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目詰まりエフェクト ―― 一本のワイヤーで橋は落ちた。 では、栄養の切れた脳で、日本はどこまで傾くのか――

✦目詰まりエフェクト


―― 一本のワイヤーで橋は落ちた。

では、栄養の切れた脳で、

  日本はどこまで傾くのか――


………


日本人は、まだ笑っていた。


タクシーに乗り、

バスに乗り、

電車に乗り、

飛行機に乗り、


映画館で

ポップコーンを食べ、

遊園地で

ジェットコースターに並び、


スマホで

「今日も平和」

とつぶやいていた。


だが、

その笑顔の足元で、


世界のネジは

一本ずつ緩み始めていた。


一本のワイヤーで、

橋は落ちる。


一つの更新ファイルで、

空港は止まる。


一つの部品不足で、

工場は黙る。


一食抜いた脳で、

人間の判断力は

痩せる。


それでも日本人は言う。


「まあ、大丈夫でしょ」


この物語は、

その

「まあ、大丈夫でしょ」

が、


いちばん危ない時代の

話である。 


………


★目次


■第1章 

 今日も日本人は

 普通に乗っている


■第2章 

 休戦は平和ではなく、

 補給戦だった


■第3章 

 トマホークが来ない国


■第4章 

 安いドローンが

 高級国家の財布を焼く


■第5章 

 レアアースという首輪


■第6章 

 白い食品トレーが消える夜


■第7章 

 一本のワイヤーで

 橋は落ちた


■第8章 

 見えないネジが空港を止める


■第9章 

 潤滑油が切れると、

 世界は関節から●ぬ


■第10章 

 電車はまだ走っている。

 だから怖い


■第11章 

 遊園地のボルトは

 誰が締めたのか


■第12章  

 棚は笑い、

 発注画面は青ざめる


■第13章 

 飢えた脳は

 世界を狭く見る


■第14章  

 正常化バイアスという麻酔


■第15章 

 最後に落ちるのは、

 信用である 


………


■第1章 

 今日も日本人は

 普通に乗っている


朝七時三十八分。


高校一年生のゆづきは、

いつものように

駅のホームに立っていた。


電車は少し遅れていた。


理由は、

「安全確認のため」。


もう誰も驚かない。


サラリーマンは

スマホを見ている。


大学生は

イヤホンをしている。


スーツケースを持った

観光客は

写真を撮っている。


眠そうな高校生は、

片手で

菓子パンを食べている。


ホームの上には、

いつもの日本があった。


きれいに並ぶ人。

黙って待つ人。


遅延を見ても

怒鳴らない人。


諦めたように

スマホを見下ろす人。


電車が来た。


「黄色い線の内側に

 下がってください」


というアナウンスが流れる。


人々は

いつものように乗り込む。


誰も考えない。


この電車の

ブレーキ部品は、予定通り

交換されているのか?


センサーは

正常なのか?


運転士は

ちゃんと

眠れたのか?


整備士は

足りているのか?


潤滑油は、予定通り

入っているのか?


部品の納期は

遅れていないのか?


点検表に押されたハンコは、

本当に点検の証なのか?


