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卵が高くなった朝、世界はもう戦争していた ――卵の値段から、世界がバグり始めた――

✦ 卵が高くなった朝、

 世界はもう戦争していた


――卵の値段から、

 世界がバグり始めた―


………


ゆづきのスマホに、

知らない番号から通知が来た。


《卵、また値上げらしい》


「……誰?」


通知の送り主は、

祖父だった。


台所では、

六十七歳の元証券マンが、

卵を一個だけ手に持っていた。


「ゆづき。この卵な。


 鳥インフルと、

 ホルムズ海峡と、

 タワマンの最上階と、

 英国で仕事を探している若者が、

 全員で値段を決めとる」


「意味わからんろ」


「意味が分からんまま、

 世界は君らの朝ごはんを

 高くしていく…」


その日、

ゆづきは初めて知った。


戦争は

ニュースの中で始まるのではない。


朝、

冷蔵庫を開けた時には、

もう始まっていることがある。


………


★ 目次


■第1章 

 卵が高くなった朝


■第2章 

 透明パックの正体


■第3章 

 ホルムズ海峡は巨大なETCだった


■第4章 

 船が通っても、安心ではない


■第5章 

 鳥は国境を読まない


■第6章 

 鳥インフルが朝ごはんに来る日


■第7章  

 近い国ほど、なぜ争うのか


■第8章 

 英国の若者は家賃に負けていた


■第9章 

 日本の若者は家の中で止まる


■第10章  

 タワマン最上階と修繕積立金


■第11章 

 Z世代を救った七百社の手紙


■第12章  

 ポリテクセンターは

 人生の翻訳機だった


■第13章 

 スペインは

 遠い親戚のニュースを見る


■第14章  

 インドは呼吸を輸出し始めた


■第15章 

 次の日本を直すのは、

 橋をつくる若者かもしれない


………


■第1章 

 卵が高くなった朝


スーパーの卵売り場で、

祖父は十個入りのパックを

持ち上げた。


「三百円を超えとる…」


「え。卵って、

 昔もっと安くなかった?」


高校一年生のゆづきが、

スマホをのぞき込んだ。


「全国平均で見ると、

 十個入りは今だいたい 

 三百十円から三百二十円。


 二〇二一年ごろは、

 二百十円台の月もあった」


「百円近く上がってる?」


「そうじゃ。

 卵十個で百円上がるいうのは、

 一個あたり十円じゃろ。


 でもな、

 卵は一個だけ買わん…」


祖父は、

買い物かごを見た。


「朝ごはん。

 お弁当。

 親子丼。

 ケーキ。

 マヨネーズ。

 ラーメン屋の煮卵。


 卵は、

 あちこちに化けて出る」


「卵って、食卓の 

 モブキャラじゃなくて、

 主役級なんだ」


「そうじゃ。

 しかも、

 今年の東京の卸売価格は、

 Mサイズ一キロ三百円前後。


 平年なら、 

 二百円台で落ち着くことも多い。


 鳥インフルで鶏が減る。

 飼料代が上がる。

 電気代が上がる。

 運ぶトラック代も上がる。


 すると、

 最後に十個入りのパックが

 黙って値上がりする」


ゆづきは、

卵の値札を見た。


「ニュースでは

 戦争って言うけど……

 戦争って、

 卵の値札に先に出るんだね」


祖父は、

ゆっくりうなずいた。


「そうじゃ。

 ミサイルは遠くで飛ぶ。

 でも値上げは、

 朝の冷蔵庫まで飛んでくる」


………


■第2章 

 透明パックの正体


家に帰ると、

祖父は卵の透明パックを

流しで洗い始めた。


「また取っとくの?」


「うむ」


「出た。

 世界経済って言いながら、

 ただの貧乏性」


祖父は、

パックの水を切った。


「ゆづき。

 今、日本では

 プラスチックの材料になる

 ナフサいう石油の成分が、

 足りんかもしれんと騒いどる」


「ナフサ?」


「石油を分けた時に出る、

 プラスチックのタネじゃ。

 そこからエチレンができる。


 エチレンから、

 この卵パックや、

 レジ袋や、

 洗剤の容器や、

 病院のチューブができる」


「透明パックって、

 石油の孫なんだ」


「そうじゃ」


祖父は、

洗ったパックを逆さに置いた。


「ホルムズ海峡が止まりかけた頃、

 日本ではエチレンを作る工場が

 減産した。


 プラスチックの材料になる

 ポリエチレンは、

 三月には前年より

 六割以上も生産が落ちた、

 という話も出ておる…」


「六割も?」


「十個あった透明パックを

 作る材料が、

 四個分くらいに減る感じじゃ」


ゆづきは、さっきまで

ただのゴミだったパックを見た。


「じゃあ、

 スーパーで卵が売ってても、

 入れ物が足りなくなったら

 売れなくなる?」


「そうじゃ。


 卵があっても、

 パックがない。


 弁当ができても、

 ふたがない。


 薬があっても、

 容器がない。


 中身があっても、

 運べんものが出てくる」


「怖っ……」


「だからじいちゃんは、

 取っとく…」


「それ、

 世界を救うため?」


「いや。


 次に卵を買った時、

 “パック代がもったいないな”

