範囲内のとある一か所にて、まさに逼迫した状況が訪れたために他ならない。
大気汚染と騒音問題を重く見たその中規模都市では、祭日や祝日における爆竹の使用に関して数年前から条例による制限が掛けられていたが、代案として花火の需要が増していた。過剰な音や煙を出さぬよう公害対策を施された家庭用花火の改良と普及は、祝い事を盛大としたがる民族性を満たすことに大いに貢献し、今回の即売会場においてもまた数多くの製品が露店に並べられ、次の春節を合法的に祝うための準備を住民たちへと促していた。
その会場の只中、突如として大爆発が発生した。
もっとも、それは夥しい数の花火が一斉に誘爆した限りではない。その際に発生した異常な衝撃と高温が地下を走るガス管を揺らしたことにより、老朽化の隙間から染み出していた揮発性ガスが引火し、町を地盤ごと下から持ち上げて崩壊させたことが本質であったが……三桁を優に数える死体が瞬時に転がり、四桁に及ぶ負傷者が呻き声をあげたことに違いはない。
同時刻、同地点において多数の死者が発生するとあらば、彼らの死因は同一の事故か事件で明白である。大量の火薬を道端で無造作に売りさばくような現場であれば、もはや死因そのものすらも容易に予想できた。そして、人間がバラバラに吹き飛ぶ様子を眺めたがる一般天使が当然おらず、FBUへと大量の業務委託が流れ込んでくることもまた必然であった。
とは言え、大事故が起きるとしても、現場を管轄するFBUとて所属天使を一か所に全て割り振るわけにもいかない。その場とは全く関係のないところで同時刻、惨い死に方をする者も相当数存在し、彼らの死に様を確認するためにもやはり誰かしらの見届け人を送らねばならず、よってFBUの慢性的な人手不足が都合良く解消されるようなタイミングは依然期待できない。
そうしてFBU華夏管轄は、最寄りである極東管轄へと臨時の増援を依頼したのである。派遣されたのはバラバラ死体に対して突出した耐性を持つバリスタではなく、アイシィであった。大規模な被害現場となる以上、主要な死因は爆死であれど、それ以外にも多岐に及ぶことが想定されたため、オールラウンダーであるアイシィの方が適任であると判断されたためである。
日が傾き、夕暮れの明るさが峠を越えて下り調子になり始めた頃合、FBU華夏管轄はある程度の落ち着きを取り戻し、派遣されたアイシィの受け持つ任もまた概ね完了した。
燃え盛る家屋から立ち昇る黒煙……
次の瞬きまで形を維持できるかどうかも怪しい瓦礫の山……
焦げた鉄と肉のにおい……
鼓膜を劈く怒声と慟哭……
五感を絶え間なく襲い、その場に立つ者の正気を狂わせる事故現場も、つまるところは彼ら当事者たちだけのものであった。天界から目で見てうかがえるのは彼らの状況と発声内容のみでしかない。当事者たちが内心ではどのように狂騒しているのか……その声にどれだけの恐怖が滲んでいるのか……天使には全く知りようがなかったが、仕事の遂行には差し当たって問題などありはしない。
天使は人間の最期を見届ける。つまり、最も人手に事欠く状況は大事故が発生したまさにその瞬間であり、そこから数秒後以降は大したものではなかった。
所謂、即死を免れた者が路肩にごろごろと転がっていようと――たとえ、それが四肢と臓器の大半を喪失して、羽化に失敗した芋虫さながらの有様であったとしても――彼らの生命線がぷつりと実際にこと切れるまでは天使が気に掛けてやる必要はない。
彼らの意識が混濁し、光を失くし、音を取りこぼし、次の一瞬が現世の土を舐める最後の一秒となったそのとき……初めて天使は彼らに視線を落とす。そして、彼らが完全に沈黙する様子を視界に納めると、また似たような境遇にある別の瀕死者を探す。その流れ作業の繰り返しであった。
