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『令和版・Exit, Voice, and Loyalty』 ――誰を、助ける。――

✦『令和版・Exit, Voice, and Loyalty』


――誰を、助ける。――


………


二〇二六年八月。


兄は夕食を食べながら、

テレビのニュースを見ていた。


イギリスでは、

十六歳から二十四歳までの若者のうち、

学校にも行かず、

働いてもおらず、

職業訓練も受けていない人が

九十八万一千人。

割合にすると

十三・〇%に達しているという。


「こういう若い人を、

 ちゃんと社会に

 戻してやらないとな」


兄は本気でそう思っていた。


働けるなら働いた方がいい。

自分で給料を稼ぎ、結婚し、

子どもを育て、家を買い、

少しずつ財産を作っていく。


それが人間にとって、

一番安心できる生き方だと

思っていた。


そして兄自身、

それをかなり忠実にやってきた。


四十歳。

会社では管理職になり、

妻も正社員として働いている。

小学生の娘が一人いて、

三年前には

二十三階の新築マンションを

一億四千万円で買った。


住宅ローンは、

夫婦で組んだ五十年のペアローン。


兄が七千二百万円。


妻が六千八百万円。


世間から見れば、

兄は助けてもらう側ではなかった。

むしろ、

社会から外れてしまった人間を心配し、

こちら側へ戻してやろうと

考える側だった。


その時、

リビングの向こうから

娘の声がした。


「おじちゃん、そこ違う!」


弟が、

娘と並んでゲームをしていた。


弟は三十五歳。

独身で、小さな会社の契約社員。

住んでいるのは

家賃六万八千円の

古い賃貸住宅の二階だった。


車はない。


大きな財産もない。


兄から見ると、

昔から

「もう少し

 ちゃんとすればいいのに」

と思わせる弟だった。


「お前も人ごとじゃないぞ。

 もう三十五だろ。

 いつまでそんな暮らしするんだ」


弟はゲーム画面から目を離さず、

「別に困ってないけど」

と答えた。


「今はな。

 五十、六十になってから

 困っても遅いぞ」


弟が何か言おうとした時、

娘が二人の会話を遮った。


「パパ、今しゃべらないで。

 ボス来た!」


弟が吹き出した。


兄も笑った。


ただ、

胸の奥には小さな苛立ちが残った。


――責任のない人間は、気楽でいい。


その時の兄は、

本気でそう思っていた。


………


★目次


一 社会へ戻してやらないとな


二 二〇七六年


三 二十三階


四 一〇三〇対五十七


五 水を一本


六 声を上げる


七 自分の家なのに


八 四十八・八兆円


九 十か月


十 七十五対二十五


十一 ゼロでいいよ


十二 一人分の弁当


十三 妻の給料


十四 昭和から届いた答え


十五 業異熟


十六 火宅


十七 出口


十八 二十三階から


………


✦一 社会へ戻してやらないとな


弟が帰る時、

娘が玄関までついていった。


「おじちゃん、

 今度泊まりに行っていい?」


兄は笑った。


「おじちゃんの家、

 狭いぞ。

 何にもないぞ」


すると娘は、

靴下のまま玄関に立って言った。


「でも、

 おじちゃん暇だから、

 いっぱい遊べるじゃん」


妻が笑い、

弟も笑った。

兄も一緒に笑ったのだが、

なぜかその言葉だけが残った。


弟が帰ったあと、

兄は娘に聞いてみた。


「おじちゃんの、

 どこがそんなにいいんだ?」


娘は少し考えた。


「話、

 最後まで聞いてくれるから」


「パパだって聞くだろ」


「途中で

 『宿題したか』

 って言うじゃん」


兄は言い返そうとして、やめた。


確かにそうだった。


宿題はしたか。

明日の準備はしたか。

早く風呂に入れ。

歯を磨け。

塾の時間だぞ。


兄は娘を愛していた。

だから言っていた。

父親として、

ちゃんと育てなければならないと

思っていた。


弟には、その責任がない。


だから弟には時間がある。


ほんの一瞬だけ、

その時間が羨ましかった。


そして、

娘を育てることを

不自由だと思ったような気がして、

兄はその考えをすぐに打ち消した。


………


✦二 二〇七六年


数日後、

通勤電車の中で

住宅ローンの記事が目に入った。


二〇二六年八月二十八日。


金融庁が、

若い世代を中心に広がる

五十年住宅ローンへの

監視を強めているという。


返済期間を長くすれば

月々の負担は小さくなるが、

金利上昇や収入減少などの危険を、

より長く抱えることになる。


兄は途中まで読んで、

画面を閉じた。


夜、妻に話した。


「金融庁が、

 五十年ローンを心配し始めたって」


妻は笑った。


「契約する前に言ってよ」


兄も笑った。


二人とも正社員で、

収入もある。

銀行の審査も通った。

延滞も一度もない。


返済予定表は、

