『畑の上の大学』 ✲ 日本を追い抜こうとする国で、校舎のない大学から、毎年百五十人の教師が卒業していた(笑)
✦『畑の上の大学』
✲ 日本を追い抜こうとする国で、
校舎のない大学から、
毎年百五十人の教師が
卒業していた(笑)
――インドは、
三階建ての家を、
三階から先に建てた。
日本は笑った。
だが足元を見ると、
一階を支えていた人間が、
こちらでも消え始めていた。――
………
「おじいちゃん」
高校一年生のゆづきが、
テレビを指さした。
「大学って、
畑でも卒業できるん?」
画面には、
インドの乾いた農地が映っていた。
記録では、
そこに教員養成大学がある。
住所もある。
認可番号もある。
学生もいる。
卒業生もいる。
大学だけが、
なかった。
僕は、
すぐには答えられなかった。
インドの珍しいニュースだと
笑うことは簡単だった。
だが画面の畑を見ているうちに、
僕には日本の学校、病院、バス停、
役所の窓口が重なって見え始めた。
建物はある。
看板もある。
制度もある。
けれど、
その中で働く人間が足りない。
インドは、
ないものを「ある」と書いた。
日本は、
薄くなったものを
「まだある」と思っている。
違う国の、違う事件。
それなのに、
根っこでは同じ匂いがした。
………
★目次
■第1章 母校は畑だった
■第2章 毎年百五十人の教師候補
■第3章 三階だけの家
■第4章 日本は本当に抜かれたのか
■第5章 百二十九校の名簿
■第6章 検査の日だけ大学になる
■第7章 あります、と書けばよい
■第8章 五万八千人分の椅子
■第9章 日本にもある幽霊教室
■第10章 AIは畑まで歩かない
■第11章 ホルムズ海峡が消した出張
■第12章 偽大学より怖いもの
■第13章 学生も悪いのか
■第14章 日本はインドを笑えるか
■第15章 一階から直す仕事
❥Z世代のあなたへ
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才(笑)
………
■第1章
母校は畑だった
「もう一回見よう」
ゆづきがニュースを巻き戻した。
インド中部、マディヤ・プラデシュ州。
記者が、
教員養成大学の登録住所を訪ねる。
そこにあったのは、
閉まった建物、
別の学校の看板、
建設途中の建物、
そして広い農地だった。
「場所を間違えたんじゃない?」
「住所は合っとる」
「じゃあ大学は?」
「見つからん」
「学生は?」
「卒業しとる」
「先生は?」
「名簿にはおる」
「図書館は?」
「書類にはある」
ゆづきは首をかしげた。
「それ、大学じゃなくて、
大学のプロフィール画面じゃん」
その一言に、
僕は笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
公的な記録では、
その学校から約十年間、
毎年最大百五十人が
卒業したことになっていた。
十年なら、最大千五百人。
校舎はない。
しかし卒業生は、
社会の中にいる。
「その人たち、
今、先生しとるん?」
「教師になった人も、
おるじゃろうな」
ゆづきの表情が変わった。
「畑より、
そっちの方が怖いじゃん」
その通りだった。
畑は、目で見れば分かる。
だが、
十分な訓練を受けないまま
教壇に立った教師は、
卒業証書を見ても分からない。
建物が存在しないことより、
存在しない教育を
受けたことになった人間が、
社会の中へ出ていく方が恐ろしい。
【新しいトレンド①】
デジタル時代には、
建物がなくても、
書類とデータだけで
人間の経歴を作れてしまう。
【リアルな数字①】
約十年間、毎年最大百五十人。
最大なら、卒業生は約千五百人。
………
■第2章
毎年百五十人の教師候補
画面には、B.Edという英語が出ていた。
「これ何?」
「教師になるための
勉強をしたことを示す学位じゃ」
「最初から
教師養成コースって言ってよね」
「英語にすると、
少し立派に見えるからな」
「校舎がないのに?」
「看板だけは立派じゃ」
この学校では、
一年に最大百五十人を
受け入れることになっていた。
大学を卒業した後に、
教師になるための勉強をする人が
百人。
大学教育と教員養成を
一緒に受ける人が
五十人。
物語の中の女性、
ミーラの父親は、
娘を教師にするために
貯金を取り崩した。
店の屋根の修理を延ばした。