故に、最も忙しい瞬間は、大爆発による即死者が多数発生する僅か数秒に過ぎない。アイシィはその数秒を華夏管轄所属の数少ない天使たちと手分けして担当し、そこからの一時間あまりをついでの親切心から手伝った。そうして死者が湧き上がるピークタイムを過ごし、これ以上の手伝いが不要であると判断できた段階で、彼女は華夏管轄統括長に一言挨拶を残した後、元の所属である極東管轄へと引き返すことに決めたのである。
……とりあえずアイツに報告して、そうだなぁ、今日はもうさっさと寝たい気分。
はしたない大欠伸を時折交えながら、延々の大地の上を一人、アイシィはゆっくりと歩いて帰路へとついていた。
先の手伝いについてドラグヘッドに報告し、後は延々の大地に潜って退屈な一日が終わる……アイシィはそう考えていたのだが……
「――……また、出張?」
「意外だな。不服か」
「いやいや。出張そのものに関しては歓迎するけどさ。お相手の身の上についてもう一回、教えてよ」
極東管轄本部にて業務報告を済ませた後、ドラグヘッドから与えられた次なる仕事について耳にしたことでアイシィは質した。対象となる人間の氏名にも、年齢にも、寿命供給ラインを停止された理由にも、思い当たる部分があったが為だ。
「有國翔。三十九歳。男性。『強い自殺願望による寿命定着率の機能不全により』寿命供給ラインを停止。寿命収束時刻、八月二十二日十二時四十五分十三秒」
「私の勘違いじゃあなければさ、既に一度会ったことがあると思うんだよね」
「その通りだ」
「それもつい最近……三日くらい前に降りたような気がするんだけど」
「案ずるな。お前の記憶違いではない」
「あぁ、良かった。それじゃあ聞きたいことはあとひとつだけ」
どうして同じ人間の元へ二度も降りねばならないのか。
アイシィに残された疑問はその一点であった。
出張の目的は、これ以上の寿命を受け取れなくなったという事実を対象者へと伝えることである。そうすることによって余命について改めて向き合わせ、彼らの残り僅かな生におけるクオリティ・オブ・ライフの向上に貢献する……というのは表向きの糖衣に過ぎない。
本質は、対象者へと本来配られるはずの寿命を一方的に停止するという行為に対する贖罪であり、言ってみれば天界側における自己満足であった。
だが、それ故に出張の意義は大きい。せめてもの罪滅ぼしを行ったという事実さえあれば――その行為を対象者がどのようなものとして受け止めようとも――寿命供給ラインの停止を進言した天使は罪悪感に苛まれずに、今日もぐっすりと延々の大地に潜って眠ることができる。
アイシィが危惧したのはどこぞの誰かから依頼された罪滅ぼしの代役が十分に果たせなかったのではないかという部分であった。「あなたの寿命は減る一方になった」という意味合いを確かに言葉にしたはずだが、何らかの不手際や説明足らずによって対象者へと正しく伝わっていなかったのではないか……そのように心配したのである。
だが、憂慮はドラグヘッドによって直ちに解消された。彼曰く、「前回の出張内容に大きな問題はない」とのことであり、アイシィは安堵する反面、それならば尚の事何故という疑問が内心を占めた。
「寿命の流入量そのものを増やすことはできないが、天使が介入することでその人間の寿命定着率は大きく変動する」
「アンタと私は同い歳なんだけどなぁ。工場の木陰で手を繋いで生まれた日のこと、もう忘れちゃった感じ?」
「お前は座学で寝てばかりだったろう。念のための確認だ」
「はいはい。それじゃあ続きをどーぞ、インテリさん」
「人間の自殺を取り止めることに越したことはない」
「そりゃあそうかもしれないけどさ。あの人間の決意は相当強いと思うよ。直に話したけどさ、ガッチガチのガチで死を求めている気がするんだよね」
「寿命定着率を完全に止めるだけの意思があるのだから無論、そうであろう」
「そんな人間に構ってあげる必要なんてある?」