二〇七六年まで続いていた。


兄が八十歳になる年だった。


契約した時、

妻と二人で笑った。


「八十まで払うんか」


「その頃、

 二人ともヨボヨボだよ」


五十年という数字は、

大きすぎて現実味がなかった。


来月なら分かる。


来年も分かる。


娘が中学生になる頃も、

何となく想像できる。


八十歳の自分だけは、

ほとんど他人だった。


それでも

銀行の返済予定表だけは、

一円の迷いもなく

二〇七六年まで埋まっていた。


………


✦三 二十三階


兄がマンションを買った

理由の一つは、

景色だった。


初めて内覧した夜、

娘が窓へ走っていって言った。


「飛行機みたい」


兄は、そ

の言葉が好きだった。


自分も、

ここまで上がってきた。


そんな気がした。


ところが住み始めると、

広告には書かれていなかった

小さな面倒が見えてきた。


朝七時四十分。


エレベーターの表示は

四十一階から下りてくる。

途中で何度も止まり、

ようやく

二十三階へ来たと思ったら

満員だった。


「次にしよう」


娘が時計を見る。


「パパ、遅刻する」


広告には、

駅徒歩四分と書いてあった。


ある朝、

兄が自宅の玄関から

マンションの外へ出るまで

測ってみると、

九分近くかかった。


弟に話すと、

「俺んちは階段二十段くらい」

と笑われた。


「一緒にするな」


兄も笑った。


一億四千万円と、

家賃六万八千円。


一緒にされたくなかった。


ところが娘は、

「おじちゃんち、

 すぐ外に出られていいね」

と言った。


兄が

「その代わり景色は全然違うぞ」

と言うと、

娘はあっさり答えた。


「景色、毎日見ないもん」


妻が笑った。


兄も笑った。


最近、

娘の何気ない一言が

妙に残るようになっていた。


………


✦四 一〇三〇対五十七


二〇二六年夏。


東京湾岸の

中古マンション市場の記事が出た。


売り出し、

一〇三〇戸。


成約、

五十七戸。


回転率、

五・五%。


兄は、

その数字が気になった。


弟に話すと、

意外なことを聞かれた。


「兄ちゃんのマンション、

 今売ったらいくら?」


「知らん」


「買った値段くらい?」


「もっと高いだろ」


「売れるの?」


兄は少しむっとした。


「売らんから関係ない」


弟は

「ああ、そうか」

と答えた。


その夜、

兄は一人で不動産サイトを開いた。


同じマンションの似た広さの部屋が、

自分が買った時より

高い値段で売りに出ていた。


兄は画面を閉じた。


その値段で実際に売れたのかまでは、

見なかった。


寝ようとした時、

妻が玄関の鍵を確認しながら言った。


「さっき、

 廊下に知らない男いた」


「住人じゃない?」


「分からない。

 ずっとスマホ見ながら立ってた」


一階にはオートロックも、

防犯カメラも、

管理人もいる。

兄は、それも含めて

高い金を払ったと思っていた。


「大丈夫だろ」


そう答えた。


妻が寝室へ入ったあと、

兄は玄関へ戻った。


鍵を一度確認した。


そして、

もう一度ドアノブを引いた。


開かなかった。


それでいいはずなのに、

しばらく玄関に立っていた。


………


✦五 水を一本


二〇二六年八月。


千葉の記録的な豪雨で、

一部のマンションでは

エレベーターや給水設備などが

止まったというニュースが流れた。


兄はテレビを見ながら言った。


「高いマンションでも、

 水が止まったら終わりだな」


その時は、人ごとだった。


数年後の真夏。


大きな地震が来た。


二十三階は、

ゆっくり大きく揺れた。


食器棚の扉が開き、

グラスが落ち、

ダイニングテーブルが動いた。


そして、

百二十万円で買った家具が

娘の方向へ滑った。


兄は反射的に娘へ覆いかぶさった。


揺れが収まったあと、

電気が止まった。


エレベーターも、

水も、エアコンも止まった。


真夏の二十三階だった。


午後には管理会社から、

「排水設備の安全が確認されるまで、

 トイレの使用を控えてほしい」

という連絡が来た。


娘が言った。


「トイレ行きたい」


妻が止めた。


「まだ流しちゃだめ」


「なんで?」


妻は答えに詰まった。


「じゃあ、

 どこでするの?」


今度は兄も答えられなかった。


給水所から戻る時、

兄は二リットルの水を四本、

妻が二本、娘も一本持った。


八階で娘が「重い」と言った。


十二階で妻が壁にもたれた。


「ちょっと休もう」


十五階で娘が泣きそうな顔になった。


「もう持てない」


兄は娘の一本を受け取った。


二十階を過ぎる頃には、

シャツから汗が落ちていた。


ようやく二十三階へ着いた時、

弟から電話が来た。


「兄ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫」


「うち来る? 