 と思わんためじゃ」


「急に小さい」


「世界経済いうのはな。

 最後はだいたい、

 台所の小さい判断に

 着地するんじゃ」


ゆづきは、

透明なパックを光にかざした。


「じゃあこれ、

 中東とつながってる?」


「うむ。

 父の日のふぐ刺しもな……


 下関の海で獲れた魚が、


 石油でできた

 透明な舟に守られて、

 海峡と港と工場を越え、


 最後は、

 父の日の夜、

 冷えた一杯の横で、

 わしの舌を黙らせたんじゃ」


ゆづきは、

笑いながら言った。


「ふぐ刺し一皿に、

 中東と日本と石油と

 おじいちゃんの酒が

 乗ってるんだ」


祖父はうなずいた。


「そうじゃ。

 世界は遠いようで、

 透明なパック一枚の薄さで

 食卓につながっとる」


………


■第3章 

 ホルムズ海峡は巨大なETCだった


「ニュースで、

 ホルムズ海峡を通る船が

 また増えたって……」


「増えたよ」


祖父は、

湯のみを置いた。


「六月十八日には、

 一日で二十五隻の商船が通った。

 戦争が始まった頃は、

 一日に三隻くらいしか

 動かなかったからな」


「二十五隻なら、

 もう元通りじゃないの?」


「いや」


祖父は首を振った。


「平時なら、一日に

 百二十隻くらい通る海峡じゃ。

 二十五隻というのは、

 いつもの五分の一くらい。


 コンビニで言えば、

 お弁当の棚に

 五個だけ残っとる状態じゃな」


「え……、

 全然戻ってないじゃん」


「そうじゃ。

 しかも通る船も、

 何でも通れるわけじゃない」


「どんな船?」


「まず、石油をたっぷり積んだ

 超大型タンカー。


 一隻で、二百万バレル近い

 原油を運べる船もある。


 日本なら、

 何日分ものガソリンや

 プラスチックの材料になる量じゃ」


「そんな船が、

 恐る恐る通ってるの?」


「うむ。

 六月二十一日には、

 サウジの 

 巨大タンカー三隻が通った。


 そのうち一隻は、

 日本向けじゃった…」


ゆづきは、

少し黙った。


「じゃあ、日本の車も、

 レジ袋も、卵のパックも……

 あの船に乗って来てるの?」


「そうじゃ。ただし、

 船長さんが海峡を見て

 『行けるぞ』と思っても、

 それだけでは進めん」


「なんで?」


「保険会社が

『もしミサイルが当たったら、

 誰が何百億円払うんじゃ』

 と言う」


「うわ……」


「船会社は

『本当に安全なんか』と言う。


 港は

『荷物を積んでも、

 次の船が来るんか』と言う。


 そして政府は

『相手を怒らせるな』

 と言う」


「みんな、同時にビビってるんだ」


「そうなんじゃ」…


祖父は、テーブルの上の

スマホを指で叩いた。


「だからホルムズ海峡は、

 ただの海の道じゃない。

 今は、世界で

 いちばん怖いETCじゃ」


「ETC?」


「通行料は、お金だけじゃない。

 保険料。

 時間。

 緊張。

 政治。

 命。


全部払える船だけが、

ゲートをくぐる」


「しかも、通過バーの向こうで

 ミサイル持ったおじさんが

 見とる…?」


「そうなんじゃ…。

 絶対、夜中に

 通りたくないETCだね……」


「でもな」


祖父は、

少し声を落とした。


「そのETCを通れなかった船の分だけ、

 日本のスーパーで、

 卵のパックが薄くなる。

 洗剤の容器が高くなる。

 病院のチューブも、

 畑のビニールも、

 少しずつ値段が上がる」


ゆづきは、

冷蔵庫の中の卵を見た。


「海峡のミサイルが、

朝ごはんに届くんだ」


「そうじゃ。

 世界の戦争は、

 ニュースの中で終わらん。


 最後は、冷蔵庫の前に立つ

 君らのところまで来るんじゃ」

………


■第4章 

 船が通っても、安心ではない


「だけど、

 船が通るなら、

 もう安心じゃないの?」


祖父は、

卵の殻を小皿に置いた。


「ゆづき。

 世界の卵の値段を見ると、

 その国が今どこで苦しんどるか、

 だいたい見えてくる」


「卵で?」


「うむ。

 日本では十個入りが、

 だいたい三百円前後じゃ。

 高くなった、高くなったと

 みんな言う。

 実際、

 数年前は二百円ちょっとで

 買える月もあったからな」


「百円上がったら、

 そりゃ高いよ」


「高い。


 でもな、

 世界を見たら、

 日本はまだ

 卵を毎朝食べられる国じゃ」


祖父は、

スマホで海外の値段を見せた。


「イギリスでは、

 十二個で一ポンド五十前後。

 日本円にすると、

 三百円ちょっとじゃが、

 これは卵の“出荷の値段”に近い。


 店で平飼いや有機の卵を買えば、

 十二個で

 千円近くすることもある」


「卵十二個で千円?」


「そうじゃ。


 オーストラリアでは、

 鳥インフルの影響もあって、

 十二個で七豪ドル、八豪ドル。


 日本円なら、

 七百円から八百円近い」


「高っ。卵、

 もうちょっとで焼肉じゃん」


「アメリカも去年は、

 一ダース、十二個で 

 八ドル近くまで上がった。


 日本円なら、

 千二百円近い」


「卵が一個、

 百円?」


「そうじゃ。

 アメリカでは、

 鳥インフルで鶏が減った時、

 “卵が高すぎて朝ごはんが変わった”