「だからこそ、だ。あの対象者の肉体面はいたって健康だ。自殺願望さえなりを潜めれば、寿命定着率は速やかに平均かそれ以上までに回復するだろう。そうなれば、あの男が現時点で蓄えている余命も無駄にはならずに済む」
故にもう一度接触するべきだと、ドラグヘッドは総括した。
一方、アイシィの疑問が完全に払拭されたとは言い難かった。
自決を阻止して損はない……確かにそれは事実ではあるが、今更感もあった。
死にたいやつは死なせてやれ……
そいつに配分されるはずだった寿命はその他大勢の血肉としよう……
工場に勤める天使たちはそのようなポリシーに準じているがためだ。
この方針は昨日今日の内に定まったものではない。地上をひしめく人間の総数が増え始めた頃からの慣習であり、彼らと比して頭数の少ない天使たち個々人の負担を軽減する策としての側面も持つ。心を病んだ人間一人ひとりをカウンセリングしてまで彼らの寿命定着率を伸ばすなど、どう見繕っても費やす労力にリターンが釣り合わないのである。
加えて、それ以前の話だが、天使の介入による寿命定着率の変動は必ずしもプラスに働くワケではない。その人間が生への執着を強く持ち直せば定着率は改善されるだろうが、逆もまた在り得る。彼らが事故や事件へと巻き込まれるよう誘導して怪我などさせる例が最たるものだ。極端な話、その天使が人間に手を上げることも考えられる。とは言え、天使が人間に直接危害を加えることは禁忌に該当する……意図的に犯すとは考え難いが、可能性としては考慮しておかなくてはならないだろう。
現行のポリシーに反する提案をドラグヘッドがしたことにアイシィは引っ掛かりを感じていた。加えて、彼の提案は随分と都合の良いところだけを拾い上げているようにも捉えられる。FBU統括長として数少ない手駒を日々やりくりするドラグヘッドがこのような非効率的な理想論へと唐突に傾いたことに関して、アイシィはふつりと湧いた彼への呆れと同程度には心配も抱いたのである。
「アンタもいい歳だからね。いつか老害らしさが手に負えなくなったとしても私は生暖かい味方でいてあげるよ」
「同じ歳なんだろう。我が振りを直すための試金石となってやる」
「生憎、私は全部が捻くれていてね。真っ直ぐなところがないから直しようもないワケ」
「自覚できているだけマシか。まぁいい、とにかく今回の出張もお前に任せるぞ」
「何でもいいけど、今からってのは時間帯が半端だね。それに今日はもう疲れたよ。退屈だったから辞世の句の聴き比べでもしようかと思ったけど、あの国は方言が入り混じってるせいで追うのも大変だったし」
「あぁ、降りるのは明日で構わない」
「I see」
「……先に言っておくが、その返事はおそらく定着しまい」
「バリスタにもそう言われたよ、悲しいねぇ……――」
2
極東管轄本部とも、悪友たちとの雑居とも、工場の木陰とも離れた、人気のない閑静な一か所にてアイシィは延々の大地に背中を付けて横たわっていた。
夜の空には星が満ち、そのどれもが手のひらに収まりそうなまでに近くとも、どれだけ腕を伸ばしても足りないまでに遠くとも感じられる。若い頃は手を伸ばして星々に指先が触れるかどうかドラグヘッドと共に実際に試みたりもしたものだが、今となっては重力に逆らうことすらも億劫となってしまったと、眩い暗闇の底でまどろみながらアイシィは独り、時の流れにたゆたっていた。
――……目を閉じると赤が迫ってくる。
鮮血ではなく、酸素を使い果たしたどす黒い静脈血の奔流。
ぼたりぼたりと瓦礫から溢れ、飛沫の痕を地面に刻む、命の残滓。
染みは瞼の裏を次第に埋め尽くし、視界を赤黒い一色へと飲み込んでいく……――
ぱちりと目を開くと満天の星が変わらず広がっているものの、背景に塗られた虚空には先の赤黒さが重なって見えて、瞼を閉じる前よりかは幾分汚らわしさが滲む。再びかざした掌で暗闇を遮るも、いつまでも腕を高く上げ続けることはできない。やがて疲れた腕は自然に下がり、ぼすっと音を立てて延々の大地に沈んだ。