ゆづきも、考えなかった。


だが、その日だけは違った。


スマホに 

祖父から

メッセージが来ていた。


「ゆづき、

 今日から乗り物に乗る時は、

 少しだけ想像してみい。


 その機械を支えとる

 小さな部品を…」


ゆづきは

眉をひそめた。


「また、

 じいちゃんの変な話が始まった」


祖父は六十七歳。

元証券会社勤務。


昔は株価チャートを

読んでいた。


今は、

世界の壊れかけた

配管を読んでいる。


電車のドアが閉まった。


その瞬間、

ゆづきはふと思った。


このドアは、

何個の部品で

閉まっているのだろう。


その中の一つが、

もし足りなかったら。


電車は

何事もなく走り出した。


だから、

車内の誰も怖がらなかった。


それが、

いちばん怖かった。


■第2章 

 休戦は平和ではなく、

 補給戦だった


その夜、

ニュースは明るい声で言った。


「アメリカ、

 イスラエル、

 イランの間で

 休戦が続いています」


父は言った。


「よかったな。これで

 少し落ち着くだろ…」


母も言った。


「ガソリンも

 下がるかしらね…」


ゆづきも、少し安心した。


けれど、祖父は笑わなかった。


「休戦いう言葉に、

 だまされたらいけん」


「だって、

 戦争止まったんでしょ?」


祖父は湯呑みを置いた。


「止まったんじゃない。

 倉庫の中で、

 次の戦争が始まったんじゃ」


「倉庫?」


「弾薬、燃料、迎撃ミサイル、

 ドローン、通信機器、

 レアアース、潤滑油。

 全部を数え直す。


 何が残っとるか。

 何が足りんか。

 次に撃てるか。

 次に守れるか。


 休戦とは、平和ではない。

 補給戦の時間じゃ!」


ゆづきはスマホを開いた。


Xには、

こんな投稿が流れていた。


《休戦って聞いて安心してる人、

 倉庫の在庫見てない。


 銃声が止まっただけで、

 補給戦は始まってる》


ゆづきはその投稿を見て、

胸が少し冷たくなった。


父はまだテレビを見ながら

言っている。


「まあ、

 しばらく大丈夫だろ…」


祖父は小さく言った。


「その“しばらく大丈夫”が、

 いちばん危ないんじゃ…」


ゆづきには、

祖父の声が

テレビのニュースより 

大きく聞こえた。


■第3章 

 トマホークが来ない国


翌日、

祖父は一枚の紙をゆづきに見せた。


「日本はな、アメリカから 

トマホークを買う話をしとった」


「ミサイル?」


「そうじゃ。

 遠くを攻撃できるミサイルじゃ」


「それがどうしたの?」


「戦争でアメリカが

 使いすぎたら、

 日本に来る分が

遅れるかもしれん」


ゆづきは一瞬、 

意味が分からなかった。


「買ったのに?」


「契約したからといって、

 実物が空から

 降ってくるわけじゃない」


祖父は紙に大きく書いた。


契約書 ≠ 在庫


「日本人は

 契約すると安心する。


 でも戦争は、

 契約書では動かん。


 倉庫の中身で動く」


ゆづきは黙った。


SNSには、

こんな投稿が流れていた。


《日本が買うはずだった

 トマホーク、

 米軍が先に使って納期遅れって、

 同盟国の防衛計画が

 米軍の在庫表に

 ぶら下がってるってことじゃん》


もう一つ。


《契約した防衛力って、

 届くまでは 

 ただのPDF防衛力》


ゆづきは笑いそうになった。


だが、笑えなかった。


自分の国の防衛が、

ネット通販の

「発送未定」

みたいに見えたからだ。


祖父は言った。


「ゆづき、

 これはミサイルだけの

 話じゃない。


 薬も、食品も、車も、 

 電車も同じじゃ。


 買った。

 発注した。

 予算はある。


 でもモノが来ない。


 これが

 目詰まりエフェクトじゃ」


「目詰まりエフェクト……?」


「そうじゃ。

 世界の配管が詰まると、

 お金があっても物が届かん」


ゆづきはその言葉を、

ノートの端に書いた。


お金があっても、物が届かない。


それは、

豊かな国の貧しさだった。


■第4章 

 安いドローンが 

 高級国家の財布を焼く


祖父は、

紙に二つの絵を描いた。


左に小さなドローン。

右に大きなミサイル。


「この小さなドローンが飛ぶ」


「うん」


「それを落とすために、

 高い迎撃ミサイルを撃つ」


「うん」


「撃ち落とした。

 勝った?」


「勝ったじゃん」


祖父は首を振った。


