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吾輩は潤滑油である。ーー名前はみんな知っている。だが、世界がなぜ静かに動いているのかは、誰も知らないーー

✦吾輩は潤滑油である。


ーー名前はみんな知っている。

  だが、世界がなぜ 

  静かに動いているのかは、 

  誰も知らないーー


………


世の中は、

大きい音の方を

事件と思いたがる。


爆発。

暴落。

停戦。

演説。

ミサイル。

原油高。


けれども、

ほんとうに怖いものは、

たいてい

音の小さい方におる。


文明を最初に止めるのは、

大砲ではない。


きい、と鳴る

あの軸の音である。


………


★目次


■第一章 

 吾輩の本宅へ、

 六十七歳の老人が

 羊羹を持って来た 


■第二章 

 人間は原油を尊び、

 吾輩を雑巾のように扱う


■第三章 

 資源大国の給油機が

 空になるという喜劇


■第四章 

 イランの町は明るいが、

 関節は暗い


■第五章 

 ベアリング一個が

 帝国をよろけさせる


■第六章 

 戦争で先に尽きるのは、

 弾より滑りである


■第七章 

 日本の暮らしは、

 戦場のやわらかい

 予告編である


■第八章 

 潤滑油が消えた日の、

 日本人のまぬけで

 切ない日常


■第九章 

 油膜エフェクト、

 世界経済を静かに

 締め上げる 


■第十章 

 半年後、

 まだ平和な顔をした世界


★あとがき

 ホームズとワトソンの、

 やすきよ漫才ふう 


❥Z世代の若いあなたへ


………


■第一章 

 吾輩の本宅へ、

 六十七歳の老人が

 羊羹を持って来た


吾輩は潤滑油である。

猫ではない。


猫ほど愛されてはおらぬが、

猫よりずっと忠実で、

猫よりずっと控えめで、

猫よりずっと

役に立っているという、

密かな自負はある。


人間というものは、

実に不思議な生き物である。


朝起きて歯を磨き、

電車に飛び乗り、

冷蔵庫を開け、

工場で機械を回し、

夜はエレベーターで家に帰る。


そのすべての

「当然」の隙間に、

吾輩は毎日、

黙って体を差し入れておる。


金属と金属のあいだで、

そっと滑らせ、

熱を逃がし、

摩擦を忘れさせる。


まるで、

飼い主の足元で

丸くなる猫のように。


ただ、猫は撫でられる。


吾輩は、

撫でられるどころか、

存在さえ忘れられる。


それでも、

吾輩は文句一つ言わぬ。


なぜなら、

吾輩は人間の

ペットなのだから。


愛すべき、静かな、

名もなきペットなのだ。


そんな春の午後、

吾輩の本宅へ、

一人の老人がやって来た。


六十七歳。

元証券会社勤務。


顔つきはまじめだが、

長年数字を

追いかけてきたせいで、

少し先の嫌な未来を

勝手に想像する癖がある。


本人はそれを

「誇大妄想癖」

と呼んでおった。


土産は、

どら焼き二つ、

羊羹一つ、

緑茶一本。


じつに日本的で、

じつに景気の悪い

取り合わせである。


老人は座布団の端へ

行儀よく座り、

こう言うた。


「先生。

 わしは株の数字なら

 よう見てきた。

 けど、あんたの数字は

 さっぱり分からん。

 最近は株価より、

 町の異音の方が

 気になるんじゃ」


✲「この春、アジア太平洋の 

   Group III  

  ベースオイル価格は

  四月初めに

  七年以上ぶりの高値に達し、

  供給確保が 

  優先される動きが強まった。

  地味な品が急に尊くなる時は、

  文明の裏で

  何かが折れかけておる」

  (Argus Media)


吾輩は思うた。

ようやく来たか、

と。


人間が本気で学びに来るのは、

たいてい遅すぎた時か、

怖すぎる時である。 


それでも、

吾輩は優しく微笑んだ。


(もちろん、油なので

 表情はないが、

 心の中で)