……あぁ、今日はまるでダメな日じゃあないか。
アイシィは仰向けの姿勢からごろりと身を反転させ、身体の側面を下へと向けた。黒い空は視界から外れたものの、今度は延々の大地の薄桃色が目の前に広がり、赤い染みが思い起こされてしまう。
こういった日がアイシィには極稀にあった。何の気なしに流した仕事の光景が、頭の奥で反芻されて眠れない夜。翌日には何事もなかったかのように晴れやかな朝を迎えることができるが、明日へ至るための睡眠へと上手く辿り着けないが為に、もやもやとした窮屈感が胸に詰まって煩わしい。早く眠ってしまいたいと強く望むほどに光景のぶり返しを意識してしまい、一向に精神が休まらない。
ごろりと、アイシィは反対側へと身体の正面を転がした。その運動によって鬱陶しさの綿が胸から外れてどこかへ行ってはくれまいかと期待したが相変わらずであり、代わりに無意識の溜息がひとつ抜けた。
「――……あのぅ……先輩?」
アイシィの枕もと――もっとも、ただの延々の大地の起伏と言った方が近しいが――にはチエルが屈んでいた。時間帯による暗がりと、中途半端な眠気によって、いつからか来訪していた彼女の存在にアイシィは全く気が付いていなかった。
「……おや、ちびちゃん。本日の研修はもう終わったのかな」
「はい。今日一日、バリスタ先輩のお仕事にご一緒しました」
「へぇ。アイツと同伴となればそりゃあまた、結構刺激的な内容だったんじゃあないの」
「そう、ですね……とっても、かなり、すっごく……赤色の現場ばかりでした」
一日を振り返ったチエルの二の腕はぷつぷつと粟立っていた。血液恐怖症の彼女にとっては、バリスタのもとへと届けられる代行依頼の惨状は鳥肌を誘うに十分過ぎるものであったに違いない。
右手の五指を左手で包むように握り込み、チエルが今一度身震いした。両肩に引っ掛けていた毛布がずれて少し滑り落ちる。その反応からアイシィには、チエルが今日見てきた幾つかの光景の中でどのような類のものを特に引きずっているのかおおよそ予想ができた。
稼働中の機械への巻き込まれ……おそらくは作業着の袖か何かが不注意によって垂れ下がり、対象者は右腕から一瞬の内に身体の半分近くまでを吸い込まれたのではないか……アイシィがそう尋ねると、チエルは静かに二度頷いた。
「即死だった?」
「いいえ、機械はすぐに止まったので。でも、身体の右半分が、その……なくなっていて……寿命収束予定時刻は救急車が到着する少し前くらいでした」
「そりゃあまた、運が悪いことで。そのテの類は私も何度か看取ったことがあるけどさ、見てくれの痛々しさで言えば髪の毛から巻き込まれるやつが一番かな。まぁ、意外とよく起きるんだけどね。なまじ毛髪が簡単にはちぎれないから逃げられずに、頭の皮からメリメリめりッて持って行かれるんだよ……おっと」
アイシィの話を最後まで聞くより先にチエルは防御態勢に入っていた。腰を地面に下ろして三角座りとなり、頭頂部から膝頭までを毛布でぐうっと包み込んで小さくなっている。
アイシィは横たわった姿勢のまま、チエルの頭を毛布越しに二、三度撫でた。暫くすると震えは目立たなくなり始め、研修中の小さな天使はそろりそろりと面を上げられるくらいには回復したようである。
「それで、えぇっと、何だっけ……そうそう、こんな夜更けに何か用事でもあったのかな」
「独りだと震えて眠れなくって、ここに来ちゃいました。今日のお仕事の光景と、あと……さっきのお話で」
「あぁあ、ゴメンよ。怖がらせるつもりはなかったんだけど」
「いえ、いいんです。大丈夫、です……」
「お詫びと言っちゃあなんだけど、今夜は腕の片方を貸してあげよう。どうだろう、それで手打ちとはいかんかね」