 とニュースになった」


ゆづきは、

箸を止めた。


「じゃあ、

 日本の卵が高いって言っても……

 まだ守られてる方なんだ」


「そうじゃ。


 日本は、

 鶏の飼料を外国から買う。

 石油も外国から買う。

 だから弱い。


 でも、

 養鶏場も、物流も、スーパーも、

 卵を十個ずつ

 きちんと並べる仕組みも、

 まだ動いとる」


「卵の値段って、

 国の体温計みたいだね」


「ええこと言うた」


祖父は、

醤油をほんの少しだけ垂らした。


「卵が高い国には、

 だいたい理由がある。


 鳥インフル。

 干ばつ。

 飼料不足。

 燃料高。

 戦争。

 通貨安。

 物流の混乱。


 つまり、卵の値札は、

 その国の“困りごとの通知表”じゃ」


「じゃあ日本は?」


「日本も、

 通知表に赤丸が増えとる。

 でもまだ、

 朝にスーパーへ行けば、

 卵がある。

 冷蔵庫に入れて、

 卵かけご飯ができる。


 それは、

 世界では案外、

 当たり前じゃない」


ゆづきは、

卵を見た。


「船が通っても、安心じゃないって、

 こういうこと?」


「そうじゃ。


 船が一隻通っても、

 保険料が高い。

 燃料が高い。

 飼料が高い。


 すると、

 遠い海峡の緊張が、

 最後は、

 十個入り三百円の卵になって

 君の朝ごはんに届く」


「世界って、

 遠回りして、

 冷蔵庫に入ってくるんだね」


「うむ。しかも、

 値札だけ置いて帰る」 


………


■第5章 

 鳥は国境を読まない


その夜、

テレビの画面に映ったのは、

オーストラリア西海岸の、

人気のない砂浜だった。


白い防護服の人が、

死んだ一羽の海鳥を

大きな袋に入れていた。


「これが、

 鳥インフル?」


「そうじゃ」


祖父は、

ニュースの字幕を読んだ。


「六月二十日。

 オーストラリアで初めて、

 危ない型の鳥インフルが

 見つかった」


「一羽だけ?」


「今は一羽じゃ。

 でも怖いのは、

 一羽が死んだことじゃない」


「何が怖いの?」


「オーストラリアはな。

 世界で最後まで、

 この型の鳥インフルが

 入っていなかった大陸なんじゃ」


ゆづきは、

画面を見た。


「最後の安全地帯?」


「そうじゃ。

 だから農家も、動物園も、

 海鳥を守る人も、

 みんな震えとる」


「なんで?」


祖父は、

卵のパックを指で叩いた。


「もし野鳥から、

 養鶏場に入ったら

 どうなると思う?」


「ニワトリが病気になる…」


「そうじゃ。

 しかも鳥インフルは、

 一羽だけ治して終わり、

 という病気じゃない。


 養鶏場で見つかったら、

 広がる前に、何万羽、

 時には何十万羽の鶏を

 処分せんといけん」


「何十万羽?」


「卵を産む鶏が減る。

 すると、

 スーパーに卵が届かん。

 届いても、

 値段が跳ね上がる」


「だからオーストラリアは、

 卵が高くなるのを怖がってるんだ」


「それだけじゃない」


祖父は、

画面に映る黒い鳥を見た。


「オーストラリアには、

 このウイルスに

 ほとんど出会ったことのない

 野鳥や海の動物がおる。


 黒鳥。

 海鳥。

 アシカ。

 タスマニアの珍しい鳥。


 病気に慣れていないから、

 一気に広がったら、 

 卵より先に

 生き物そのものが 

 消えるかもしれん」


ゆづきは、

少し背筋を伸ばした。


「人間は、

 国境でけんかしてるのに」


「うむ」


「鳥は、

 国境を読まない」


「人間は地図を見る。

 鳥は風を見る」


「じゃあ、

 島国でも守れない?」


「海は、

 人間には壁じゃ。

 でも渡り鳥には、

 ただの休憩所じゃ」


テレビでは、

海岸線を歩く人たちが映った。

何千キロも続く、

オーストラリアの海岸。


「全部探すの?」


「そうじゃ。


 死んだ鳥がいないか。

 弱った鳥がいないか。

 どこまで広がったか。

 長い海岸を、

 人が歩いて探すんじゃ」


「気が遠くなるね」


「人間は、

 空港でパスポートを見せる。


 でもウイルスは、

 鳥の羽に乗って、

 何も言わずに入ってくる」


ゆづきは、

冷蔵庫の卵を見た。


「鳥インフルって、

 ニュースの向こうの

 病気じゃないんだ」


「そうじゃ。

 海の向こうで鳥が倒れる。

 次に養鶏場が止まる。


 そして最後は、

 朝の卵焼きが少し高くなる」


祖父は、

静かに言った。


「人間は国境を太くして、

 “こっち側”と

 “あっち側”で争う。


 でも本当に怖いものは、

 空から、

 境界線を飛び越えてくるんじゃ」

………


■第6章 

 鳥インフルが朝ごはんに来る日


「鳥インフルが広がったら、

 どうなるの?」


「まず、鶏が減る」


「病気になった鶏だけ?」


「違う。


 一羽でも見つかったら、

 広がる前に、

 同じ養鶏場の鶏を

 まとめて処分することがある」


ゆづきの顔が固まった。


「全部?」


「全部じゃ。


 二〇二二年から

 二〇二三年にかけて、

 日本では二十六の都道府県で

 鳥インフルが出て、

 約千七百七十万羽の鶏が

 処分された」


「一千七百七十万羽……?」


「日本の人が一人ずつ、

 一羽を抱っこしても

 足りんくらいの数じゃ」


ゆづきは、

箸を止めた。


「そんなに鶏がいなくなったら、

 卵はどうなるの?」


「減る。

 卵を産む鶏が減る。


 新しいひよこを育てる。

 また卵を産めるようになるまで、

 時間がかかる。


 だから、

 今日一羽がいなくなると、

 来週だけじゃない。

 何か月も、

 卵の棚が苦しくなる」


祖父は、

冷蔵庫の卵を見た。


「アメリカでは、

 二〇二四年の終わりから

 二〇二五年の初めにかけて、

 卵を産む鶏が

 四千三百万羽以上、

 鳥インフル対策で失われた」


「四千三百万羽?」


「すると、

 一ダース十二個の卵が、

 一時は五ドル、

 六ドルまで上がった。


 日本円にしたら、

 十二個で八百円とか、

 千円近い世界じゃ」


「卵一個が、

 おにぎり一個みたいな

 値段じゃん……」


「そうじゃ。

 レストランは、

 目玉焼きに追加料金をつけた。


 朝ごはんの店が、

 “卵は別料金です”