 狭いけど、水出るよ」


兄は少し迷った。


「いい。大丈夫だ」


電話を切ると、妻が言った。


「全然、

 大丈夫じゃないじゃん」


兄は答えなかった。


………


✦六 声を上げる


地震のあと、

管理組合の臨時総会が開かれた。


設備点検、外壁、配管、

非常用電源、追加修繕。

そして、修繕積立金の増額。


兄は資料を読み込んで会議へ行った。


「ちょっといいですか」


手を挙げた。


「今回の増額幅、

 大きすぎませんか。

 子育て世帯にはかなり負担です。

 工事内容をもう一度

 精査できないんでしょうか」


すると向こう側から、

高齢の男性が言った。


「うちは年金だけなんですよ。

 私らだって払えません」


別の所有者が言った。


「でも、先送りして

 建物の価値が落ちたら

 困るでしょう」


投資目的で持っている人は言った。


「私は売却を考えています。

 大きな追加負担には

 賛成できません」


誰もふざけてはいなかった。


子育て世帯。


年金生活者。


投資家。


長く住む人。


近いうちに売る人。


兄はもう一度手を挙げようとした。


しかし、

その前に議長が次の議題へ進んだ。


会議が終わったあと、

兄は一人でエレベーターを待った。


自分の家なのに。


直すことも、

直さないことも、

自分一人では決められなかった。


………


✦七 自分の家なのに


数週間後、

修繕積立金の増額案が届いた。


弟が何気なく言った。


「売ったら?」


兄は顔を上げた。


「簡単に言うな。

 娘の学校もあるし、

 妻の仕事もある」


弟は少し考えた。


「じゃあ、

 売れないんだ」


兄の声が強くなった。


「売れないんじゃない。

 売らないんだ」


弟は、それ以上何も言わなかった。


その夜。


兄は一人でリビングに座った。


壁には、三年前に撮った

家族写真が掛かっていた。

窓際には娘が小さい頃につけた傷が残り、

妻が何軒も店を回って選んだ

カーテンが揺れていた。


初めてこの部屋へ来た夜、

娘は窓に張りついて

「飛行機みたい」

と言った。


売れないのではない。


売りたくないものも、

確かにここにはあった。


兄は窓の外を見た。


自分をここに残しているもののうち、

どこまでが住宅ローンで、

どこからが家族なのか。


その境目は、

兄にも分からなかった。


………


✦八 四十八・八兆円


その頃、

日本では別の数字も

ニュースになっていた。


親世代から子世代へ移る

年間の相続資産額。


二〇三〇年、

四十八・八兆円。


二〇三五年、

五十・四兆円。


二〇四〇年、

五十一兆円。


兄は味噌汁をすすりながら言った。


「五十兆円か。すごいな」


弟が言った。


「みんな、大変になるな」


兄は笑った。


「もらえるんだから、

 大変じゃないだろ」