アイシィの提案にチエルは大層満足したらしく、曇っていた表情をぱあっと明るいものへと晴れさせた。
チエルが並んで横になり、アイシィの片腕を胸の前で抱くように引き寄せる。アイシィの腕は――腕だけではなく、彼女の全体に言えることだが――氷の翼が影響を及ぼしているためか人間や天使の平熱と比してどれだけか冷ややかなものであったが、チエルには全く気にする様子がうかがえない。
「ちびちゃんはさ、どうして私なんかを気に入っているワケなの?」
アイシィは先に話題を切り出した。
チエルが口をもたつかせている様子から、彼女が何か話したがっている様子であることに気が付いていた。このまま話しかけられる時を待ってもいいが、ここは先輩である自分から切り出してあげた方が気楽な会話となるだろう……そのような、ひねくれ者なりの親切心であった。
突然の機会に驚いたのであろうか、チエルは暫く無言でいたが、やがて回答の順番を気にしながらのように口を開いた。
「えっと、私の名付け親はFBUに所属していたことがあるんです」
「へぇ、それは初耳。その上級天使の名前は? もしかしたら私とも会ったことがあるかもね」
チエルは親にあたる上級天使の名を語ったが、アイシィは覚えがなかった。
曰く、チエルの母親役がFBUに所属していた時期は第二次世界大戦の終盤であるという。丁度、混迷を極める下界の醜態に愛想を尽かせたFBUの古参が離れ、地獄絵図への耐性を多少なりとも有する天使を急遽募集しては研修無しで即座に仕事を与える……そのような自転車操業の只中であった。
顔見知りが次々と抜け、それと同数の新入りが――彼女たちの上司の説得による半ば強引な推薦によって――訪れる。その新入りが三日持てば「今回の子はよく仕事を頑張った」と評価された。それほどまでに苛烈な状況のどこかでチエルの母親役もFBUに配属されていたようだが、やはりアイシィの記憶は朧気であった。
それもまた致し方無いと言える。聞けば、チエルの親代わりの上級天使が――当時はまだ昇格前だが――FBUに所属していた期間は二週間程らしく、他の臨時募集たちと比べれば多少は長続きしていたようではあるが、最前線で目を酷使していたアイシィの印象に残るまでとは言えなかったためだ。
アイシィはもう暫くの間うんうんと唸って脳内を遡ってみたものの、関連事項の取っ掛かりがまるで見つかりそうになかったため、代わりに話の続きを促した。
「その繋がりでFBUのことについていろいろお話を聞いたんです。誰かの苦労を被る仕事が天界にもあるんだ、って。誰もやりたがらないけれど、誰にも必要とされる、そんな仕事だ、って」
「それで、ここに来たの」
「はい」
「こう言っちゃあ無礼かもしれないけどさ。ちびちゃんの親代わりの上級天使サマはどうにもグロ耐性がなかったみたいだけど、反対とかはされなかったの」
「されましたよ。すっっっ……ごく」
「だろうね」
「『精神衛生上、全く良くない』とか、『長居すればまともではいられなくなる』とか、
『周りの子に距離を置かれることになる』とか……」
「こりゃ驚いた、修正する部分が見当たらない百点満点のご意見だよ」
「でも、最後は納得してくれました」
「そのコールド負け寸前の最低評価から逆転した決め手を知りたいかな」
チエルはアイシィの腕を抱きかかえる力を強め、「この手です」と返した。
「散々反対していましたけど……ふっと当時のことを振り返って、考え方が少し変わったみたいなんです。極東管轄にはあの先輩天使がいたなぁ、って。その指導の下で研修を受ければどれだけか成長できるかもしれない、って。そう言っていました」
「……まさか、その天使とやらが私だって?」
文脈からしてそうとしか捉えることができなかったが、アイシィは聞き返さずにはいられなかった。
自分は単に仕事をこなしていただけに過ぎない……