「空では勝った。


 でも財布では

 負けることがある」


「財布?」


「相手が安いものを出す。

 こっちは高いもので守る。


 これを何度も続けると、

 守っている側の

 財布が焼ける」


ゆづきは、

急に現実の話として分かった。


百円の嫌がらせを

防ぐために、

一万円の警備を

毎日払うようなものだ。


SNSには、

こんな投稿があった。


《安いドローンを

 高いミサイルで落とす戦争、


 勝ってるように見えて

 財布が負けてる》


祖父は言った。


「これからの戦争は、

 強い兵器を持っているだけでは

 勝てん。


 補充できるか。

 安く作れるか。

 部品が来るか。

 工場が回るか。


 それが勝負になる」


ゆづきはつぶやいた。


「戦争って、

 工場と家計簿なんだね」


祖父はうなずいた。


「そうじゃ。

 ミサイルのニュースは、

 スーパーの値札とつながっとる」


その瞬間、

ゆづきは昨日買わなかった

アイスを思い出した。


たった十円の値上げで、

買うのをやめたアイス。


遠い戦争と、

コンビニの冷凍ケースが、

細い糸でつながって見えた。


■第5章 

 レアアースという首輪


祖父は次に、地図を広げた。


「ホルムズ海峡を見る前に、

 中国を見るんじゃ」


「なんで中国?」


「レアアースじゃ」


ゆづきは聞いたことがあった。


スマホ、EV、風力発電、

ミサイル、ドローン。

いろいろなものに使われる材料。


「レアアースって、鉱物でしょ?」


「ただの鉱物じゃない。

 外交の首輪じゃ」


「首輪?」


祖父はペンで丸をつけた。


採掘。

分離。

精製。

磁石。

モーター。

センサー。

誘導装置。


「石を

 持っとるだけじゃ弱い。


 石を

 使える形にする力がいる。


 そこを握った国は、

 相手の工場の喉を握る」


ゆづきはぞっとした。


SNSには、

こんな投稿が流れていた。


《ホルムズは

 石油だけの話じゃない。


 レアアースと軍需部材の 

 通行許可制になったら、

 世界は誰に頭を下げるんだ?》


祖父は言った。


「中国船が

 笑って通るというのは、

 小説としては強い絵になる」


「どういう絵?」


「世界中が

 石油を見ている時、


 その船は

 石油ではなく、

 アメリカの弾薬工場の喉仏を

 運んでいる」


ゆづきは、

その表現をノートに書いた。


喉仏。


それは地図の言葉ではなく、

首を締める言葉だった。


■第6章 

 白い食品トレーが消える夜


その週の金曜日、

ゆづきは祖父とスーパーへ行った。


祖父は

肉売り場で立ち止まった。


「見てみい」


「肉?」


「違う。

 肉を包んどるものじゃ」


白い食品トレー。


いつもある。

当たり前にある。

誰も感謝しない。

誰も怖がらない。


祖父は言った。


「この白いトレーは、

 石油の子どもじゃ」


「また変なこと言う」


「ナフサ、エチレン、樹脂。

 石油から化学品ができる。


 化学品から

 トレー、袋、フィルム、

 容器ができる。


 中身があっても、 

 包むものがなければ売れん」


ゆづきは肉を見た。

その下の白いトレーを見た。


今まで一度も、

主役だと思ったことのない

ものだった。


店員が

値札を貼り替えていた。


また値上げ。

また価格改定。

またお詫び。


SNSには、

こんな投稿があった。


《ガソリンがあるかどうかより、

 商品を包む袋が

 来るかどうかの方が怖い》


もう一つ。


《棚に商品はある。

 でも次の納品数が半分。


 お客さんは

 棚だけ見て安心してるけど、 

 こっちは発注画面見て

 青くなってる》


祖父は言った。


「正常化バイアスいうのはな、

 棚にまだ商品があるから

 大丈夫と思う脳じゃ」


「じゃあ、 

 本当に見るべきなのは?」


「棚の奥じゃ。


 発注画面、配送便、包材、

 運転手、燃料、倉庫。


 未来は棚ではなく、 

 裏側に先に出る」


ゆづきは、

棚が急にハリボテに見えた。


表は明るい。

裏は青ざめている。


それが、

今の日本かもしれなかった。


■第7章  

 一本のワイヤーで橋は落ちた


祖父は翌朝、

ゆづきに写真を見せた。


巨大な橋が崩れている。

海に鉄骨が沈んでいる。


コンテナ船が

橋脚にぶつかっている。


「これ、映画?」


「現実じゃ。

 二〇二四年、アメリカの