弟は少し考えた。


「そうかな」


兄には、

その意味が分からなかった。


数か月後。


父が亡くなった。


ニュースで見た

四十八・八兆円の一部が、

自分たち兄弟の食卓まで降りてきた。


………


✦九 十か月


葬儀の日、

兄は親戚の前で言った。


「金のことで、

 兄弟が揉めるのだけはやめよう」


弟も「そうだな」と答えた。


兄は、

本当に父を悲しんでいた。


晩年の父の面倒を主に見たのは

兄だった。


病院へ通った。


買い物をした。


医師の説明を聞いた。


役所の手続きをした。


仕事を休んだ日もあった。


父が夜中に体調を崩した時、

車を飛ばしたこともある。


弟も、

それは認めていた。


葬儀からしばらくすると、

財産の一覧が出てきた。


預金。


有価証券。


自宅。


土地。


評価額。


相続税。


昨日まで

「父さんの家」だったものが、

「評価額」になった。


「父さんの預金」が、

「残高」になった。


兄は税理士に聞いた。


「現金は、

 いくらあるんですか」


質問したあと、

胸の中が少しざらついた。


必要な確認だった。


本当に必要な確認だからこそ、

余計に嫌だった。


………


✦十 七十五対二十五


四十九日が終わった頃、

兄弟は同じテーブルに座った。


兄は紙を一枚置いた。


「相続なんだけどさ。

 五十、五十じゃなくて、

 七十五、二十五くらいに

 できないかな」


弟は黙った。


兄は説明した。


父の病院へ通ったこと。


仕事を休んだこと。


買い物をしたこと。


手続きをしたこと。


最後まで自分が面倒を見たこと。


全部、本当だった。


「だから、

 多少は考えてもらっても 

 いいんじゃないかなと思って」


弟は紙を見た。


「兄ちゃん七十五?」


「うん」


兄は身構えた。


怒ると思った。


「俺だって息子だ」

と言われると思った。


ところが弟は、あっさり言った。


「ああ、いいよ」


兄は拍子抜けした。


「いいの?」


「うん」


弟は紙をテーブルへ戻した。


「でも、

 それなら二十五もいらない」


「何?」


「俺、

 ゼロでいいよ」


兄は、意味が分からなかった。


………


✦十一 ゼロでいいよ


「いや、

 それは話が違うだろ」


「なんで?」


弟は落ち着いていた。


「兄ちゃんが

 父さんの面倒見たのは本当だよ。

 俺よりずっとやった。

 俺にはできなかった」


「だったら――」


「だから、

 俺の二十五も

 兄ちゃんが取ればいいよ」


兄は何も言えなかった。


弟が続けた。


「それか、

 二人ともゼロにして、

 全部寄付したら?」


兄の顔から表情が消えた。


「……は?」


「父さんの金だろ。

 俺たちが稼いだ金じゃない」


兄の声が大きくなった。


「ふざけるな! 