自分の歯の治療も後回しにした。
娘が教師になれば、
村へ戻っても働ける。
結婚しても仕事を続けられる。
社会から「先生」と呼ばれる。
父親は言った。
「教育だけは、
誰にも盗まれない財産だ」
だが娘が受け取ったのは、
十分な授業ではなく、
一枚の卒業証書だった。
「お父さんは、娘の未来を
買ったつもりだったんじゃな」
「そうじゃ」
「届いたのは、紙一枚かぁ……」
僕は答えられなかった。
日本でも、
親は子どもの将来を思って、
塾代、大学費用、資格講座へ
金を払う。
教育に金を払う時、
親が買っているのは
授業時間だけではない。
「この子だけは、
自分より少し上の階へ
行ってほしい」
その願いを買っている。
だから教育の不正は、
金銭詐欺だけではない。
親が子どもへ託した未来を盗む。
【新しいトレンド②】
教育市場では、
知識だけでなく、
「今より上の人生へ行ける」
という家族の希望が売られている。
【リアルな数字②】
一校で、
教師候補を一年最大百五十人。
………
■第3章
三階だけの家
僕は、広告の裏へ家を描いた。
一階には、
校舎、教室、図書館、水道。
二階には、
教師、授業、教育実習、質問する時間。
三階には、
卒業証書、教員資格、就職。
「普通は、この順番じゃ」
僕は、一階と二階を消した。
三階だけが空中に残った。
「この大学は、こう見える」
「落ちるじゃん」
「本来ならな」
僕は、
空中の三階の下へ、
小さな文字を書いた。
認可番号。
土地登記。
学生名簿。
試験記録。
電子署名。
「柱の代わりに、
書類を並べたんじゃ」
「書類で家が支えられるん?」
「画面の中ではな」
インドには、十四億人を超える人がいる。
若者が多い。
学校が必要。
教師が必要。
大学が必要。
資格が必要。
一校ずつ、
ゆっくり校舎を建て、
教師を育て、
毎年検査していたら、
若者が何年も待たされる。
だから私立校と定員を
一気に増やした。
教育の入口を広げたこと自体は、
悪いことではない。
地方の若者や女性にも、
資格を取る機会が生まれる。
しかし、
入口を広げることだけが
目標になると、
中身の確認が追いつかない。
「三階にはWi-Fiがあるのに、
一階にトイレがない感じ?」
「極端に言えばな」
「住みたくない」
「でも三階からの景色は、
立派に見える」
「落ちるまでは?」
「落ちるまではな」
僕は、昔の日本を思った。
戦後の日本は、
三階から建てなかった。
学校を建てた。
水道を引いた。
鉄道を整えた。
教師、看護師、技術者を育てた。
一階と二階を作った後、
三階に経済成長を乗せた。
だから強かった。
ところが今、
その基礎を支える人間へ、
十分な金と時間を戻していない。
インドは、
三階を急いで建てた。
日本は、
一階と二階を作った
昔の写真を眺めながら、
柱の腐食を見落としている。
【新しいトレンド③】
急成長する国では、
基礎より先に、
資格、アプリ、数字が
大きくなることがある。
成熟した国では、
昔作った基礎を直さず、
まだ丈夫だと思い込むことがある。
………
■第4章
日本は本当に抜かれたのか
「インドは、
日本をGDPで抜いたんじゃろ?」
「順位は、
為替や統計の計算で動く」
「徒競走なのに、
途中で物差しを変える感じ?」
「まあ近い」
現在、
日本とインドの名目GDPは
接近している。
インドは高成長。
日本は低成長。
近い将来、
順位が入れ替わる可能性は高い。
「じゃあ、日本は負けた?」
「国は運動会ではない」
僕は、
昔の会社四季報を出した。
「売上高一兆円の会社と、
百億円の会社。
どちらが良い会社じゃ」
「一兆円」
「借金が二兆円なら?」
「嫌じゃ」
「社員が全員辞めそうなら?」
「もっと嫌じゃ」
「大きさだけでは分からんじゃろ」
「GDPも同じか」
「そうじゃ」
国全体の経済規模が大きくても、
一人一人が豊かとは限らない。
若者が安心して働けるとも限らない。
学校の質が高いとも限らない。
逆に、
GDP順位を落としても、
水道、医療、教育、交通が
きちんと動けば、
暮らしは守られる。
「じゃあ、何を見るん?」
「先生、病院、水道、交通。
毎日の暮らしを支える基礎じゃ」
「地味じゃな」
「経済は、
地味なものの上にしか建たん」
「株価は派手だけど?」
「株価は屋上の旗じゃ。
風が吹けばよく動く」