激務であったがために必然的にがむしゃらではあったが……
やるべきことをただ淡々と成しただけだと……
アイシィの中では己のかつての仕事ぶりはその程度のものであった。
だが、チエルの名付け親の目にはアイシィの姿勢が、取り組みが、活躍が……終戦から九十年以上が経った今でもありありと思い起こされ、便宜的な娘であるチエルを送り出す決め手と成り得るまでには上等なものとして映っていたらしい。
チエルの名付け親の――そして、僅かな期間ではあれど共にFBUで働いた後輩の――名を覚えていないことをアイシィは歯がゆく思い、申し訳なさを感じた。そして、血液恐怖症の難を有しながらも、それを補わんとするまでに志高く将来性のあるチエルをFBUへと預けてくれたことに関する感謝もまた向けるに至った。
「実際に会ってみて、どうよ。幻滅したりとかしなかったかな」
「まさか、そんな……でも実は、最初だけはほんのちょっとだけ近寄り難かったかも、です」
「ちびちゃんはホントに良い子だね。正直者は得をするよ」
「でも、でもっ! 今は全然そんなことないですっ! お仕事にご一緒して、FBU方式の座学の面倒を見てもらって……遠目からだけじゃあ分からないことを知ることができましたし」
「多少はマシな天使になれたみたいで嬉しいよ」
「なので、その、もっとアイシィ先輩のことが知りたいんです」
チエルが聞こうか迷っていたのはこのことかと、アイシィには合点が付いた。
「ちびちゃんのことを聞かせてもらえたし、私に聞きたいことがあれば何なりと」
「はい! えっと、えぇっと……!」
「焦らなくても夜は長いよ。寝落ちするまで付き合ってあげるからさ」
「それじゃあ、その、苦手なものって何かありますか」
「猫かな。結構前の出張の時に野良猫と遊んだことがあるんだけど、お腹を撫でたら思いっきり引っ掻かれたんだよね。それ以来、人間界に降りても怖くて近寄れないの」
「そうなんですか……いや、その話も興味深いですけど、そうじゃあなくて、死因についてです」
「死因、ねぇ」
「ドラグヘッド統括長が割り当てに悩んだ仕事は殆ど全部アイシィ先輩が引き受けているじゃあないですか。そういった何でも屋さんみたいに頼られるように私もなりたいですけど、こればっかりは慣れないなぁ……っていうケースとか、あったりするんですか」
ひとつだけある、とアイシィは返した。
その直後の一瞬、誰の目にも見過ごされたとしてもおかしくはない程度に右腕が強張った。アイシィがちらと視線をチエルへと落とすと、彼女は腕を強く抱きしめていたためであろうか、先の「らしくない」反応に気が付いているようであった。
うぅんと少し考えた後、アイシィは直接的な解答から外れた部分に焦点を当てて話を続けた。
「ちびちゃんは二度目の世界大戦の頃がどんな様子だったかを聞いたことはあるかな」
「FBUについて調べた時に少しだけ。人間界が過去一、二を競うくらいにはどうしようもない頃だった、って」
「丁度、天界にもどうしようもないヤツがいたんだよね」
「どうしようもない天使、ですか……?」
「自己中心的で、何を考えているのかイマイチよく分からなくて、人間の死にザマを面白半分に見物する頭のネジが外れた天使だってさ」
「そんな変わり者の天使が、昔はいたんですか」
「まぁ、今もいるんだけどね」
「きっと気難しい方なんでしょうね。貴重なお話を聞けるかもしれないですけど、会うのはご遠慮したいです……」
「残念、もう目の前にいるし、お話の真っ最中」
「……えっ?」
*
――……遡ること九十年。西暦1945年の八月。
人間界全土を盤面とした壮大な陣取りゲームの戦局は大半が決しており、そう遠くないうちに終戦が訪れるであろうという見立てが天界では広まっていた。