 親が一生かけて残した財産だぞ!」


「だからだよ」


「子どもが引き継ぐものだろ!」


弟は少し首をかしげた。


「どうして?」


兄は言葉に詰まった。


法律。


家族。


親の思い。


いくらでも答えはあるはずだった。


弟が言った。


「俺たち二人とも、

 父さんの金をもらう資格が

 本当にあるのかな」


兄の頭には、

住宅ローン、娘の教育費、修繕積立金、

固定資産税、老後資金が浮かんだ。


全部、

必要な金だった。


兄にとって、それは欲ではなかった。


事情だった。


「お前は金が要らないから、

 そんなきれいごとが言えるんだ!」


言ってから、兄は少し後悔した。


弟は怒らなかった。


「……そうかもな」


それだけだった。


帰り際。


弟は玄関で言った。


「兄ちゃん。

 父さんのこと、

 最後まで見てくれてありがとう。

 俺にはできなかった」


それだけ言って帰った。


その夜。


兄はスマートフォンの電卓を開いた。


七十五%なら、いくら。


百%なら、いくら。


一度閉じた。


そのまま寝ようとした。


ところが、

住宅ローンの残高が頭に浮かんだ。


娘の教育費も浮かんだ。


妻が働けなくなった場合も考えた。


兄は、もう一度電卓を開いた。


百%なら、いくら。


数字が出た。


少し安心した。


その安心に気づいた瞬間。


兄は、

自分が嫌になった。


父の面倒を見たことを、

自分はいつから

金額へ換え始めたのだろう。


それでも。


兄は電卓の数字を、

すぐには消せなかった。


………


✦十二 一人分の弁当


弟は兄の家を出たあと、

電車に乗って自分の部屋へ帰った。


二階。


家賃六万八千円。


玄関を開ける。


誰も「おかえり」とは言わない。


電気をつけた。


コンビニで買った弁当を

電子レンジへ入れた。


箸は一膳。


コップも一つ。


兄の家にいる時には、

娘がずっと話しかけてきた。


ゲームの話。


学校の話。


友達の話。


どうでもいい話。


弟は、それが好きだった。


スマートフォンが鳴った。


兄の娘からだった。


『おじちゃん、

 またゲームしようね』


弟は笑った。


『もちろん』


と返した。


電子レンジが鳴った。


弟は一人で弁当を食べた。


兄には言わなかったが、

夜中に目が覚めることがあった。


このまま一人で六十になったら。


病気になったら。


仕事がなくなったら。


誰が来るのだろう。


弟にだって、

怖いものはあった。


ただ、

怖いから家を買えば安心できるのか、

結婚すれば安心できるのか、

大きな会社へ入れば安心できるのか。


それも、

弟には分からなかった。


翌朝になれば、

また会社へ行く。


嫌になれば辞めるかもしれない。


この部屋も、

来月出ようと思えば出られる。


出口はあった。


ただ。


出口の向こう側に、

誰かが待っている保証はなかった。


………


✦十三 妻の給料


春の夜。


妻が夕食の途中で言った。


「仕事、少し減らしたい」


兄は妻の顔を見た。


確かに疲れていた。


本当なら、

「休めばいい」と言いたかった。


ところが口より先に、

住宅ローン、管理費、修繕積立金、

教育費、固定資産税が頭に浮かんだ。


「今は、ちょっと厳しいな。

 娘が中学入るまでは頑張れない?」


妻は箸を置いた。


「じゃあ、

 なんで私だけ辞めちゃいけないの」


兄は反射的に言った。


「俺だって辞めたいよ」


妻は怒らなかった。


ただ静かに言った。


「じゃあ、

 二人とも辞められないんだね」


翌朝。


妻はいつもの時間に起きた。


いつもの服に着替え、

いつものように化粧をして、

いつものバッグを持った。


兄は玄関で声をかけた。


「昨日の話だけど……」


妻は靴を履きながら時計を見た。


「ごめん。

 電車来るから」


ドアが閉まった。


喧嘩にはならなかった。


夫婦関係も壊れていない。


住宅ローンも正常に返済されている。


妻も、

いつも通り会社へ行った。


全部、

正常だった。


兄は一人で玄関に立っていた。


なぜか。


それが一番怖かった。


………


✦十四 昭和から届いた答え


父の遺品を整理していると、