 ボルチモアで起きた

 橋崩落事故じゃ」


ゆづきは画面を見つめた。


「何人も亡くなったんだよね」


祖父は静かにうなずいた。


「巨大な船が停電し、 

 操舵を失い、 

 橋にぶつかった。


 後の調査では、

 電気系統の小さな異常、

 緩んだ信号線が

 停電につながったとされた」


「信号線?」


「一本のワイヤーじゃ」


ゆづきの背中が冷たくなった。


巨大な橋。

巨大な船。

巨大な港。

巨大な物流。


それを崩した入口が、

一本のワイヤー。


祖父は言った。


「世界は大きなものから

 壊れると思うじゃろ…。


 でも本当は、

 小さすぎて

 誰も見なかった場所から

 壊れる」


SNSには、

こんな投稿が流れていた。


《一本のワイヤーで橋は落ちた。


 じゃあ

 一本の海峡が詰まったら、  

 国はどこから落ちるんだ?》


ゆづきは、

その投稿を何度も読んだ。


自分が毎日渡っている歩道橋。

乗っている電車。

使っているエレベーター。

映画館の非常口。

遊園地のジェットコースター。


その全部が、

誰かの点検と、

誰かの睡眠と、

どこかの部品で支えられている。


そして今、そのどれもが

細っているかもしれない。


その夜、

ゆづきは夢を見た。


橋の上を、

日本中の人が笑って歩いている。


橋の下では、

一本の細いワイヤーが、

静かにほどけていた。


■第8章 

 見えないネジが空港を止める


「もう一つある」


祖父は言った。


「令和のネジは目に見えん」


「どういうこと?」


「ソフトの更新じゃ」


祖父は、

世界中のパソコンが一斉に止まり、

空港、病院、銀行、会社が混乱した

IT障害の話をした。


「昔なら、

 ネジが外れたら 

 機械が止まった。


 今は、

 一つの更新ファイルが

 壊れるだけで、

 空港の出発案内が

 白板に戻る」


ゆづきはスマホを見た。


電車の時刻。

決済アプリ。

学校の連絡。

地図。

病院の予約。

友だちとの会話。

写真。

宿題。

小説投稿サイト。


全部、画面の中にある。


「もし、これが止まったら……」


祖父はうなずいた。


「人間は、 

 便利を手に入れたんじゃない。


 見えないネジを

 増やしたんじゃ」


SNSには、

こんな投稿があった。


《令和のネジは見えない。

 だから外れた時、 

 人間は

 どこを締め直せばいいか

 分からない》


ゆづきは思った。


世界は

スマートになったのではない。


故障箇所が見えなくなっただけ

かもしれない。


■第9章 

 潤滑油が切れると、 

 世界は関節から死ぬ


祖父の家の近くに、

古い町工場があった。


鉄を削る音。

油の匂い。

積まれた部品箱。

小さな換気扇。


祖父は言った。


「ここも

 ホルムズとつながっとる」


「こんな小さい工場が?」


「世界はな、

 大企業だけで

 動いとるんじゃない。


 こういう小さな工場が、

 大きな会社の

 関節を作っとる」


その時、

奥の機械がキーキーと鳴った。


工場の社長が顔をしかめた。


「また油か……」


祖父は低い声で言った。


「聞いたか」


「何を?」


「世界が壊れる音じゃ」


ゆづきは耳を澄ませた。


キーキー。


それは爆発音ではなかった。

ニュース速報でもなかった。

サイレンでもなかった。


小さな機械の悲鳴だった。


祖父は言った。


「潤滑油が足りんと、

 ベアリング、ポンプ、コンベヤー、

 港のクレーン、鉄道設備、冷凍機、

 農機、建機が苦しむ。


 原油危機は火で見える。

 潤滑油危機は音で始まる」


SNSには、

こんな声が流れていた。


《令和の倒産理由、

 売れないじゃなくて、

 作れない、

 包めない、

 運べない、

 になってる》


ゆづきは

工場の音を聞きながら思った。


世界は、

関節から死ぬのかもしれない。


■第10章 

 電車はまだ走っている。

 だから怖い


数日後、

ゆづきの乗った電車が急停車した。


大きな事故ではなかった。

車内アナウンスが流れた。


「安全確認を行っております」


人々はため息をついた。

怒鳴る人はいない。

もう、みんな慣れている。


だが、

ゆづきは慣れなかった。


祖父の言葉が頭に響いた。


交通は、

止まった時だけが

危険なのではない。


限界なのに 

走らせ続ける時が危険なのだ。


運転士は

眠れているか?