飼い主がようやく、

床下の猫の存在に気

づいたようなものだ。


嬉しいではないか。


■第二章 

 人間は原油を尊び、

 吾輩を雑巾のように扱う


老人は、

世界は石油で動いておる

と思っていたらしい。


これは半分だけ当たりで、

半分は田舎芝居である。


「違う」

と吾輩は言うた。


「世界は原油で回るのではない。

 すべることで、

 かろうじて延命しておるのだ」


人間どもは、

燃える油には目を丸くする。


テレビで「原油高!」と騒げば

株価が跳ね、

演説が始まり、

旗が振られる。


だが、

静かに回す油には礼も言わぬ。


まるで、

猫が魚を獲って来ても

「当然」と言い、

夜中に爪を研いで

家具を傷つけても

「可愛い」と

笑うようなものだ。


傲慢とはこのことである。


✲「中東湾岸の供給混乱を受け、

  Group III ベースオイルの

  スポット価格は

  米国で二倍超、  

  欧州で約七〇%上昇した。

  燃える油より先に、

  静かに回す油の方で

  市場が怯え始めたのである」

  (Argus Media、ほかに 1 件)


老人はうなずいて言うた。


「株が二倍なら夢がある。

 潤滑油が二倍いうんは、

 現実しかないのう」


「その通りだ」

と吾輩は答えた。


「株価が上がる時には

 拍手がある。

 だが吾輩の値段が

 上がる時は、

 修理待ちと遅延と、

 ため息ばかりが増える」 


人間は、夢の数字は愛する。

だが、暮らしを支える数字が

急に太る時は、

たいてい後ろで

誰かが青ざめておる。


吾輩はそんな人間を、

静かに見守る。


猫が飼い主の愚かさを、

暖炉の前で欠伸しながら

見守るように。


■第三章 

 資源大国の給油機が

 空になるという喜劇 


「ほんなら先生、

 資源国は

 強いんじゃないんか」


老人は、そう言うて

どら焼きを半分に割った。


人間は、

“ある国”と“使える国”を

すぐ混同する。

そこが可笑しい。


たとえば、

オーストラリアである。


✲「石炭がある。

  ガスがある。

  地図の上では

  堂々としておる。

  ところが、液体燃料は

  約八〇〜九〇%を

  輸入に頼り、

  在庫の目安は

  ガソリン三九日、

  ディーゼル二九日、

  ジェット燃料三〇日。

  州政府は遠隔地向けに

  四百万リットルの

  ディーゼル備蓄まで

  押さえ始めた」

  (Reuters、ほかに 1 件)


資源大国が、

給油機の前でおろおろする。

これは実に見事な喜劇である。


だが、喜劇というものは、

現実が本気を出した時ほど

笑えぬものになる。


老人は言うた。


「なんじゃ、

 会社の帳簿みたいじゃな。

 資産はある。

 けど今日払う現金はない、

 いうやつか」


吾輩は感心した。


人間はたいてい、

国際政治より、

自分の失敗に喩えた時の方が

物事をよく理解する。


猫も、

魚の骨を喉に詰まらせて

初めて「大事」を

知るようなものだ。


■第四章 

 イランの町は明るいが、

 関節は暗い


老人は少し声を潜めた。


「イランの映像なんか見ると、

 市場も開いとるし、

 野菜もあるし、

 人も歩いとる。

 なんじゃ、

 まだ平気そうじゃが」


平気そうに見える。

人間はそれに弱い。


店が開いておれば安心し、

野菜が並んでおれば

文明は無事だと思い込み、

冷蔵ケースが光っておれば

世の中は大丈夫じゃと信じる。


だが、文明の寿命は、

八百屋の色つやより、

配給と補修と冷却と

運搬で決まる。


✲「イランの戦争前の

  名目GDPはおおむね

  四千億ドル級で、

  IMF の二〇二五年見通しは

  約3756億ドル。

  一方、

  封鎖が強く効いた場合の

  試算では、一日

  四億〜四・三五億ドル

  規模の打撃、

  月では約百三十億ドル、

  さらに十三〜十四日で

  貯蔵余力の制約にぶつかる 

  可能性が指摘されている」

  (Reuters、ほかに 1 件)