この馬鹿げた命の無駄遣いもじきに終わる……一度銃声が鳴り止めば次の発砲まではさすがにそれなりの期間があるだろう……その落ち着きまでもう暫くの辛抱だと……FBU極東管轄へと急遽呼び寄せられた臨時の一般天使と、元から所属していた残り少ない古参の天使は、ある程度の裏付けによる希望的観測を頼りに日々の業務に取り組んでいた。
そのような折、八月二日のことであった。
……『野戦命令十三号の正式発令有り、極東管轄は最大限の用意を心掛けよ』
FBU米国管轄瓜姆支部――まだこの段階では各FBUには支部を組んで役割分担できる規模が辛うじて残されていた――より、極東管轄中央本部へと転送された人間界の動向についての一報……これが太平洋戦争の終止符となると同時に、天界中のFBUの存亡をも決定づけたと言える。
ウラニウムと呼ばれる原子を用いた革新的兵器の実戦投入が確実なものとなった瞬間、その地の運命は定まった。
予備を含めた爆撃地点候補の存在や当日の気象状況などは被害規模に関する不確定因子には成り得ない。人間の寿命定着率を左右するものは天使の直接介入を除けば唯一、同じく人間の意思による決定のみであり、その変動は誰かが意図的に操れるものではない。下界に生きる者にとっては寿命定着率の概念など理解できるものではなく、全てが結果論として扱われるためである。
「偶然にも」原子爆弾が開発され……
「偶然にも」候補地が幾つか選定され……
「偶然にも」その内のひとつが当日の状況によって選ばれ……
「偶然にも」想定通りに起爆が成功したと……人の目にはそのように映る。
だが、天界に住む者の瞳にはそうは映らない。
その地に生きる者たちの寿命は以前から、それこそ戦争が始まるよりも前から、全てが予定通りに収束へと向かっていた。当時の天使たちが分からなかったのは、彼らのそれぞれが「いつ死ぬのか」ではなく、「何によって死ぬのか」である。
だが、野戦命令十三号の発令によって彼らに割り当てられた最期について明らかになると、FBU極東本部にて業務に勤しむ天使たちは皆、一様に困惑した。
人間が開発した全く新しい兵器による被害がどれ程のものになるのか……如何なる死に際となるのか……当の新兵器そのものを開発した科学者たちが予想できなかったことと同様、彼女たちにもまた想像ができなかった。
確実なことは、その一撃によって万を超える命が消える……それだけだった。
得体の知れぬ現場の第一目撃者にはなりたくない……天使の離脱に歯止めがかからなくなったのは必然であった。極東管轄本部長であるドラグヘッドには離れ行く彼女たちを引き留めることができなかった。数日後に地上で起こる未曾有の大惨事について、純粋無垢な天使たちを無理に立会人に置いて直視させるなど、そのような横暴と無責任に彼自身が耐えられなかったようである。
それでも離れなかった者はいた。僅かな数となったFBU古参と、覚悟を決めた極少数の臨時募集たち。彼女たちをどのように分配して一大局面を乗り切ればよいのか――特に、例の大虐殺の場は誰に任せればよいのか――ドラグヘッドはかなり苦悩したようだが、背中を後押しする天使がいた。
それが彼の同期でもあるアイシィであった。負担を背負わせる天使の選定に心を病みかけていたドラグヘッドを案じた彼女は自ら、地上初の惨事を全面的に引き受けると進言したのである。
とは言えど、アイシィとて一度に視界に収めることができる範囲は限られている。爆死の現場を集中的に請け負うために極東管轄の各支部を転々としていた悪友であるバリスタを一時的に呼び戻し、二人は歴史に永久と刻まれる瞬間を待った。
来る、1945年、八月六日。
下界はあまりに惨く、筆舌に尽くしがたいものではあったが……アイシィは黒い雨の下で焼け爛れた光景をその目に収め続けた。その二日後に野戦命令十七号が発令され、二発目の核兵器の使用が現実のものとなったが、やはり彼女は同様にして天界の難局を耐え凌ぐことに大いに貢献した。