「元証券マンが言うと重いな」
「旗だけ見て、
ビルのひびを忘れたらいかん」
GDPで抜かれることより怖いのは、
順位の話に気を取られ、
日本の基礎が薄くなっていることに
気づかないことだ。
インドの四兆ドルは、
未来への勢いを映す。
日本の四兆ドルは、
過去に積み上げた資産と信用を映す。
片方は、
基礎が追いつかない。
もう片方は、
基礎が古くなる。
大きさでは並んでも、
問題の形は正反対だった。
【新しいトレンド④】
これからの国力は、
GDP順位だけではなく、
暮らしの基礎を
毎日動かし続けられるかで決まる。
………
■第5章
百二十九校の名簿
問題の大学には、
教員養成校が百二十九校提携していた。
公立二校。
私立百二十七校。
検査では、二十五校に不備。
五校に重大な問題。
二校は、
登録住所に存在しなかった。
三校は、
別の場所で授業をしていた。
「百二十九校のうち、
二校だけなら少なく見える」
「役所から見ればな」
「でも、
その二校へ入った
学生から見たら?」
「被害は百%じゃ」
ゆづきは、ノートに書いた。
《千人に一人でも、
その一人には人生全部》
「うまいな」
「使用料百円」
「孫が祖父から取るな」
数字は、
遠くから見ると小さくなる。
不備二十五校。
重大問題五校。
不存在二校。
割合へ変えれば、例外に見える。
だが、そこで二年を過ごし、
学費を払い、
就職を決めた若者にとっては、
「二校のうちの一校」
ではない。
自分の人生全部だ。
日本でも、同じことが起きる。
全国で見れば、
教師不足は〇・数%。
運休したバス路線は一部。
閉鎖された病棟も一部。
しかし、その学校、その村、
その家族にとっては
百%の問題になる。
数字を小さく見せる時、
制度は人間の顔を消す。
【新しいトレンド⑤】
制度は被害を割合へ変え、
一人の人生にとっての百%を、
小さな例外に見せてしまう。
【リアルな数字⑤】
百二十九校のうち、不備二十五校。
重大な問題五校。
………
■第6章
検査の日だけ大学になる
「でも、
検査には合格したんじゃろ?」
「そこが問題じゃ」
検査の日だけ、
別の学校から本を借りる。
先生役を集める。
学生を座らせる。
実験器具を並べる。
検査が終われば、全部返す。
「一日限定大学?」
「検査官だけが来る文化祭じゃ」
「入場料は?」
「未来の学生百五十人分」
「高すぎるわ」
継続検査は、
三年から五年に一度。
毎年百五十人なら、
次の検査までに、
四百五十人から七百五十人を
卒業させられる。
「抜き打ちで行けばいい」
「六百校以上ある」
「人を増やす」
「給料は?」
「国が出す」
「その国も金が足りん」
ゆづきは黙った。
だから写真、動画、
電子書類による確認が増える。
それ自体は必要だ。
人手が足りない国で、
すべてを紙と訪問だけで
管理することはできない。
しかし、
便利な制度は、
正直な人だけが使うとは限らない。
本物の学校は、
写真を送る費用が下がる。
偽物の学校も、
写真を作る費用が下がる。
日本でも同じだ。
点検表を埋める。
研修動画を再生する。
安全確認の欄へ丸を付ける。
書類上は完璧。
だが現場の異音、匂い、疲労は、
確認されない。
効率化とは、
本来、無駄を減らし、
必要な現場へ人を戻すことだった。
ところが、
人を減らすことそのものが
目的になると、
最後は検査まで消える。
【新しいトレンド⑥】
デジタル化は、
本物を確認する費用と同時に、
偽物を本物らしく見せる
費用も下げる。
………
■第7章
あります、と書けばよい
問題が見つかった後も、
入学期限は迫っていた。
行政は、
学校側に宣誓書を書かせた。
校舎があります。
先生がいます。
図書館があります。
責任者が署名する。
「書いたら、校舎が生えるん?」
「生えん」
「何のため?」
「問題が起きた時、
約束を破ったのは学校だと言える」
「責任を未来へ送る紙か」
問題が残る中、
八十二校が学生募集の画面へ
載った経緯も問題になった。
行政側には、
学生を一年待たせたくないという
理由がある。
学校を止めれば、
若者が進学できない。
地方には、
別の選択肢が少ない。
だから、
とりあえず入学させる。
問題があれば、
後で調べる。
しかし、
後で大学が存在しないと分かった時、
学生の二年間は戻らない。
「日本でも、
利用規約に同意するじゃろ」