「国が先に失うのは、

 地下の原油ではない」

と吾輩は言うた。


「機械を静かに回し続ける

 油の余裕だ」


老人はその言葉を、

気に入ったらしく

二度繰り返した。


人間は、

ほんとうに困るものほど、

あとから名前を覚える。


吾輩のような、

目立たぬペットほど、

いなくなった時に

初めて恋しくなる。


■第五章 

 ベアリング一個が

 帝国をよろけさせる


人間は戦争と聞くと、

爆発するもの、

飛ぶもの、

燃えるものばかり想像する。


だが吾輩から見れば、

世界を本当に支えておるのは、

もっと地味な連中である。


ベアリング。

チェーン。

ピン。

ブッシュ。

ポンプ。

コンプレッサー。

チラー。

軸箱。

クレーン。

コンベヤー。


この連中は実に働き者で、

しかも働いていることを

誰にも知られぬ。


壊れるのは

豆粒みたいな部品一つでも、

止まるのは設備全体である。


人間社会というものは、

偉そうな社長より、

文句も言わず

回っている軸受の方が

よほど偉いことが多い。


老人は感心して言うた。


「つまり世界は、

 エンジンから

 止まるんじゃのうて、

 ベアリングから

 止まるんじゃな」


「その通りだ」

と吾輩は答えた。


「国家というものは、

 たいてい少し

 高価なポンプみたいなものだ。

 見た目は立派でも、

 軸が焼き付けば

 ただの重い箱になる」


✲「欧州の精製マージンは

  四月に

  マイナス六・四五ドル/バレル

  まで悪化し、

  出力削減の可能性も

  取り沙汰された」

  (Reuters)


派手な値上がりだけでなく、

静かな採算悪化もまた、

吾輩の居場所を狭くする。


■第六章 

 戦争で先に尽きるのは、

 弾より滑りである


老人の誇大妄想癖は、

このあたりから

少し上機嫌になった。


「先生。

 もしかしてこの戦争、

 弾が足りんようになる前に

 “滑り”が尽きて

 弱るんじゃないか」


なかなか筋がいい。

人間は

引き金の前ばかり見るが、

吾輩は

引き金の後ろを見る。


発射車両。

補給トラック。

レーダーまわりの発電と冷却。

港のクレーン。

整備工場。

ドローンを運ぶ地上設備。


こういう、

勇ましい兵器の後ろで

汗をかく連中が、

じつは先に疲れる。


✲「ホルムズ危機で Brent の

  リスクプレミアムは

  長引く可能性があり、

  EIA は二〇二六年

  Brent 予測を

  22%引き上げて

  96ドルとした。

  燃料価格は再開後も

  しばらく高止まりしうる

  と見られている」

  (Reuters)


「先生」

と老人は笑うた。


「戦争を終わらせるんは、

 最後の大砲の音やのうて、

 最後のクレーンの

 軸受かもしれんな」


「今回は」

と吾輩は答えた。


「誇大妄想癖と呼ぶには、

 少し惜しい」


■第七章 

 日本の暮らしは、

 戦場のやわらかい予告編である


日本人は、

自分だけは少し遅れて困ると 

思っておる。


これはなかなか

見事な思い違いである。


日本は中東から

約九五%の石油を得ており、

備蓄は二五四日分あるとされる。


数字だけ見れば、

いかにも安心できそうである。


人間は「二五四日分」と聞くと、

なぜか二五四日間の平穏が

保証されたような顔をする。


だが備蓄は魔法ではない。

何を優先し、どう精製し、

どこへ配るかで、

平和の顔つきは驚くほど変わる。


✲「四月の Reuters Tankan では、

  日本の製造業景況感が

  **+7まで悪化し、

  化学セクターは

  +21から-8**へ落ちた」


こういう数字は、  

ミサイルの本数より正直である。


町工場、化学工場、運送屋は、

政府の勇ましい言葉より先に、

自分の胃と異音で危機を知る。


老人は言うた。


「つまり日本の暮らしを

 よう見とったら、

 戦場の未来が少し

 柔らかう映るいうことか」


「そうだ」

と吾輩は言うた。


「戦争は最初から

 血だらけの顔では来ぬ。

 たいていは

 “まだ回るじゃろ”