古い家計簿が出てきた。


土地。


預金。


住宅ローン。


保険。


株。


父はまじめな人だった。


「土地は持っておけ」


「家賃を払うくらいなら買え」


「不動産は最後に残る」


「子どもには財産を残せ」


兄は、

そう教えられて育った。


父の時代には、

それはかなり正しかった。


給料が上がった。


人口が増えた。


街が広がった。


土地も上がった。


家を買った人が、

豊かになった。


兄は父の教えを守った。


弟は、

ほとんど守らなかった。


兄はずっと、

弟を情けないと思っていた。


ところが古い家計簿を見ていて、

兄は初めて気づいた。


自分が父から

相続しようとしているのは、

金や家だけではなかった。


――こう生きれば安心だ。


父が生きた時代の「正解」まで、

兄は相続していた。


父が間違っていたわけではない。


ただ。


父が答えを書いた時代と、

自分が答え合わせをしている時代は、

もう同じではなかった。


………


✦十五 業異熟


兄弟は、

同じ父と母から生まれた。


同じ家で育ち、

同じ食卓で飯を食い、

同じ父の話を聞いた。


それなのに、

兄は持つ方へ進み、

弟は持たない方へ進んだ。


兄は家族を持った。


弟は一人だった。


兄は財産を守ろうとした。


弟は「いらない」と言った。


どちらが正しいのかは、

まだ分からない。


ただ兄には、

不思議なことがあった。


家族を守ろうとして買った家が、

妻を仕事から離れにくくした。


娘のために選んだ二十三階が、

災害の日には娘に水を運ばせた。


安心のために買った

百二十万円の家具が、

地震の日には娘へ向かって滑った。


父を大切にした時間が、

七十五対二十五という数字になった。


どれも、

始まりは悪くなかった。


むしろ。


いいことをしようとしていた。


父の本棚にあった仏教書に、

「業異熟」という言葉があった。


原因と結果は、

同じ顔で戻ってくるとは限らない。


兄はその説明を読みながら、

なぜか弟の部屋を思い出した。


持たないことで自由になった弟。


持たないことで、一人になった弟。


同じことだった。


原因と結果は、

弟のところにも

同じ顔では戻っていなかった。


………


✦十六 火宅


その夜。


兄は久しぶりに、

あのNEETのニュースを思い出した。


九十八万一千人。


十三・〇%。


――社会へ戻してやらないとな。


自分が言った言葉だった。


ところが今の自分は、

会社を簡単には辞められない。


妻も仕事を減らせない。


マンションも簡単には売れない。


娘の学校もある。


修繕費もある。


五十年ローンもある。


父の財産まで必要になった。


それでも兄は、

もっと安心したかった。


もっと貯金が欲しい。


娘には、

もっといい教育を受けさせたい。


老後の金も欲しい。


父の財産も残したい。


一つ手に入れれば安心すると思ったのに、

一つ手に入れるたび、

次の何かが必要になった。


父の仏教書には、

「火宅」という話もあった。


燃えている家の中で、

子どもたちは遊び続けている。


兄は本を閉じた。


リビングでは、

娘が寝転んでゲームをしていた。


妻が買ったクッションを枕にしている。


「パパ、見て。

 クリアした」


「すごいな」


娘が笑った。


兄も笑った。


窓の外には、

二十三階からの夜景が広がっていた。


この家を失いたくない。


その気持ちも、

本物だった。


兄は窓の外を見た。


火は、どこにも見えなかった。


………


✦十七 出口


ある夜、

弟がまた遊びに来た。


娘はすぐ弟の隣へ座り、

二人でゲームを始めた。


帰り際。


兄は弟に聞いた。


「お前、

 将来怖くないの?」


弟はすぐには答えなかった。


「怖いよ」


兄は意外そうに弟を見た。


「夜中に目が覚める時あるよ。

 このまま一人で六十になったら

 どうなるんだろうとか、

 病気になったら

 誰が来るんだろうとか」


「だったら――」


「でも、怖いからって

 兄ちゃんと

 同じものを全部持てば

 安心できるのかって言われたら、

 それも分からない」


弟は少し笑った。


「俺も分からんよ」