「読まずに押すやつ」
「会社は説明したと言える」
「利用者は読んだことになる」
「似とるな」
「おじいちゃんも、
明日から甘いものを減らすって
毎日言っとる」
「適切に対応する」
「役所の答弁じゃが!」
二人で笑った。
けれど、
責任を未来へ送る紙は、
笑い事ではない。
今の問題を今日解決せず、
未来の若者へ渡す。
国の借金。
老朽化した橋。
教師不足。
介護人材不足。
気候変動。
どれも、少し似ている。
「後で適切に対応します」
その言葉の「後で」を生きるのは、
今の高校生たちだ。
【新しいトレンド⑦】
確認する人が減ると、
宣誓書や同意書は、
責任を明確にする紙ではなく、
責任を未来へ送る紙になる。
………
■第8章
五万八千人分の椅子
州内には、
六百を超える教員養成機関。
受け入れ可能人数は、
五万八千人以上。
毎年、
約四万八千人が入学する。
「五万八千人分の
教室と先生が必要なんじゃろ?」
「本来はな」
「でも数字は、
本物の椅子の数じゃない?」
「受け入れてよいと
登録された人数じゃ」
「飛行機の予約画面に座席はあるのに、
飛行機がない感じ?」
「全便欠航じゃな」
授業料だけでも、
市場は数十億円規模になる。
学校は学費が入る。
大学は提携校が増える。
政府は進学者が増える。
学生は資格が取れる。
「全員、
少しずつ得するんじゃな」
「そうじゃ」
「誰が損するん?」
「数年後、
その教師に教わる子どもじゃ」
ゆづきは、黙った。
未来の子どもは、
まだ契約書へ署名できない。
反対もできない。
投票もできない。
だから、
大人は未来の子どもへ
請求書を送りやすい。
安い教育。
足りない実習。
古い校舎。
修理されない水道。
減らされる先生。
今の大人には、小さな得がある。
未来の子どもには、
大きな損が残る。
日本でも、
似た選択が積み重なっている。
教育予算を削る。
若い先生を非正規で雇う。
学校を統合する。
通学バスは、親の送迎で補う。
その時は合理的に見える。
だが十年後、
その地域から
子育て世代が消える。
未来の損失は、
今の会計帳簿には出てこない。
【新しいトレンド⑧】
今の大人へ小さな利益を配り、
未来の世代へ
大きな損失を送る制度は、
長く続きやすい。
………
■第9章
日本にもある幽霊教室
「でも日本では、
さすがにないよね」
「畑の大学は少ないじゃろう」
「じゃあ安心」
「日本には、
先生の足りない教室がある」
日本の公立学校では、
約四千人の教師が不足している。
「学校はある。
机も教科書もある。
でも先生が足りない」
「そうじゃ」
不足した分は、
教頭や他の先生が埋める。
休み時間を削る。
少人数授業をやめる。
部活動を減らす。
残った人が我慢する。
「日本人は、
学校を止めないもんな」
「止めんから、
不足が見えにくい」
「先生の我慢が、
制度を助けとる?」
「同時に、
制度を直すのも遅らせる」
インドでは、
存在しない学校を
「ある」ことにした。
日本では、
中身が薄くなった学校を
「まだ正常に動いている」
ことにする。
形は違う。
だが、
数字が現実を隠す点は同じだった。
授業は実施済み。
学校は開校中。
教員配置率は九十九%以上。
数字だけを見れば、
大きな問題には見えない。
だが一人の先生が倒れた学校では、
その一人の穴が、
全員の一日を変える。
ゆづきが言った。
「インドは、
建物がないからバレる」
「そうじゃ」
「日本は、
建物があるからバレにくい」
その言葉が、胸に刺さった。
日本の幽霊は、
透明ではない。
制服を着て、
チャイムを鳴らし、
今日も普通に動いている。
だから、余計に見えにくい。
【新しいトレンド⑨】
新興国は、
ない施設をあることにする。
成熟国は、
中身が薄くなった施設を、
まだ十分あることにする。
【リアルな数字⑨】
日本の教師不足は、約四千人。
………
■第10章
AIは畑まで歩かない
「AIで調べれば、
すぐ分かるんじゃない?」
「全部の書類が
同じ嘘ならどうする?」
学校名。
住所。
土地番号。
教員名簿。
試験結果。
全部そろっていれば、
AIは信頼度を高くする。
現地が畑だという情報が
入力されていなければ、
AIには畑が見えない。
「AIが嘘をついたんじゃない」
「人間の嘘を、
正確に読んだんじゃな」
「AIって役に立たん?」