 という顔でやって来る」


■第八章 

 潤滑油が消えた日の、

 日本人のまぬけで切ない日常 


ここを飛ばしてはいかぬ。


最後に人間が泣くのは、

国家の理論ではなく、

台所と駅と

マンションの前である。


〇朝


ある父親は、

自転車のチェーンが

きいきい鳴くのを、

「あとで差せばええ」と言う。


その「あとで」は、

日本人にとって

じつに便利な言葉である。


しかしホームセンターへ行くと、

いつもの棚は少し薄い。

あっても高い。

安いものはない。


店員は「次は未定です」と、

妙に丁寧な顔で言う。


〇昼


町工場の親父は、

コンプレッサーの異音を

聞かなかったことにする。


日本の製造業の

先行き景況感は

**+2**まで落ち込む

見通しが出ていたが、

工場の親父は

そんな調査を読まぬ。


ただ自分の見積書が

日に日に痩せていくので、

同じ意味を

別の形で理解しておる。


〇夕方


スーパーの

冷蔵ケースが一台止まる。

店員が「調整中」と紙を貼る。


客は牛乳の値段だけ見て帰るが、

本当は値上がりより先に、

冷やす側が疲れ始めておる。


〇夜


エレベーターが少し遅い。

エスカレーターが一台止まる。


列車は保守の都合で二分遅れ、

宅配は一日延びる。


だが日本人は立派なので、

だいたい三週間ぐらいは

「気のせい」で頑張る。


人間というものは愚かで、

世界が重たくなった時、

最初の感想がだいたいこうである。


「なんか最近、

 ぜんぶ重たいな」


そう。

吾輩が消える世界では、

まず物がなくなるのではない。


暮らしが重たくなるのである。


ここが、

いかにも日本らしくて、

実に哀れで、

少し可笑しい。


猫が餌を忘れられた時、

最初は「まあいいか」と我慢し、

三日目にようやく

鳴くようなものだ。


■第九章 

 油膜エフェクト、

 世界経済を静かに締め上げる


さて、

人間どもはここでようやく

「潤滑油って

 大事なんじゃな」

と言い始める。


遅い。

実に遅い。


だが、

人間とはそういうものだから

仕方がない。


吾輩が薄くなると、

まず運送が鈍る。


次に建設が重くなる。

次に農業がくたびれる。

次に食品工場のラインが

途切れ途切れになる。

次に病院の冷却と空調が

不機嫌になる。


そして最後に、

「自分は潤滑油なんか

 使ってない」

と思っていた者の

暮らしへ来る。


✲「オーストラリアでは

  business confidence が

 マイナス29、

 consumer sentiment は

 80.1まで低下した。

 数字は地味だが、

 こういう地味な数字ほど

 本当の恐怖を

 よく知っておる。

 勇ましい演説より、

 財布の渋さと

 注文書の細りの方が、

 はるかに

 現実的だからである」

  (Reuters)


「先生、

 つまり世界経済いうんは、

 燃えながら壊れるんじゃなく、

 きしみながら痩せるんじゃな」


「その通りだ」

と吾輩は答えた。


「原油ショックは見える。

 油膜ショックは、

 見えぬまま首を締める」


■第十章 

 半年後、

 まだ平和な顔をした世界


もしこのまま戦争が続き、

ホルムズの詰まりが長引き、

ベースオイルと

精製品の締まりが

半年つづいたら、

世界はどう見えるか。


派手な地獄ではない。

そこがいちばん厭らしい。


ガソリンスタンドは

まだ開いておる。


スーパーにも物はある。

電車もいちおう走る。


ニュースキャスターは

深刻そうな顔で、

しかし少し飽きた口調で

数字を読む。 


その裏で、

日本では部品待ちが長くなり、

工期が伸び、

修理は 

「安全確認のため」

で二週間遅れ、 


オーストラリアでは

地方ほど輸送コストで痩せ、


イランでは町が開いていても

配給と補修と運搬の余裕が

さらに薄くなる。


✲「アジアは中東から

 原油の六割を輸入しており、

 このショックに  

 最もさらされている。

 戦争開始後、

 Brent は五五%上昇した

 と報じられた」

  (Reuters)