兄は黙った。


弟がリビングにいる娘を見た。


「兄ちゃんみたいになりたいと

 思う時もあるよ」


「俺みたいに?」


「あいつと遊んでると、

 いいなって思う。

 俺、帰ったら一人だから」


兄は何も言えなかった。


弟が続けた。


「でも兄ちゃん見てると、

 俺には無理だなって思う時もある」


「何が」


「全部。家も、ローンも、

 会社も、家族も、親のことも」


兄はむっとした。


「それが大人だろ」


「そうかもしれない」


弟は靴を履いた。


兄は、なぜか聞いた。


「もし嫌になったら、

 お前どうする?」


「仕事とか家とか?」


「全部」


弟は少し考えた。


「やめる。

 引っ越す」


兄は笑った。


「簡単に言うな」


弟も少し笑った。


「簡単にしたんだよ。

 最初から」


玄関を開ける前に、

弟が振り返った。


「兄ちゃん。

 前にニートの人を

 社会に戻してやらないとって、

 言ってたじゃん」


「それが何だ」


「兄ちゃんの方は、

 そこから出られる?」


兄は答えなかった。


弟も答えを待たず、

「じゃあ、またな」

と言って帰った。


兄は玄関に立ったまま、

弟の足音が階段の方へ

消えていくのを聞いた。


弟の人生を一日だけ

借りてみたいと思った。


たぶん弟も、

自分の人生を一日くらいなら

借りてみたいのだろう。


だが。


全部交換するかと聞かれたら。


二人とも、たぶん黙る。


………


✦十八 二十三階から


兄はベランダに出た。


二十三階から見る街は、

相変わらずきれいだった。


働いた。


結婚した。


娘を育てた。


家を買った。


父の面倒を見た。


財産も守ろうとした。


全部、

自分なりに正しいことをした。


それなのに、

何か一つ手に入れるたび、

何か一つ動けなくなっている気がした。


けれど、

動けない理由の全部が

嫌なものではなかった。


リビングから娘の声がした。


「パパ、

 おじちゃん今度いつ来る?」


「また来るだろ」


「おじちゃん暇だもんね」


娘は笑った。


兄も笑った。


少しして、娘が言った。


「パパも暇になったら、

 一緒にゲームしようね」


兄は、すぐには答えられなかった。


「……そうだな」


テーブルの上には、

二〇七六年まで続く

住宅ローンの返済予定表があった。


その横には、

 父の本棚から持ち帰った一冊の本。


アルバート・O・ハーシュマン。


『Exit, Voice, and Loyalty』。


兄は、

表紙に書かれた三つの単語を見た。


Exit。


Voice。


Loyalty。


出ていく。


残って声を上げる。


そして。


大切なものがあるから、

簡単には出ていかない。


玄関は開く。


非常階段もある。


エレベーターも、

今日は動いている。


それでも自分は、

弟よりずっと

出口から遠い場所に

いるような気がした。


昔は、

弟が人生から逃げていると

思っていた。


今は少し違って見えた。


弟は人生から逃げたのではなく、

逃げられる場所を

残していたのかもしれない。


ただ。


弟の六万八千円の部屋には、

「おかえり」と言う娘はいない。


兄には、それがある。


だから、

どちらが幸せなのかは分からない。


どちらが正しかったのかも、

まだ分からない。


もしかすると。


人間は、

自分が持っていない自由だけを、

羨ましく思うのかもしれない。


その自由についている値札までは、

見ないまま。


兄は返済予定表の最後を見た。


二〇七六年。


そこまでの数字は、

全部埋まっていた。


自分の人生だけは、

まだ空欄だった。


――了――


★ホームズとワトソンの

 ブラックあとがき★


――名探偵にも、

  人生の正解は分からない――


「ホームズ! 

 五十年ローンなら

 月々の返済額を小さくできるぞ!」


「未来を五十年使えば、

 今日の値段は小さく見えます」


「未来を使うって何じゃ!」


「八十歳のワトソン君にも

 払ってもらうんです」


「まだ働かせる気か!」


「返済予定表では

 元気そうですよ」


「銀行の表の中だけじゃ!」


………


ワトソンは

不動産サイトを開いた。


「見ろ! 