「大量の矛盾を見つけるのは
得意じゃ」
「でも最後は?」
「靴を履いて、
住所まで行く人が要る」
「最新AIの最後の部品は、
人間の靴か」
僕は、思わずうなずいた。
AIは、匂いを嗅がない。
近所の老人へ、
「ここに大学がありますか」
と尋ねない。
子どもの顔色も見ない。
橋をたたいた時の、
鈍い音も聞かない。
「おじいちゃんも、
血圧の数字ばかり見とる」
「健康管理じゃ」
「数字が良くても、
しんどい日はあるじゃろ」
「ある」
「体も同じじゃな」
「そうじゃな」
数値は、現実の一部だ。
全部ではない。
AIは、
入力された世界では賢い。
だが、
入力されなかった世界では、
何も知らない。
だからAIが進歩するほど、
人間に必要なのは
「AIより速く計算する力」
ではなく、
「画面にない違和感を見つける力」
になる。
数字が合っているのに、
何かがおかしい。
住所があるのに、
建物がない。
配置済みなのに、
先生がいない。
安全と表示されているのに、
橋が鳴る。
その違和感を残せる人間が必要になる。
【新しいトレンド⑩】
AI時代の最大の弱点は、
計算間違いではない。
誰も入力しなかった現実である。
………
■第11章
ホルムズ海峡が消した出張
ホルムズ海峡を通る船が減る。
原油が上がる。
軽油が上がる。
役所の出張費も上がる。
「石油と大学が、つながるん?」
「検査官は、瞬間移動できん」
地方の学校を回るには、
車と人と時間が要る。
費用が上がれば、
財務担当者は言う。
「動画で確認できませんか」
学校は、校舎の映像を送る。
本棚。
学生。
教師。
だが、別の学校かもしれない。
検査の日だけ集めた人かもしれない。
生成AIで本を増やした映像かもしれない。
「ホルムズ海峡が、
偽大学を作ったん?」
「違う」
「じゃあ?」
「もともとあった嘘を、
見に行かなくてよい理由を
増やした」
燃料高で減るのは、
旅行だけではない。
橋の点検。
家庭訪問。
医療巡回。
災害確認。
学校監査。
「一番高くなるのは、
石油じゃなくて、
人が現地まで行くことかも」
「その通りじゃ」
ホルムズ海峡の危機は、
遠い海の話に見える。
だが海峡でタンカーが止まると、
地方の役所から一台の公用車が消える。
その車に乗るはずだった検査官が、
畑を見に行けなくなる。
世界経済は、
一本の線でつながっている。
原油。
燃料費。
出張削減。
オンライン検査。
偽の映像。
見逃される大学。
そして、
十分に教育されない教師。
大きな危機は、
最後には一人の子どもの教室へ届く。
【新しいトレンド⑪】
エネルギー危機は、
人間が現実を確認する回数まで減らす。
これから高価になるのは、
石油だけではない。
「人が現地へ行くこと」である。
………
■第12章
偽大学より怖いもの
物語の中の教師、
ミーラは、
三十二人の子どもの前に立つ。
その日は分数だった。
二分の一。
四分の二。
一人の男の子が聞く。
「数字が違うのに、
どうして同じなの?」
ミーラは止まる。
試験には合格した。
だが、
子どもがどこで迷うかを、
実習で十分に学んでいない。
「先生が悪いん?」
ゆづきが聞いた。
「教育を受けられなかった
被害者でもある」
「でも子どもから見たら?」
「十分な授業を
受けられないかもしれん」
一人の教師が、
一年三十人を三十年間教える。
延べ九百人。
教師候補百五十人なら、
十三万五千人。
「一つの大学の手抜きが、
何万人もの子どもへ
届くんじゃな」
「教師、看護師、整備士は、
そういう仕事じゃ」
資格を作る場所で省いた教育は、
卒業後に何百倍にも広がる。
整備士の訓練を削れば、
一台の故障では終わらない。
看護師の教育を削れば、
一人の患者では終わらない。
教師の実習を削れば、
一年では終わらない。
未来の何百人、何千人へ届く。
ここで一番恐ろしいのは、
卒業生全員が
悪い教師になるわけではないことだ。
自分で学び直し、
立派な教師になる人もいる。
本人の努力で穴が埋まる。
だから制度は直されない。
頑張る人が制度を救い、
その頑張りが制度の欠陥を隠す。
日本でも、
同じことが起きている。
足りない人員を、
真面目な人が埋める。
壊れた仕組みを、
責任感の強い人が支える。
そして最後に、
その人が倒れる。
【新しいトレンド⑫】
専門職の養成で削った教育は、