駅員は

足りているか?


部品は

予定通り届いているか?


ブレーキは

点検されているか?


潤滑油は

入っているか?


システムは

更新されているか?


乗客は

栄養を取っているか?


隣のサラリーマンが、

小さな菓子パンだけを

食べていた。


目の下にクマがある。


その人がもし、

タクシーの運転手だったら?

バスの運転手だったら?

飛行機の整備士だったら?

遊園地の点検係だったら?


ゆづきは急に怖くなった。


SNSには、

こんな投稿があった。


《最近、電車の遅延が

 “原因確認中”ばっかり。


 人手不足なのか、

 部品なのか、 

 設備なのか、

 疲労なのか、


 何が悪いのか分からないのが

 一番怖い!》


電車は

再び走り出した。


車内は

安心した空気に戻った。


ゆづきだけが、

その安心が怖かった。


■第11章 

 遊園地のボルトは誰が締めたのか


週末、

ミオが言った。


「今度、遊園地行かない?」


前なら、

ゆづきはすぐにうなずいた。


でも今は、

ジェットコースターのレールが

頭に浮かんだ。


ボルト。

溶接。

センサー。

ブレーキ。

非常停止装置。

点検記録。

作業員の睡眠。

部品の納期。

潤滑油。

電源。

ソフト更新。


ミオは笑った。


「何その顔。怖いの?」


ゆづきは言った。


「怖いっていうか

 ……誰が最後に

 ボルト締めたんだろうって?」


ミオは吹き出した。


「おばあちゃんみたい」


「違うよ。

 ボルチモアの橋だって、

 一本のワイヤーだったんだよ」


「またその話?」


「笑うかもしれないけど、

 乗り物って 

 全部そうじゃない?


 タクシーも、バスも、電車も、

 飛行機も、観覧車も。

 動いてるから安全って、

 誰が決めたの?」


ミオは少し黙った。


その夜、

ゆづきはXに投稿した。


《ジェットコースターに乗る前に、

 誰が最後にボルトを締めたのか

 考えてしまう時代になった。


 怖がりすぎかな?