 と言い始めた」


「鳥インフルって、

 鶏の病気じゃなくて、

 人間の朝ごはんを壊す

 病気なんだ」


「うむ。

 卵だけじゃない。


 マヨネーズ。

 ケーキ。

 プリン。

 親子丼。

 鶏肉。

 弁当。


 卵は、

 いろんな食べ物の中に

 こっそり住んどるからな」


「卵って、

 食卓のモブキャラじゃなくて、

 裏ボスだったんだ」


「そうじゃ」


祖父はうなずいた。


「鳥インフル。

 ホルムズ海峡。

 飼料。

 肥料。

 電気。

 輸送費。


 ニュースでは、

 別々の話に見える」


「でも?」


「食卓では、

 同じ皿に乗る」


ゆづきは、

卵焼きの端を箸でつまんだ。


「ニュースって、

 バラバラに見せてるだけ?」


「そうじゃ。本当はな。


 遠い国で鳥が倒れる。

 海峡で船が止まる。

 飼料が高くなる。

 養鶏場が苦しくなる。


 そして最後は、

 君の朝ごはんの

 卵焼きが小さくなる」


ゆづきは、

しばらく黙っていた。


「……ニュースって、

 だいたい同じ台所で

 つながってるんだね」


「うむ。世界は、

 テレビの中で別々に

 燃えとるように見えて、

 最後はいつも、

 冷蔵庫の前で一つになるんじゃ」


………


■第7章  

 近い国ほど、なぜ争うのか


「タイとカンボジアが、

 近い国なのに争ってるよね」


「近いからこそ、

 もめることがある」


「なんで?」


祖父は、

テーブルの上の醤油差しを

二人のあいだに置いた。


「相続と同じじゃ」


「相続?」


「知らん人と、

 この醤油差しを取り合うより、

 兄弟で、親の家と土地を

 どう分けるかの方が、

 何倍もこじれるじゃろ?」


「確かに……」


「血が近い。

 言葉も似とる。

 歴史も重なっとる。

 昔から行き来しとる。


 だからこそ、

 “ここは、うちのものじゃ”

 が強くなる」


「遠い国より、

 近所の方がケンカする感じ?」


「そうじゃ。


 国境の線そのものより、


 その向こうにある寺。

 昔の王様の記憶。

 地図に引かれた線。

 土地の下にある資源。

 国のプライド。


 そういうものが、

 何百年も積もって、

 兄弟げんかみたいに爆発する」


ゆづきは、

少し考えた。


「でも、

 タイもカンボジアも

 仏教の国なんでしょ?


 仏教って、

 ケンカしちゃだめって

 言ってるんじゃないの?」


「言っとる」


「じゃあ、

 なんでケンカになるの?」


祖父は、

少し黙った。


「人間はな。

 苦しい時には宗教に助けを求める。

 悲しい時には、手を合わせる。


 怖い時には、

 “どうか守ってください”

 と言う」


「うん」


「でもそのうち、

 “自分たちだけを守ってください”

 に変わる」


ゆづきは、

顔を上げた。


「それ、ちょっと怖いね」


「もっと怖いのは、

 その次じゃ」


祖父は言った。


「“自分たちが正しい。

 向こうは間違っている”

 となった時じゃ」


「宗教が悪いんじゃなくて?」


「宗教そのものは、

 人を落ち着かせるための

 杖みたいなもんじゃ。


 悲しい時に支えてくれる。

 弱い時に

 寄りかからせてくれる。


 でも人間は、

 その杖を振り回して、

 相手を叩きたくなる」


「うわ……

 人間が悪い!」


「そうじゃ。


 仏さまは、“争うな”

 と言っとる。


 でも人間は、

 “うちの仏さまの方が正しい”

 と言って争う」


「それ、

 めちゃくちゃ矛盾してる」


「人間は、

 矛盾を抱えたまま

 生きる動物じゃからな」


祖父は、

ゆづきに醤油差しを渡した。


「家族でもそうじゃろ。

 仲良くしたい。

 でも、お金。

 家。

 介護。

 親の思い出。


 そういうものが入ると、

 急に言葉が荒くなる」


「相続って、

 家族の国境問題なんだ」


「そうじゃ」


「じゃあ国同士の争いも、

 でっかい相続争い?」


「うむ。

 昔の地図。

 寺。

 土地。

 海。

 資源。


 みんな、

 “死んだ祖父ちゃんが残したもの”

 みたいな顔をして、

 今の人間をケンカさせる」


ゆづきは、

スマホの画面を伏せた。


「人間って、助けてほしくて

 宗教を信じるのに。

 信じるほど、

 相手を悪者にしたくなる

 こともあるんだね」


「そうじゃ。

 だから大事なのは、

 “自分だけが正しい”