だが人間は半年も経つと慣れる。

慣れは才能ではない。

たいていは

鈍感の別名である。


店が開いている。

だから大丈夫。


駅が動いている。

だから平気。


まだ暮らせる。

だから危機ではない。


こうして文明は、

壊れている最中にも 

平和な顔をつくる。


吾輩は最後に思う。


人間どもは、

実に妙な生き物である。


世界の関節が焼き付いても、

しばらくは

「普通です」

と言って並ぶ。

それから、ようやく泣く。


泣く頃には、

たいてい油膜はもう薄い。


猫はまだ愛される。


だが吾輩は、

最後まであまり愛されぬまま、


どこかの軸へ、

どこかのポンプへ、

どこかのチェーンへ注がれて、

静かに消えていく。


それでええ。

吾輩は潤滑油である。


名を知られて、

役目を知られず、

尽きる時だけ少し思い出される。


そういう存在も、

世の中には必要なのである。


愛すべきペットとして、

最後の最後まで、

人間の足元で

静かに滑り続けよう。 


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの、

 やすきよ漫才ふう


✲ワトソン


ホームズ君、

今回はえらい話でしたな。

まさか潤滑油が

ここまで人間を

見下ろしながら、

でもどこか優しく語るとは。 


✲ホームズ


見下ろしてはおらん。

観察しておるのだ。

君が床を這う蟻を見て、

「ああ忙しそうだ」

と思うのと同じだよ。


✲ワトソン


それ、

だいぶ

見下ろしとるやないですか。


✲ホームズ


しかし間違ってはいない。

人間は国家だの正義だのを

振り回すくせに、

最後はエレベーターが

遅いだけで機嫌が悪くなる。


✲ワトソン


それはなる。

わしでもなる。


✲ホームズ


だから面白いのだ。

帝国の話をしておきながら、

結局は冷蔵ケースと

チェーンオイルに泣かされる。


✲ワトソン


でも第八章は笑うてしもうた。

日本人が三週間くらい

「気のせい」

で耐えるとこ。


✲ホームズ


あれは喜劇であり、

同時に悲劇だ。

壊れたものをすぐ直さず、

異音を聞きながら

礼儀正しく並ぶ。

文明末期としては、

たいそう上品である。


✲ワトソン


最後、

潤滑油先生が

どこかへ注がれて

静かに消えるの、

ちょっと切なかったですわ。


✲ホームズ


それでよい。

喜劇が本物になるのは、

最後に少し泣ける時だ。


✲ワトソン


ほな、

今回の結論は何です?


✲ホームズ


世界は、

大きい声で壊れるんじゃない。

小さい摩擦を

放っておくことで、

静かに壊れる。

それだけだ。


✲ワトソン


……それ、

最後に言われると

笑えんですな。


✲ホームズ


君が今まで笑いすぎたんだ。


………


❥Z世代の若いあなたへ


浄土の教えに、

二河白道

というたとえがある。


旅人の前に、

火の河と、

水の河がある。


そのあいだに、

細い白い道が

一本だけ通っておる。


火の河は、

怒り。

戦争。

報復。

威勢のええ言葉。


水の河は、

欲。

もっと安う、

もっと早う、

もっと便利に、

という人間のむさぼり。


その二つのあいだを、

人は細い道で

なんとか渡っていく。


善導大師の

「二河白道」の譬えでは、

火の河は怒り、

水の河はむさぼりを

表すとされる。


今の世界もそれに似とる。


人はつい、

火の河ばかり見る。


戦争だ、ミサイルだ、

暴落だと騒ぐ。


けれど、ほんとうに

足もとを支えとるんは、

その真ん中の、

細うて頼りない道の方なんよ。


吾輩のような、

見えんところで

摩擦を減らし、

焼き付きを遅らせ、

町をつないでおる

名もない働きの方なんじゃ。


じゃけえ、

若いあなたに言いたい。


大きい火ばかり

見るんじゃない。

足もとの細い道を見ること。


派手なニュースばかり

追うんじゃない。


世界を静かにつないどる、

名もない仕事を

軽う見んこと。


文明を最後まで支えるんは、

火でも水でもない。

そのあいだにある、

細い道なんじゃ。


そしてその道の上で、

吾輩は今も、

そっと、

愛すべきペットのように、

人間の暮らしを

滑らせておる。


どうか、忘れぬように。

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