 でも一本のワイヤーで

 橋が落ちた現実を見た後では、

 もう昔みたいに

 笑って乗れない》


返信が来た。


《それ

 考え出したら何も乗れない》


もう一つ。


《でも考えないから 

 事故が起きるんじゃないの》


ゆづきはスマホを閉じた。


怖がることは、

悪いことなのか。


それとも、

生き残るためのセンサーなのか。


■第12章 

 棚は笑い、 

 発注画面は青ざめる


スーパーの先輩が、

ゆづきに小声で言った。


「棚だけ見たら、

 まだ普通に見えるでしょ」


「はい」


「でも発注画面、 

 見たら違うよ」


先輩は指を折った。


次回入荷未定。

価格改定。

数量制限。

代替品提案。

納期遅延。

包材不足。

配送便調整。


「お客さんは棚を見て安心する。

 でも私らは、次の便を見る」


ゆづきは言った。


「未来は棚じゃなくて、

 発注画面に出るんですね」


先輩は少し驚いた顔をした。


「高校生がそんなこと言う?」


ゆづきは笑わなかった。


SNSには、

こんな投稿が流れていた。


《値上げPOPを貼るのが

 仕事じゃなくて、

 謝るのが仕事になってきた》


もう一つ。


《棚にある一個を見て 

 安心するな。

 次も入るかを見ろ》


祖父はその夜、言った。


「正常化バイアスはな、

 今あるものを見て

 安心する脳じゃ。


 だが危機は、

 次に来ないものとして現れる」


ゆづきは思った。


日本人は今、

棚の前で眠っている。


裏側の発注画面は、

もう警報を鳴らしているのに。


■第13章 

 飢えた脳は世界を狭く見る


祖父は、

ミネソタ飢餓実験の話をした。


「昔、健康な若者を

 半飢餓状態に置いた

 実験があった」


「そんなことしたの?」


「戦後の

 飢餓救済のためじゃ。


 するとどうなったか。


 体重が

 減っただけじゃない。


 頭の中が 

 食べ物でいっぱいになった。


 気分が沈んだ。

 怒りっぽくなった。

 孤立した。

 集中できなくなった。

 判断力が落ちた」


ゆづきは黙った。


祖父は続けた。


「飢えは胃袋だけを

 攻撃するんじゃない。


 前頭葉を攻撃する!」


ゆづきはレシートを見た。


米が高い。

肉が高い。

卵が高い。

魚が高い。

野菜が高い。


人は節約する。


安い炭水化物で腹を膨らませる。

タンパク質を減らす。


昼を抜く。


睡眠が乱れる。

怒りっぽくなる。


確認を飛ばす。


ハンドル操作が遅れる。

点検を見逃す。

ボタンを押し間違える。


SNSには、

こんな投稿があった。


《米が高いから麺にした。

 肉が高いから豆腐にした。

 卵も高いから

 一日一個にした。


 節約じゃなくて、

 食卓が痩せてるだけな

 気がする》


もう一つ。


《家計簿つけるたびに、

 食べる量じゃなくて

 考える力が削られてる

 気がする》


ゆづきは震えた。


値上げは、

財布だけに来るのではない。


脳に来る。


■第14章 

 正常化バイアスという麻酔


父は言った。


「おまえ、

 最近ちょっと考えすぎだぞ…」


母も言った。


「ニュースばかり見ると

 不安になるわよ…」


ミオも言った。


「怖がってたら

 何もできないじゃん…」


みんな正しい。


でも、

ゆづきには分かっていた。


それは正しさではなく、

麻酔かもしれない。


正常化バイアス。


昨日も大丈夫だった。

今日も大丈夫だろう。


電車は来る。

バスは走る。

飛行機は飛ぶ。

映画館は開く。

遊園地は動く。

スーパーには商品が並ぶ。

病院には薬がある。

スマホはつながる。


自分の判断力も、

いつも通りある。


そう思う脳。


祖父は言った。


「正常化バイアスは、 

 人間を守るための

 脳の働きでもある。


 毎日怖がっとったら

 生きていけん。


 じゃがな、

 時代が変わった時、

 その麻酔が命取りになる」


ゆづきは聞いた。


「じゃあ、

 どうすればいいの?」


祖父は答えた。


「怖がりすぎず、

 眠りすぎずじゃ」


「難しい」


「簡単に言えば、

 違和感を捨てるな、 

 ということじゃ」


SNSには、

こんな投稿が流れていた。


《みんな“考えすぎ”って言うけど、

 考えなさすぎた結果が

 大事故になるんじゃないの》


ゆづきはその投稿に、

初めていいねを押した。


■第15章 

 最後に落ちるのは、

 信用である


数週間後、

日本はまだ普通だった。


電車は走っていた。

スーパーは開いていた。

映画館は上映していた。

遊園地は笑い声でいっぱいだった。

タクシーは走り、

バスは停留所に来た。

飛行機は空を飛んでいた。