未来の利用者へ何百倍にも
増幅される。
さらに、
真面目な個人の努力が、
壊れた制度を見えなくすることがある。
………
■第13章
学生も悪いのか
「学生も、
授業が少ないって
知っとった人がおるじゃろ?」
「そうかもしれん」
毎日通わなくてよい。
働きながら資格を取れる。
試験だけ受ければよい。
学生にも都合がある。
学校は学費が欲しい。
大学は提携校を増やしたい。
行政は進学率を上げたい。
親は子どもへ資格を取らせたい。
「全員の小さな都合を足したら、
大学が畑になったんじゃな」
「そういうことじゃ」
「誰を罰すれば終わるん?」
「故意にだました人は罰する。
でも、それだけでは終わらん」
地方から通える交通。
本物のオンライン授業。
教育実習。
抜き打ち検査。
告発者を守る制度。
正直な学校を選んでも、
学生が損をしない仕組み。
「悪人を捕まえるだけでは、
次の畑ができるんじゃな」
「そうじゃ」
制度の不正は、
悪人一人の物語ではない。
多くの普通の人が、
「これくらいなら」
と目をつぶった時に生まれる。
日本でも同じだ。
研修動画を流したまま、
別の仕事をする。
点検表へ丸だけ付ける。
誰も読まない会議資料を作る。
本当は危ないと思いながら、
「前例通りです」
と書く。
一つ一つは、
小さな手抜きに見える。
だが積み重なると、
畑の上に大学が建つ。
「じゃあ、一番大事なのは何?」
ゆづきが聞いた。
「おかしいと言った人が、
損をしないことじゃ」
「告発したら、
仲間外れになる社会では
無理じゃな」
「そうじゃ」
未来を直すには、
正しいことを言える勇気だけでは
足りない。
言った人を守る仕組みが必要だ。
【新しいトレンド⑬】
制度的不正では、
被害者と加害者が同じ人の中に存在する。
だから処罰だけでなく、
正直な選択をしても
損をしない仕組みが必要になる。
………
■第14章
日本はインドを笑えるか
テレビの出演者が言った。
「日本では考えられません」
ゆづきが、僕を見た。
「本当に?」
「同じ形ではな」
日本には、
学校も病院も道路もある。
だが、人が足りない。
先生。
看護師。
運転手。
整備士。
水道職員。
役所の現場職員。
看板とホームページは残る。
中身だけが薄くなる。
「インドは、
ないものをあると言った」
「日本は?」
「薄くなったものを、
まだ十分あると思っとる」
インドは、
一階と二階を作る前に
三階を増やした。
日本は、
昔作った一階と二階を
修理しなくなった。
「どっちも、
三階の高さばかり見とるんじゃな」
「GDP。AI。新しいビル。
派手な政策」
「基礎は写真映えせんもんな」
「じゃが基礎がなければ、
全部落ちる」
日本再生に必要なのは、
新しい看板だけではない。
現場へ、
人と給料と時間を戻すことだ。
僕は、ゆづきに尋ねた。
「日本がもう一度強くなるには、
何を作ればええと思う?」
「半導体工場?」
「それも必要じゃ」
「AI?」
「それも必要じゃ」
「じゃあ何?」
「半導体工場を動かす電気。水。道路。
技術者。整備士。
そこで働く人の子どもを教える先生。
病気になった時の病院」
ゆづきは、少し考えた。
「新しい産業って、
新しいものだけじゃないんじゃな」
「古く見える基礎を、
新しい方法で守る仕事も
新産業じゃ」
人口が減る日本に必要なのは、
昔と同じ人数を、
根性で維持することではない。
AI、遠隔技術、ロボットを使う。
同時に、
人間が行くべき場所を選ぶ。
すべてをオンラインにするのではなく、
オンラインで浮いた時間を
現地確認へ回す。
効率化で人を切るのではなく、
効率化で現場の人を助ける。
ここを間違えれば、
日本も画面の中だけ立派な国になる。
【新しいトレンド⑭】
新興国には、
基礎を作る仕事が必要。
成熟国には、
古い基礎を修理し、
少ない人数で維持する新しい仕事が必要。
日本再生は、
派手な三階だけでなく、
一階と二階を
未来型に作り直すことから始まる。
………
■第15章
一階から直す仕事
物語の中のミーラは、
小学校へ戻る。
丸いパンを二つ用意する。
一つを半分に切る。
もう一つを四つに切り、
二つを皿へ載せる。
「ほら。
数字は違っても、
量は同じでしょう」
男の子が笑う。
「本当だ」
ミーラは言う。
「教科書に書いてあるから
同じなんじゃない」
「じゃあ、どうして?」