 と思い始めた時じゃ」


「どうするの?」


「一回、深呼吸する」


「それだけ?」


「それだけが、いちばん難しい」


祖父は笑った。


「正しさは、

 胸にしまって持つぶんには

 あったかい。


 でも振り回したら、

 すぐ刃物になるんじゃ」


………


■第8章 

 英国の若者は家賃に負けていた


「英国の若者って、

 働きたいのに

 働けない人が多いんでしょ?」


「多い」


祖父は、

スマホの数字を見せた。


「英国では、

 十六歳から二十四歳までの

 若者のうち、


 学校にも行かず、

 働いてもおらず、

 職業訓練も受けていない人が、

 約十三・五%おる」


「十人に一人以上?」


「そうじゃ。人数にすると、

 だいたい九十万人近い」


ゆづきは、

スマホを見たまま言った。


「九十万人って……

 日本の地方都市が一つ、

 まるごと

 “人生のログイン画面”で

 固まっているような数じゃね」


「そうじゃ。しかもな、

 仕事が見つからんだけではない」


祖父は、

紙に三つ丸を描いた。


「一つ目。家賃」


「二つ目は?」


「病院」


「三つ目は?」


「仕事の入口じゃ」


ゆづきは、

首をかしげた。


「どういうこと?」


「英国の平均家賃は、

 月に千三百八十ポンドくらい。

 日本円にしたら、

 二十七万円前後じゃ」


「えっ、一か月の家賃が

 二十七万円?」


「ロンドンだけではない。

 英国全体の平均でも、

 それくらいの水準まで上がっとる」


「若者、

 働いても家賃で消えるじゃん」


「そうじゃ。

 初めて就職した若者が、

 給料をもらう。

 でも最初に消えるのが、

 スマホ代でも、推し活でもない。


 家賃じゃ!」


「人生のログインボーナスが、

 家賃に吸われる感じ?」


「その通りじゃ」


祖父はうなずいた。


「さらに病院も、

 すぐには見てもらえん。


 英国の公的医療NHSでは、

 治療を待っている人が

 七百万人を超えとる」


「七百万人?」


「病気になっても、

 すぐ診てもらえん。


 心がしんどくても、

 相談まで待つ。

 体が痛くても、

 治療まで待つ」


「働く前に、

 もう疲れてしまうね」


「そうじゃ。

 そこへ仕事の入口が細い。


 経験者募集。

 即戦力募集。

 でも若者は経験がない。

 経験を積む仕事がないから、

 経験者になれん」


「ゲームで言えば、

 最初の村から出られない」


「うむ。

 装備もない。

 回復薬もない。

 でもボスだけは強い…」


ゆづきは、

苦笑いした。


「それで人は、

 誰かを悪者にしたくなる?」


「そうじゃ。

 家がない。

 病院は待つ。

 仕事もない。


 すると人は、

 “誰かが自分の席を取った”

 と思いたくなる」


「外国人とか?」


「言いたくなる。


 でも本当は、

 住宅を十分に増やさなかった政治。

 若者が最初に働ける場所を

 細くした会社。

 長く待たせる医療。

 家賃だけを上げてきた仕組み。


 全部が重なっとる」


ゆづきは、

少し黙った。


「でも、一人の悪者を決める方が

 分かりやすいよね」


「そうじゃ。


 複雑な問題を、  

 一人の顔にすると、

 SNSでは伸びる。

 政治では票になる」


「でも、

 本当の答えじゃない」


「うむ」


祖父は、

静かに言った。


「若者が怒っとるのは、

 外国人そのものじゃない。


 “頑張っても、

 自分の人生が始まらん”