だから人々は言った。


「ほら、大丈夫だった」


でも、ゆづきにはもう、

その「大丈夫」が前と同じには

聞こえなかった。


ミサイルが

遅れる。


薬の包装が

遅れる。


食品トレーが

減る。  


工場の部品が

来ない。


潤滑油が

高い。


電車が

遅れる。


バスが

減る。


駅員が

疲れる。


運転手が 

眠れていない。


若者が

昼ごはんを抜く。


親が

安い食材でごまかす。


店員が 

謝り続ける。


SNSが

怒りで埋まる。


それらは別々ではない。


一本の配管だった。


ゆづきは、Xに投稿した。


《世界は

 ニュースで壊れるんじゃない。


 一本のワイヤー、

 一つの部品、

 一つの更新ファイル、


 一食抜いた脳、


 ひとつの信用のひびから

 壊れ始める。


 正常化バイアスで 

 笑っている間に、

 足元のネジは緩んでいる》


投稿ボタンを押す指が震えた。


すぐに返信が来た。


《煽りすぎ》


《怖がらせるな》


《でも、分かる》


《最近の遅延と値上げと欠品、

 全部別々じゃない気がしてた》


《ちゃんと食べようと思った》


《明日、親にこの話する》


ゆづきは

スマホを置いた。


祖父が

庭でラジオ体操をしていた。


「じいちゃん」


「なんじゃ」


「世界を怖がることって、

 悪いこと?」


祖父は首を振った。


「怖がるだけなら、

 ただの不安じゃ。


 でも、

 怖さを使って

 見る目を育てるなら、

 それは知恵になる」


「じゃあ、

 私は知恵にしたい」


祖父は笑った。


「ええこと言うのう」


ゆづきは空を見た。


飛行機が飛んでいた。


あの飛行機は、

燃料だけで飛んでいるのではない。


整備士の睡眠。

部品メーカーの納期。

潤滑油。

センサー。

管制官の集中力。

パイロットの朝ごはん。

空港のシステム。

世界の信用。


全部で飛んでいる。


ゆづきは初めて思った。


世界は便利なのではない。


奇跡的に、

まだ動いているだけなのだ。


そして、

その奇跡を守るには、

巨大な英雄はいらない。


小さな部品を見る目。

一食を抜かない勇気。

違和感を笑わない心。


それだけで、

世界は少しだけ倒れにくくなる。


一本のワイヤーで橋は落ちる。


でも、

一本の気づきで、

人は倒れずにすむ。


………


❥Z世代のあなたへ


君は、

「大丈夫」という言葉に

囲まれて生きている。


大丈夫?


日本だから

大丈夫。


電車は

安全だから大丈夫。


飛行機は

プロが見てるから大丈夫。


スーパーには

商品があるから大丈夫。


病院には

薬があるから大丈夫。  


スマホは

つながるから大丈夫。


ニュースは

大げさだから大丈夫。


でも、

その大丈夫は、 


誰かの

睡眠でできている。


誰かの

点検でできている。


誰かの手で締めたボルトで

できている。


どこかの工場で

作られた小さな部品で 

できている。


どこかの港を通った船で

できている。


どこかの国のレアアースで  

できている。


どこかの家庭の朝ごはんで

できている。


君が乗る電車も、

君が食べる弁当も、

君が見る映画も、

君が行く遊園地も、

君が使うスマホも、


全部、

見えない配管の上に乗っている。


だから、

ただ怖がれと言いたいのではない。


目を覚ませ、と言いたい。


ニュースを点で見るな。

線で見ろ。


値上げを財布だけで見るな。

食卓と脳で見ろ。


交通の遅延を迷惑だけで見るな。

人手と部品と疲労で見ろ。


戦争を遠い爆発音で見るな。


君の昼ごはんと、

薬袋と、

電車のブレーキで見ろ。


そして、

君自身の脳にも燃料を送れ。


食べろ。

眠れ。

歩け。


疑え。

つなげて考えろ。 


AIを使え。

でも、

AIに丸投げするな。


自分の生活に引き寄せて、

もう一度考えろ。


世界を読める人間は、

世界に読まれっぱなしにならない。


正常化バイアスの海で眠るな。


小さなネジを見る目を持て。


それが、

これからの時代の防衛力だ。


………


★あとがき


 ホームズとワトソンの

 やすきよ漫才風


ワトソン

「ホームズさん、

 今回ちょっと怖すぎますわ。


 タクシーもバスも電車も

 飛行機も

 ジェットコースターも、

 全部怖くなりましたやん」


ホームズ

「ワトソン君、

 怖がるのは悪いことではない」


ワトソン

「いやいや、

 わし明日バス乗るんですけど。


 運転手さんの朝ごはんまで

 心配せなあかんのですか?」


ホームズ

「それが

 現代社会を見るということだ」


ワトソン

「重いわ!