「現実に同じだから、
教科書にもそう書いてあるの」
自分の言葉が、胸に刺さる。
大学の書類には、
校舎があると書いてあった。
だが現実には、なかった。
現実が先。
書類は後。
教育が先。
資格は後。
ミーラは、卒業証書の裏へ書く。
《第一日目》
父親へ電話する。
「お父さん。
卒業証書は、偽物かもしれない」
父親は答える。
「お前まで、
偽物になる必要はない」
ゆづきは、テレビを見つめていた。
「日本も、
一階から直さんといけんな」
「誰が直す?」
「国?」
「国とは誰じゃ」
「人」
教師。
看護師。
整備士。
検査員。
運転手。
土木技術者。
水道職員。
介護士。
現地を歩く公務員。
AIの数字と、現実を比べる人。
「地味な仕事ばかりじゃな」
「一階は地味なもんじゃ」
「若者に、
やれって言うだけでは無理じゃろ」
「そうじゃ」
「給料を上げる。
休めるようにする。
技術を評価する」
「失敗を報告した人も守る」
「『やりがいがあります』
だけで募集するのをやめる」
「それが一番大事かもしれん」
ゆづきは、
しばらく画面の畑を見ていた。
「おじいちゃん」
「なんじゃ」
「わたしたちが働く頃、
日本の一階は残っとるかな」
僕は、
すぐには答えられなかった。
大丈夫だ、
と言うのは簡単だった。
日本には技術がある。
資産がある。
真面目な人もいる。
だが、
それだけで残るわけではない。
誰かが修理しなければ、
どんな基礎も壊れる。
僕は言った。
「残っとるかどうかではない」
「じゃあ?」
「残すかどうかじゃ」
ゆづきは、
少し驚いた顔をした。
「わたしたちが?」
「わしらもじゃ。
大人が全部壊した後で、
若者に直せとは言えん」
「じゃあ今から?」
「今からじゃ」
テレビの中では、畑に風が吹いていた。
大学はなかった。
だが地面はある。
一階を作り直す場所は、まだ残っていた。
【新しいトレンド⑮】
AI時代に価値が上がるのは、
AIが見られない現場へ行き、
壊れた基礎を発見し、
直せる人間である。
未来は、
若者だけが作るものではない。
今の大人が、
どれだけ壊さず渡せるかでも決まる。
………
❥Z世代のあなたへ
インドのニュースを見て、
「日本ではあり得ない」
と思ったかもしれない。
だが、この物語は、
インドを笑うための話ではない。
インドは、若者が多く、
学校や教師が足りない。
だから
資格と大学を急いで増やした。
その結果、
一階と二階のない
三階まで生まれてしまった。
日本は、
戦後に丈夫な一階を作った。
学校。
病院。
鉄道。
道路。
水道。
二階には、
教師、看護師、技術者、運転手、
公務員がいた。
その上に、
豊かな三階を作った。
だが今、
その一階と二階を支える人が
減っている。
建物が残っているから、
まだ大丈夫に見える。
インドは、
ないものを「ある」と登録した。
日本は、
薄くなったものを
「まだある」と思っている。
どちらも、
数字と現実の距離が広がっている。
AIは便利だ。
だがAIは、畑まで歩かない。
橋の音を聞かない。
子どもの表情を見ない。
一人暮らしの老人の声の変化に
気づかない。
だから、
これから必要なのは、
AIを使う人だけではない。
AIの答えを持って、
現地へ行く人だ。
教師。
看護師。
整備士。
検査員。
土木。
交通。
水道。
介護。
農業。
防災。
これらは、
古い仕事ではない。
文明の一階と二階を守る、
未来の仕事だ。
ただし、
若者へ責任だけを
押しつけてはいけない。
給料を払う。
休めるようにする。
技術を評価する。
失敗や不正を報告した人を守る。
社会が敬意を持つ。
そして、
AIやロボットを、
人を減らすためだけでなく、
人を守るために使う。
ここで、
あなた自身に考えてほしい。
日本がもう一度豊かになるとは、
GDP順位を上げることだろうか。
東京に高いビルを
建てることだろうか。
新しいAI企業を
増やすことだろうか。
それとも、
地方の学校に先生がいて、
病院に看護師がいて、
壊れかけた橋を見に行く人がいる
ことだろうか。
答えは、一つではない。
だが、
三階だけでは人は暮らせない。
最後に、
二つだけ覚えておいてほしい。
《経済が大きいことと、
暮らしの基礎が強いことは、
同じではない》
《データが正しいことと、
現実が正しいことも、
同じではない》
GDP。