 その不安に怒っとるんじゃ」


ゆづきは、

窓の外を見た。


「英国の若者って、

 サボってるんじゃなくて。

 人生のスタート画面で、

 ずっと読み込み中なんだね」


「そうじゃ」


祖父は、

ゆっくりうなずいた。


「しかも、

 読み込み中のままでも、

 家賃だけは毎月、

 きっちり引き落とされるんじゃ」 


………


■第9章 

 日本の若者は家の中で止まる


「日本はどうなの?」


「英国は、

 家の外で弾かれやすい。


 日本は、

 家の中で止まりやすい」


「親の家があるから?」


「そうじゃ。


 親の家は、雨の日の

 屋根みたいなもんじゃ。


 外で転んでも、

 戻る場所がある。

 それは、

 ほんまは大事なことじゃ」


「じゃあ、

 何が問題なの?」


祖父は、

少し考えてから言った。


「屋根があるぶん、

 外へ出るタイミングを

 失いやすいことじゃ」


「どういうこと?」


「日本は今、

 仕事がゼロの国ではない。


 求人はある。

 コンビニも工場も介護も物流も、

 人がおらんと言っとる。


 でも若い人は、

 そこへ行っても、

 自分の人生が前へ進む感じが

 持てんことがある」


「働けばいいって、

 簡単に言えない?」


「言えん」


祖父は、

指を三本立てた。


「一つ。給料は入る。

 二つ。でも家賃や物価は高い。 


 三つ。働いても、結婚や

 子どもや家を持つ未来が

 見えにくい」


「ゲームで言ったら?」


「最初のクエストはできる。

 でも、

 次の町へ行く橋が

 見つからん感じじゃ」


「働いても、

 レベルアップした気がしない?」


「そうじゃ」


祖父は続けた。


「日本の十八歳への調査では、

 将来、結婚したいと思う人は

 六割近くおる。


 でも、

 “実際に結婚すると思う”人は

 四割台まで下がる」


「したいけど、

 できる気がしない?」


「うむ。

 夢がないんじゃない。

 夢の値段が、

 高くなりすぎたんじゃ」


ゆづきは、

スマホを伏せた。


「家を出る。

 一人で暮らす。

 働く。

 恋愛する。

 結婚する。


 全部、

 お金がいるもんね」


「そうじゃ。


 しかもSNSを開けば、

 同じ年の誰かが


 海外旅行。

 高そうな部屋。

 起業。

 推し活。

 結婚。

 赤ちゃん。


 人生のいい場面だけを

 毎日流してくる」


「人生の比較サイトみたい」


「そうじゃ。


 自分は親の家の自室で、

 布団の上におる。

 画面の向こうでは、

 誰かが人生を進めとる。


 すると、自分だけ読み込みが

 止まったように思えてくる」


ゆづきは言った。


「仕事が嫌なんじゃなくて。

 人生に

 ログインしたくない感じ?」


祖父は、

笑わなかった。


「その言葉、

 めちゃくちゃ分かりやすいわい」


少し間があった。


「日本には、ひきこもり状態の人が

 推計で百四十万人以上おる。


 もちろん、

 みんなが怠けとるわけじゃない。


 体がしんどい人。

 心が傷ついた人。

 学校でつまずいた人。

 職場で折れた人。


 いろんな理由で、

 ドアの手前に

 立ち止まっとる」


「日本は、

 家があるから助かる。

 でも家があるから、

 止まることもある」


「そうじゃ」


祖父は、

冷蔵庫の卵を見た。


「だから必要なんは、

 “早く働け”と 

 怒鳴ることじゃない。


 一日だけ見学する。

 週に二日だけ行く。

 少し勉強する。

 誰かと話す。


 人生へ戻るための、

 小さいログインボタンじゃ」


ゆづきは、

ゆっくりうなずいた。


「日本の若者は、

 やる気がないんじゃない。


 失敗した時に、

 もう一回やり直せる画面が

 見えにくいんだね」


「そうじゃ。


 英国の若者は、

 家賃に追い出される。

 日本の若者は、

 家の中で時計を止める。


 どっちも、

 人生の入口で

 立ち止まっとるんじゃ」


………


■第10章  

 タワマン最上階と修繕積立金


「東京のタワマンの上の方、

 現金で買う人がいるんだって」


「上空には金庫がある」


「金庫?」


「世界のお金が、

 眺めのいい部屋に眠る」


「下の人は?」


「ローン。

 家賃。

 管理費。

 修繕積立金。

 駐車場代。


 地上には請求書がある」


「同じマンションなのに?」


「同じ建物でも、

 見えている景色が違う」


ゆづきは言った。


「上の人は夜景を見て、

 下の人は引き落とし日を

 見るんだ…」


祖父は、

小さくうなずいた。


「社会も、

 だいたい縦長じゃ」


………


■第11章 

 Z世代を救った七百社の手紙


「でも、

 おじいちゃんの甥っ子は

 就職できたんだよね…」


「できた」


「あれほどハローワークでは

 苦労してたのに?」


「最初はな」


祖父は、

湯のみを両手で包んだ。


「求人票を見るじゃろ。


 企業は、

 経験者。

 資格あり。

 すぐ来られる人。

 休まない人。


 そんな言葉を並べる」


「でも若い人は、

 経験がない」


「そうじゃ。

 経験がないから応募できん。

 応募できんから経験がつかん。


 ゲームで言えば、

 最初の町の外へ出るには

 レベル十が必要なのに、


 最初の町には

 レベル上げする敵が

 おらんようなもんじゃ」


「それ、詰んでない?」


「詰みやすい」


祖父はうなずいた。


「甥っ子も、ハローワークで

 求人票を何枚見ても、

 自分が何をできる人間なのか、

 うまく言えんかった」


「できない人だったの?」


「違う」


祖父は、

少し強く言った。


「できることが、

 まだ言葉になってなかった

 だけじゃ」


「言葉?」


「ポリテクセンターではな。


 パソコン。

 機械。

 電気。

 介護。

 作業の手順。


 勉強だけじゃない。


 時間どおり来る。

 人の話を聞く。

 途中で投げ出さない。

 実習で手を動かす。


 そういうことも、

 先生が見とる」


「当たり前のことじゃん」


「当たり前が、会社では

 一番ほしいこともある…」


ゆづきは、

少し黙った。


「でも、

 それって履歴書に書いても

 伝わりにくいね」


「そうじゃ」


祖父は笑った。


「履歴書に

 “私は遅刻しません”

 と書いても、

 ちょっと怪しいじゃろ」


「うん。

 逆に心配になる」


「じゃから、

 ポリテクセンターが

 本人の代わりに言ったんじゃ。


 この人は、

 こういう訓練を受けた。

 こういう資格を取った。

 実習で、

 こういう作業ができた。


 出席も、

 作業態度も、

 ちゃんとしていた、と」


「本人の説明書を

 作ってくれたんだ」


「そうじゃ」


県内の企業、

およそ七百社へ。


一人の若者の

“できること”を、

小さなメールにして

送った。


すると企業から、

《一度、会ってみたい》

と返事が来た。


「七百社に?」


「そうじゃ」


「すごい……」


「甥っ子はな。

 仕事を探している人から、

 会社が会ってみたいと思う人に

 変わったんじゃ」


「本人は同じなのに?」


「同じじゃ。

 変わったのは、本人ではない。

 本人の見え方じゃ」


………


■第12章  

 ポリテクセンターは 

 人生の翻訳機だった


「じゃあ、

 そういう場所を

 もっと増やせばいいじゃん」


「その通りじゃ」


祖父は、

テーブルに箸を一本置いた。


「若者が困っとる時、


 大人はすぐ

 “働け”

 と言う」


「言うね」


「でも、

 それは泳げない人に

 “向こう岸まで泳げ”

 と言うようなもんじゃ」


「浮き輪は?」


「渡さない」


「ひどい!」


「橋もない。

 練習する浅い場所もない。

 失敗しても戻れる岸もない。

 それで“根性が足りん”

 と言う」


ゆづきは、

眉をひそめた。


「それは、

 若者が悪いんじゃないね」


「そうじゃ。


 今のZ世代は、

 就職先がないから

 悩んどるだけじゃない。


 入った会社が

 合わなかったらどうしよう。

 人間関係で

 壊れたらどうしよう。

 正社員に 

 なれなかったらどうしよう。

 AIに 

 仕事を取られたらどうしよう。


 家賃を払えるだろうか?

 結婚も子どもも、

 自分には無理なんじゃないか?


 そんな“不安の全部入り弁当”を

 毎日持って歩いとる」


「重すぎる……」


「だから、

 最初から週五日。

 最初から正社員。

 最初から完璧。


 そんな高い橋を、

 いきなり渡らせたらいけん」


「じゃあ、

 どうするの?」


祖父は、

箸を何本も並べた。


「週二日。

 半日だけ。

 職場見学。

 一週間の実習。

 資格の勉強。

 相談できる先生。


 失敗しても、

 もう一回やれる場所」


「小さい橋を、何本も作る?」


「そうじゃよ…」


「“働け”じゃなくて」


ゆづきが言った。


「“一回、

 渡ってみる?”だね」


祖父は、

ゆっくりうなずいた。


「日本の未来に必要なのは、

 若者を怒鳴る大人じゃない。


 若者が自分でも気づいていない

 “できること”を見つけて、

 会社に翻訳して渡す大人じゃ」


「翻訳機?」


「そうじゃ。若者の

 “何となく不安です”を、 

 “この仕事なら、

 ここから始められます”

 に翻訳する。


 若者の

 “自分には何もない”を、

 “この作業ができます。

 ここまで続けられました”

 に翻訳する」


ゆづきは、

しばらく黙っていた。


「将来って、

 一発で決めなくていいんだね」


「うむ」


祖父は笑った。


「人生は就職試験じゃない。

 何回でも、

 ログインし直せるゲームじゃ。


 ただし、

 一人でパスワードを忘れた時は、

 誰かが

 “再設定はこちらです”