アイシィはどうしても「目が足りない」瞬間だけをバリスタと分担し、それ以降の命の消失現場は一身に預かった。そうでもしなければ極東管轄が担当する範囲全てに手が回らないまでにFBU所属天使の絶対数が不足していたためである。
命を駒とした陣取りゲームの終焉は一か月後、人間界の船の上で約束された。数千万の犠牲に捧ぐ幕引きが紙切れに署名するだけで成立する安っぽいものであったことに天界は大いに呆れ、この調子であれば同じことを何度繰り返しても仕方がないと再認識したのは言うまでもない。
有史より遥か以前から人類を眺め続けた数百万年において、最も天界に負担のかかった一連の騒動に関する評価は散々なもので一致した。
のみならず、ひいてはこの一件を支えた功労者たちへと向けられる視線までもが変化していた。
それまでは一定の敬意が確かに含まれていたFBUへの評価であったが、人間界で引き起こされた過ちに付随する悪評が、同時期に名を馳せたFBUへの漠然とした不安や恐怖へと――これ以上ないまでのとばっちりではあるが――転化したのである。
終戦後、天界各地では様々な噂が飛び交った。そこにはFBUに関するものも当然含まれていたが、天使から向けられる奇異の見方が強まるにつれて内容も次第に湾曲し、時と共に歪な形になり始めた。
その中でとりわけ原型を留めなかったものが次である。
……『FBU極東管轄には、人間が消し炭になる様子を好んで眺め続ける、頭のネジが外れた天使がいるらしい』、と……――
*
「――……ここにいるのは頭のネジが外れた天使じゃあないです」
「それは圧倒的少数派の意見だね」
「だって、オカシイですよ。アイシィ先輩は皆が投げ捨てた仕事を引き受けて、しっかり全部見届けて、それなのに……どうしてヒかれなきゃいけないんですか」
右腕は先とは別種の圧によって強く抱かれており、アイシィはチエルの内心を薄らと推測した。失望、同情、憐憫、そして、憤激……年若さに溢れるチエルの内面を今、渦巻いて荒立たせている感情は概ねこういったところであろう。
そう分析するアイシィの内面は対照的に真っ平であった。
「そういった話を耳にするたびに、訂正とかはしなかったんですか」
「私の休暇が増えるんだったら、そうしてもよかったかもね」
「でも、だって、それだとずうっと勘違いされたままじゃあないですか」
「顔も知らない誰かに勘違いされてもって感じ。それに、あながち間違ってもいないしさ」
「どこがです」
「あの日、あの現場を、あの命が溶けゆく様子を目に焼き付けてから……俯瞰しなきゃやってられなくなったんだよ。『これはビデオゲームのカットシーンなんだ』って。『ゲームなら見所のひとつくらいあるかもしれないからとにかく前向きに』って」
「…………」
「おかげでそれなりに生きやすくなったよ。ゲーム感覚なら退屈を少しは紛らわせる材料にもなるし、仕事内容の向き不向きも殆どなくなって幅広く受け入れられるようになった。でも、急性放射線被曝で骨が、内臓が、溶けて咽び苦しむような人間の最期は……もうお腹一杯。だから、それ関係の仕事だけは、今はタムに任せてるよ」
「…………」
「さて……以上が苦手な死因は何かって質問への回答と、選り好みしない働き者の天使に成るための秘訣」
アイシィは「幻滅した?」と尋ねた。
これもまた「らしくない」問いかけだったと、声に出してからアイシィは顧みた。平静でいたつもりの裏に燻る気の落ちようが、己にも分かる程度には声音に含まれていたからであり、余計な一言だったかと後悔した。
夜が最も深みに至り、質問の答えが返ってこないままに話が自然消滅する直前、「嫌いになんてなりませんよ」とだけチエルから返答があった。
その返事から、やはり「らしくない」安堵を受け取り、アイシィはチエルを抱き寄せて眠りについた。