 バス代二百円で

 そこまで背負えませんわ!」


ホームズ

「だが、

 君が安心して乗れる背景には、


 運転手の睡眠、

 整備士の点検、

 部品会社の納期、

 燃料、潤滑油、道路、信号、

 全部がある」


ワトソン

「言われてみれば、

 二百円って安すぎますな」


ホームズ

「そうだ。

 文明とは、

 安すぎる奇跡の上に

 座っている状態なのだよ」


ワトソン

「ええこと言うなあ。

 けどホームズさん、

 遊園地の

 ジェットコースターまで

 怖くするのは反則ですわ」


ホームズ

「なぜだね」


ワトソン

「わし、

 あれ乗る前に

 ボルトの顔が浮かびますやん」


ホームズ

「ボルトにも人生がある」


ワトソン

「ありません!

 ボルトはボルトです!」


ホームズ

「だが、 

 そのボルト一本で

 人間の命が支えられている」


ワトソン

「急に深いこと言うな!」


ホームズ

「一本のワイヤーで

 橋は落ちた」


ワトソン

「出た。今日の決め台詞」


ホームズ

「一つの更新ファイルで

 空港は止まった」


ワトソン

「令和のネジは見えない、

 いうやつですな」


ホームズ

「一食抜いた脳で

 判断力は痩せる」


ワトソン

「それは分かります。

 わし、

 腹減ったら妻の

 『醤油取って』

 にも腹立ちますもん」


ホームズ

「それは 

 君の器が小さいだけかもしれん」


ワトソン

「やかましいわ!」


ホームズ

「だが、

 国民全体が寝不足で、

 栄養不足で、

 値上げ疲れで、

 怒りっぽくなったらどうなる?」


ワトソン

「SNSが地獄になります」


ホームズ

「もうなっているかもしれん」


ワトソン

「怖いこと言うな!」


ホームズ

「怖いから見るのだ」


ワトソン

「でも、

 見すぎたらしんどいですやん」


ホームズ

「そこで大切なのは、中道だ」


ワトソン

「出た、

 67歳のおじいちゃんの

 中道モード!」


ホームズ

「怖がりすぎず、眠りすぎず」


ワトソン

「つまり?」


ホームズ

「正常化バイアスで寝るな。

 不安で溺れるな。


 小さな違和感を、 

 生活の知恵に変えろ」


ワトソン

「なるほど。

 じゃあ、

 わし明日から 

 何をすればええんですか?」


ホームズ

「まず朝ごはんを食べる」


ワトソン

「そこから?」


ホームズ

「そこからだ。

 前頭葉に燃料を送れ」


ワトソン

「ミサイルより味噌汁ですな」


ホームズ

「そうだ」


ワトソン

「トマホークより卵焼き」


ホームズ

「言い方は軽いが、方向は正しい」


ワトソン

「レアアースより納豆」


ホームズ

「それは少し違う」


ワトソン

「潤滑油よりごま油」


ホームズ

「料理の話になっている」


ワトソン

「いや、でも大事ですやん。

 世界の関節も、

 わしの膝も、

 油切れたら終わりです」


ホームズ

「君の場合はまず運動不足だ」


ワトソン

「痛いところ突くな!」


ホームズ

「結論を言おう」


ワトソン

「お願いします」


ホームズ

「ホルムズ海峡が詰まった時こそ、

 ホームズの出番だ」


ワトソン

「またそれ言う!」


ホームズ

「だが本当のホームズは、

 名探偵だけではない。


 読者一人ひとりの中にある

 違和感の目だ」


ワトソン

「うまいなあ。

 つまり読者もホームズになれと」


ホームズ

「そうだ」


ワトソン

「じゃあ、

 わしはワトソンでええですか」


ホームズ

「君は食べる係だ」


ワトソン

「なんでやねん!」


ホームズ

「だが、それも大事だ。


 食べて、笑って、

 疑って、眠る。


 それが最初の防衛力だ」


ワトソン

「ほな読者の皆さん」


ホームズ

「世界を怖がるだけでなく」


ワトソン

「世界の小さなネジを

 見ましょう」


ホームズ

「そして」


ワトソン

「ちゃんと食べましょう!」


二人は笑った。


笑いながら、

どこかで

小さなネジが緩む音を聞いた。


今度は、

聞こえなかったふりを

しなかった。

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