 と教えてやらにゃいけん」


………


■第13章 

 スペインは

 遠い親戚のニュースを見る


「スペインのテレビって、

 中南米のニュースが

 多いよね」


「多い」


祖父は、

テレビの画面を見た。


「日本から見たら、

 スペインと中南米は

 海の向こうじゃろ。


 でも向こうの人って、

 スペイン人から見たら

 遠い親戚みたいなもんなんじゃ」


「親戚?」


「言葉が同じ。

 スペイン語で話せる。

 家族が移り住む。

 お金を送る。

 サッカーで泣く。


 大統領が変われば、

 スペインの食卓でも話題になる」


「海より、

 言葉の方が近いんだ」


「そうじゃ。


 国境より、

 同じ言葉で笑えることの方が

 人をつなぐ時がある」


ゆづきは、

少し考えた。


「じゃあ、

 日本にもそういうの

 増えるかな?」


「もう増えとる」


「東京だけ?」


「違う」


祖父は、

窓の外を指した。


「田んぼの横の工場で、

 東南アジアの若い人が働く。


 夕方になったら、

 近所のコンビニで

 日本語で弁当を買う。


 古いアパートの前に、

 自転車が並ぶ。


 その中に、

 日本の若者だけじゃない

 生活が混ざっとる」


「田舎にも?」


「田舎ほどじゃ。


 若い日本人が減った町に、

 外国から来た若い人が住む。


 工場。

 介護。

 農業。

 建設。


 町を回している人の中に、

 もう最初から

 外国の若者がおる」


「じゃあ、

 “外国人が増えた”じゃなくて?」


「そうじゃ」


祖父は、

ゆっくり言った。


「日本の田舎はもう、


 外国人が“来る場所”じゃない。


 一緒に働いて、

 一緒に買い物して、

 一緒に年を取っていく町に

 変わり始めとるんじゃ」


ゆづきは、

スマホを見た。


「世界って、

 飛行機で来るんじゃなくて、

 コンビニのレジに、

 先に来てるんだね」


「そうじゃ。国際化いうのはな。

 ニュースで始まるんじゃない。


 近所のコンビニで、

 『ありがとうございました』

 が増えた時に、

 もう始まっとるんじゃ」


………


■第14章  

 インドは呼吸を輸出し始めた


「インドのヨガも、そういう話?」


「そうじゃ。

 インドは今、

 呼吸まで産業にしとる」


「呼吸を売るの?」


「売るいうたら変じゃが、


 ヨガ教室。

 オンライン講座。

 先生の資格。

 瞑想アプリ。

 ヨガ旅行。

 ウェア。

 ホテルの健康合宿。


 “疲れた人を整える商売”が、

 どんどん大きくなっとる」


ゆづきは、

スマホをのぞいた。


「どれくらい?」


「インドのヨガ市場は、

 二〇二五年で

 五十億ドル前後。

 日本円にしたら、

 だいたい七千億円くらいじゃ」


「七千億円?」


「しかも、

 二〇三三年には

 一兆五千億円を超える、

 という予想もある」


「呼吸で一兆円?」


「そうじゃ。


 昔なら、

 お寺の横で

 静かにやっとったことを、


 今は世界中の人が

 スマホで予約して、

 動画を見て、

 先生にお金を払い、

 インドまで旅して習いに行く」


「インド、

 ITだけじゃなくて

 心のOSも輸出してるんだ」


「ええこと言うた」


祖父は笑った。


「しかもな。

 インドでは二〇二五年の

 国際ヨガの日に、

 一つの州だけでも

 八十万人以上が

 同じ日にヨガをした」


「八十万人?」


「地方都市が一つ、

 まとめて深呼吸したようなもんじゃ」


ゆづきは、

少し黙った。


「世界が不安だから、

 ヨガが伸びるの?」


「そうじゃ。


 戦争。

 熱波。

 物価。

 SNS。

 AI。

 就職の不安。


 頭の中がずっと

 通知だらけの人が増えとる」


「だから、

 心を静かにする時間に

 お金を払うんだ」


「うむ。

 ヨガは、

 悩みを消す魔法じゃない。


 家賃も、戦争も、

 就活の不安も消えん」


「じゃあ何?」


祖父は、

胸に手を当てた。


「不安に飲み込まれる前に、

 自分の中の電源を

 落とさんための技じゃ」


「Z世代にもいるね」


「いる。 


 世界が叫ぶほど、

 人は一回くらい

 自分の呼吸に戻らんといけん」


少し間があった。


「国旗を振る時間もいる。

 でも、国旗を畳んで、

 スマホを伏せて、

 “まだ息しとるな”

 と確かめる時間もいる」


「それが、

 インドが世界に売ってるもの?」


「そうじゃ。

 インドは今、

 体を曲げるポーズじゃなくて、


 壊れそうな人間が

 もう一度立ち上がるための

 “呼吸のインフラ”を

 世界に売っとるんじゃ」

………


■第15章 

 次の日本を直すのは、

 橋をつくる若者かもしれない


「ゆづき。

 もう一度、整理してみよう」


祖父は、

透明な卵パックを

テーブルに置いた。


「鳥インフルで、

 卵が減る。


 海峡が荒れて、

 パックの材料が高くなる。


 若者は、

 将来が見えんくなって、

 家の中で止まる」


「全部、

 別のニュースみたい」


「そう見えるだけじゃ」


祖父は言った。


「インドは、

 疲れた人に

 呼吸を整える方法を教えて、

 それを仕事にした。


 ポリテクセンターは、

 “自分には何もない”

 と思っとる若者を見つけて、

 会社へ七百通、

 メールを送った」


「つまり?」


「困っている人に、

 “もっと頑張れ”

 と言うんじゃなく、


 “君には、

 ここへ行ける道がある”

 と教えたんじゃ」


ゆづきは、

少し考えた。


「それが、

 次の日本の仕事?」


「そうじゃ」


祖父はうなずいた。


「日本は、

 同じ言葉。

 同じ空気。

 同じルールで

 長く暮らしてきた。


 だから少し違う人を見ると、

 “あっち側” “こっち側”