 兄貴のマンション、

 一億五千万円で売りに出とる!」


「売れたんですか?」


「……売りに出とる」


「だから、

 売れたんですか?」


「二回言うな!」


「値札と約定価格は違います」


「証券マンみたいな嫌なこと言うな!」


「マンションも株も、

 最後に値段を決めるのは

 取引です」


「夢のマイホームを

 板情報みたいに見るな!」


………


「ホームズ。

 管理組合には

 Voiceがあるんじゃろ?」


「あります」


「なら安心じゃ!」


「採決で負けるVoiceもあります」


「急に民主主義が怖くなった!」


「自分の家だから自分で決められる、

 とは限りません」


「所有権は?」


「あります」


「決定権は?」


「共有部分なら、

 みんなで決めます」


「わしの家なのに!」


「みんなも同じことを言っています」


「それが一番面倒じゃ!」


………


ワトソンは少し声を落とした。


「ホームズ。

 兄貴、あの夜、  

 電卓を二回開いたな」


「ええ」


「一回閉じたのに」


「ええ」


「なんでまた開いた?」


ホームズは紅茶を一口飲んだ。


「一回目は

 金額を知りたかったのでしょう」


「二回目は?」


「安心したかった」


ワトソンは黙った。


「……それ、

 本編より嫌な答えじゃな」


「あとがきですから」


「あとがきで傷を深くするな!」


………


「でも弟は立派じゃ。

 相続ゼロでいいと言った!」


「その夜、

 一人で弁当を食べています」


「自由じゃ!」


「病気になった時、

 誰が来るか心配しています」


「……」


「兄には娘がいます」


「借金もある」


「弟には借金がありません」


「娘もおらん」


「そういうことです」


ワトソンは頭を抱えた。


「どっちを選んでも、

 何か付いてくるじゃないか!」


「人生ですから」


「返品できんのか!」


「クーリングオフ期間は、

 とっくに過ぎています」


「生まれた時に説明しろ!」


………


「じゃあ、

 Loyaltyって何なんじゃ?」


「忠誠、愛着、帰属意識。

 簡単に言えば、

 嫌だからといってすぐには

 捨てられない理由です」


「ローンか?」


「それだけなら借金です」


「じゃあ何じゃ」


「娘がつけた壁の傷」


「……」


「妻が選んだカーテン」


「……」


「家族写真」


「……」


「『飛行機みたい』と言った夜」


ワトソンは少し黙った。


「それは、

 売りにくいな」


「不動産屋の査定書には載りません」


「値段がないのか」


「値段をつけられないから困るんです」


「ローン残高は一円単位で出るのにな」


「ええ」


二人とも、しばらく黙った。


………


やがてワトソンが言った。


「火宅の話も、

 少し変わって見えてきたな」


「どう変わりました?」


「燃えとるなら

 逃げればいいと思っとった」


「はい」


「でも中に、

 娘がおったら?」


ホームズは答えなかった。


「妻がおって、写真があって、

 思い出があったら?」


「……」


「火事だからって、

 簡単には走って逃げられんな」


ホームズは静かに言った。


「だから人間には、

 Exitだけでなく

 VoiceとLoyaltyがあるのでしょう」


ワトソンは鼻をすすった。


「おい。

 ブラックユーモアはどこへ行った」


「泣いてるじゃないですか」


「これは鼻水じゃ!」


………


しばらくして。


ワトソンが聞いた。


「ホームズ」


「何です?」


「結局、兄と弟、

 どっちが正しかった?」


ホームズは窓の外を見た。


「知りません」


「名探偵がそれでええんか!」


「事件なら最後のページで

 犯人が分かります」


「人生は?」


ホームズは紅茶を飲んだ。


「さあ。

 まだ約定していません」


「最後まで証券会社か!」


テーブルの上では、

二〇七六年までの

返済予定表だけが、

今日もきれいに未来を知っていた。


その隣には。


まだ何も書かれていない

ページが残っていた。


――今度こそ、本当に了――

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