認可番号。
ランキング。
口コミ。
AIの回答。
数字を見た後、
一度だけ尋ねてほしい。
《一階と二階は、
本当にあるのか》
そして、もう一つ。
《なければ、
誰が作り直すのか》
未来を作るのは、
三階から世界を見る人だけではない。
階段を下りる人。
靴を履く人。
畑まで歩く人。
地面を触る人。
最初の柱を立てる人だ。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才(笑)
ワトソン
「ホームズ先生。
大学が消えました」
ホームズ
「学生は?」
ワトソン
「卒業しました」
ホームズ
「先生は?」
ワトソン
「名簿にいます」
ホームズ
「校舎は?」
ワトソン
「畑です」
ホームズ
「ほな大学と違うか」
ワトソン
「認可番号があります」
ホームズ
「ほな大学やないかい」
ワトソン
「図書館はありません」
ホームズ
「ほな大学と違うか」
ワトソン
「蔵書三千冊と登録されています」
ホームズ
「ほな大学やないかい」
ワトソン
「本棚もありません」
ホームズ
「ただの畑やないか!」
ワトソン
「現地へ行きましょう」
ホームズ
「旅費は?」
ワトソン
「出ません」
ホームズ
「ではオンラインで」
ワトソン
「それで十年間、
見つからなかったんです!」
ホームズ
「航空写真を見ると、牛がいるぞ」
ワトソン
「学生ですか?」
ホームズ
「毎日登校している」
ワトソン
「牛ですからね!」
ホームズ
「卒業後の進路は?」
ワトソン
「乳業界です」
ホームズ
「就職率百%やないか!」
ワトソン
「牛の大学にするな!」
ホームズ
「インドは、
三階だけの家を建てた」
ワトソン
「日本には、
一階も二階もあります」
ホームズ
「先生は?」
ワトソン
「約四千人足りません」
ホームズ
「運転手は?」
ワトソン
「足りません」
ホームズ
「整備士は?」
ワトソン
「足りません」
ホームズ
「ほな、
二階から人が消えとるやないか!」
ワトソン
「日本では、
建物があれば、
まだ大丈夫と
いうことになっています」
ホームズ
「他国を笑う前に、
自分の足元を見ろということだ」
ワトソン
「今日は真面目ですね」
ホームズ
「私はいつも真面目だ」
ワトソン
「さっき、
牛を入学させましたよ」
ホームズ
「あれは畜産学部だ」
ワトソン
「まだ言うか!」
二人は、
大学があるはずだった畑を歩いた。
土から、
小さな芽が出ていた。
ワトソンが尋ねた。
「これは何の芽ですか?」
ホームズは答えた。
「未来だ」
「認可は?」
「ない」
「AIへの登録は?」
「ない」
「なぜ本物だと分かるんです?」
ホームズは、
芽の横へしゃがんだ。
「画面ではなく、
ここに生えているからだ」
「日本も、
ここから直せますか」
「家は、三階から直せない」
「では?」
「地面まで下りることだ」
「誰が直すんです?」
「若者だ」
「また若者ですか」
「いや」
「違うんですか?」
「若者に渡す前に、大人も直せ」
ワトソンは、少し笑った。
「珍しく責任を取りますね」
ホームズは、遠くの畑を見た。
「未来は、
若者だけの仕事ではない」
「では、給料は?」
「そこを出さなければ、
誰も直さん」
「最後だけ、
元証券マンになるな!」
――おしまい(笑)――
【作品の事実上の土台】
本作は、2026年7月に報じられた、
インド中部の教員養成校に関する
現地調査を参考にした
フィクションです。
報道で示された主な数字は、
提携校百二十九校。
私立百二十七校。
不備二十五校。
重大な問題五校。
登録住所に存在しなかった二校。
別住所で運営していた三校。
州内の教員養成機関六百校以上。
受け入れ可能人数五万八千人以上。
年間入学者約四万八千人。
一校で毎年最大百五十人。
以上です。
主人公である
67歳の元証券会社勤務のおじいちゃんと、
高校一年生の孫ゆづき、
ミーラ、父親、会話、小学校の場面、
ホルムズ海峡危機後の描写は、
物語として再構成しています。
これは、
インドを笑う話ではありません。
三階を急いで建てた国と、
昔作った一階と二階を
直さなくなった国。
二つの国が、
同じ問いへたどり着く物語です。
《その数字の下には、
本当に地面があるのか》
畑は、一
度も嘘をつきませんでした。
人間が、
畑を見に行かなかっただけなのです。