 と分けやすい」


「家族でも、

 近いほどケンカするもんね」


「そうじゃ。


 血が近いほど、相続でもめる。

 DNAが近いほど、国境でもめる。


 人間は、近い相手ほど

 線を引きたくなるんじゃ」


「じゃあ、

 次の世代のヒーローって?」


祖父は、

透明なパックを持ち上げた。


「線を太くする人じゃない。

 線の上に、橋をかける人じゃ」


「橋?」


「そうじゃ。


 外国から来た若者と、

 人手が足りん田舎の工場をつなぐ。


 仕事で転んだ人と、

 学び直せる場所をつなぐ。


 不安で眠れん人と、

 呼吸を整える時間をつなぐ。


 自信のない若者と、

 “会ってみたい”と言う

 会社をつなぐ」


「それって、

 地味じゃない?」


「地味じゃ」


祖父は笑った。


「でもな。


 水道が止まった時、

 いちばん偉いのは

 水道局の前で叫ぶ人じゃない。

 水を通す人じゃ」


「……うん」


「未来が止まった時も同じじゃ。


 いちばん偉いのは、

 “若者はだめじゃ”

 と怒鳴る人じゃない。


 止まった人の前に、

 “ここからなら、

 もう一回始められるで”

 と橋を置ける人じゃ」


ゆづきは、

静かに言った。


「AIを作る人より、

 橋を作る人?」


「AIを使って、

 橋を作ればええ」


祖父は言った。


「英語でもええ。

 介護でも、

 農業でも、

 工場でも、

 動画でもええ。


 自分の仕事で、

 人を分けるんじゃなく、


 一人でも多く

 次の場所へ渡らせる」


少し間があった。


「次の日本を救うのは、

 大声で国旗を振る英雄じゃない。


 “君の出番は、

 まだ終わってない”

 と伝えて、


 一人の未来を

 もう一度つなげる若者じゃ」


ゆづきは、

透明な卵パックを見た。


「それなら、

 私にもできるかも…」


「そうじゃ」


祖父は笑った。


「ヒーローはな。

 世界を一人で変える人じゃない。


 目の前で

 “接続できません”

 になった誰かを、

 もう一度、

 社会につなぐ人なんじゃ」


………


❥ Z世代のあなたと


百喩経に、

こんな話がある。


髪のない男が、

後ろから梨をぶつけられた。

頭は傷だらけになった。


なのに男は、

逃げもせず、

傷も見ずに言った。


「相手は、

 わしの頭を石だと

 思ったんじゃろ。


 物を知らん、

 困った人じゃ…」


周りの人は言った。


「それより先に、

 逃げなさい。

 頭を治しなさい」


………


これ、

今の人間の話じゃと思う。


宗教を学ぶ。

政治を学ぶ。

経済を学ぶ。

AIを学ぶ。

正しい知識を持つ。


すると人は、

だんだん世界を

0と1に分けたくなる。


正しい人。

間違った人。


味方。

敵。


勝ち組。

負け組。


日本人。

外国人。


でもな。


正しさを握りしめすぎると、

目の前で傷ついている人を見ても、


「あの人は努力が足りん」

「考え方が古い」

「自己責任じゃ」

と、

言いたくなってしまう。


それは、

梨を頭にぶつけられているのに、


「相手が間違っとる」


とだけ言って、

自分の傷を見ない男と

少し似とる。


人間は、

血が近いほど、

考え方が近いほど、

同じ正しさを信じるほど、

細かい違いを許せなくなる。


家族は相続でもめる。

近い国は国境でもめる。


同じ宗教の中でも、

“本当の教えはこっちじゃ”

と言って争う。


だから、

次の日本に必要なのは、

0か1かを

もっと速く決めるAIじゃない。


0と1のあいだに、


「まだ話せる」

「ここからやり直せる」

「一緒に渡ろう」


という橋をかける人じゃ。


卵が高い時も。

外国人を悪者にしたくなった時も。

誰かが働けなくなった時も。


まず、

“誰が悪いか”の前に、

“誰が傷ついているか”

を見てほしい。


橋をかける人は、

派手ではない。


でも、

壊れかけた社会では、

いちばん遅くまで

人を落とさずに支える

本当のヒーローじゃ。


正しさを振り回す前に、

一回だけ深呼吸する。


それが、

0と1のあいだに

橋をかける最初の仕事なんじゃ。


………


★ホームズ、ワトソン、やすきよ

 ――透明パック殺人未遂事件


ホームズ

「ワトソン君。大事件だ」


ワトソン

「殺人ですか?」


ホームズ

「卵パックが薄い」


ワトソン

「しょぼっ!」


ホームズ

「しょぼくない。

 これはホルムズ海峡、

 鳥インフル、

 タワマン格差、

 ヨガ経済までつながる」


ワトソン

「つなげすぎです。

 卵パックに地球を

 背負わせないでください」


そこへ、

やすきよが入ってきた。


✲やすし

「卵パック薄いんなら、

 二枚重ねたらええやないか!」


✲きよし

「兄さん!それやったら

 エチレン二倍です!」


✲やすし

「ほな、

 卵を手で持って帰ったらええ!」


✲きよし

「スーパーから十個、

 お手玉みたいに帰る人おるか!」


ホームズ

「結論です。

 世界は複雑です」


ワトソン

「でも、

 明日の卵は大事です」


✲やすし

「ほな世界平和は、

 卵かけご飯からや!」


✲きよし

「兄さん!

 醤油かけすぎたら、

 血圧が国境紛争起こします!」


✲祖父

「ゆづき。

 世界平和の第一歩は、

 減塩じゃ」


✲ゆづき

「おじいちゃん。

 今日の結論、

 エチレンじゃなくて醤油なの?」


✲祖父

「うむ。

 世界は複雑じゃが、

 朝ごはんは案外まっすぐじゃ」


――卵が高くなった朝、

 世界はもう戦争していた。


 でも、

 透明なパックの向こうで、

 人間はまだ、

 明日の朝ごはんを守ろうとしていた。

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