ウイルスは 水の詰まりを知っている ――八年後、七十五歳の僕が病原体の地図を読み始めた日――
✦ウイルスは
水の詰まりを知っている
――八年後、七十五歳の僕が
病原体の地図を読み始めた日――
………
感染症の最初の証言者は、
医者ではなかった。
水だった。
ウイルスは、
人間を狙ったわけではない。
ただ、
人間が作った穴を通っただけだ。
水が詰まり、
血液が淀み、
薬が途絶え、
病院の刃先が鈍り、
観光客が溢れ、
老人が弱り、
信頼が腐ったとき――
病原体は
世界地図を開いた。
国境など見ていなかった。
見ていたのは、
ただ、
水の詰まりだけだった。
………
★目次
■第1章
Xのタイムラインは、
もう腐臭を放っていた
■第2章
水は、
最初の証言者だった
■第3章
透明な水ほど怖かった
■第4章
フィジーの注射器は、
血液の地下鉄だった
■第5章
はしかは平均値を信じない
■第6章
観光立国ニッポンは、
ウイルスの乗換駅になった
■第7章
タングステンが止まると、
病院の刃先が鈍る
■第8章
アンチモンとエチレンの
小さな不在
■第9章
薬棚が空になる日
■第10章
熱波は、
蚊のために町を温める
■第11章
下水は、
黙っている感染者を
知っていた
■第12章
クマは山から来たのではない
■第13章
WHOが叫ぶ頃、
ウイルスは次の水路を
見つけている
■第14章
75歳の僕は、
自分の体に小さな国家を作る
■第15章
ウイルスが嫌がる老人
………
■第1章
Xのタイムラインは、
もう腐臭を放っていた
その朝、
Xのタイムラインは、
いつものように怒っていた。
けれど八年前とは違った。
怒りの底に、
においがあった。
腐った水のような、
薬棚の奥のような、
熱で蒸れた病室のような、
言葉にならないにおいだった。
「今年の夏、
ヤバすぎ。
部屋の中で38度超えた」
「薬局に行ったら、
いつもの薬が
ないって言われた」
「病院の待ち時間4時間。
救急なのに、
もう救急じゃない」
「学校から、
はしか注意。
令和に、
はしか?」
「蚊がデカい。
刺された跡が
三日たっても腫れてる」
「観光地、
人多すぎ。
咳してる人、
多くない?」
ひとつひとつは、
ただの愚痴だった。
だが75歳になった僕には、
それが別々の投稿に見えなかった。
全部が、
同じ排水管につながっていた。
水道。
下水。
血液。
薬の物流。
観光客の人流。
病院の空気。
高齢者施設の換気。
SNSの情報。
人間同士の信頼。
それらが、
ゆっくりと、
確実に、
詰まり始めていた。
高校生になったゆづきが、
眠そうな目で言った。
「おじいちゃん、
またタイムライン睨んでる」
僕は
スマホから目を離さずに答えた。
「これはな、
小説になる前の現実の咳じゃ」
「咳?」
「そうじゃ。
世界が咳をしとる」
「世界が咳?」
「人間はまだ気づいとらん。
でも、
病原体はもう聞いとる」
ゆづきは笑おうとした。
だが笑えなかった。
その夜、
近所の七十代の男性が、
原因不明の肺炎で亡くなった
というニュースが流れた。
公式発表は、
「基礎疾患あり」。
誰も騒がなかった。
だが僕は、
画面の奥で、
何かが小さく笑った気がした。
これは始まりだ。
ウイルスは突然現れたのではない。
人間が作った穴に、
ただ滑り込んできただけだった。
………
■第2章
水は、最初の証言者だった
「おじいちゃん、
水の目詰まりって、
比喩でしょ?」
ゆづきが言った。
僕は首を振った。
「違う」
「違うの?」
「比喩ではない。歴史じゃ」
僕は古いノートを開いた。
そこに三つの名前を書いた。
ロンドン。
ミルウォーキー。
ウォーカートン。
「1854年のロンドンで、
コレラが流行った」
「中世の話?」
「いや、十九世紀。
近代の町じゃ」
当時、
人々は空気が悪いから
病気になると思っていた。
腐ったにおい。
貧民街。
神の罰。
悪い空気。
だが、
ひとりの医師が違うものを見た。
ジョン・スノー。
彼は死者の住所を地図に打った。
点は、
一つの場所へ集まっていた。
ブロード・ストリートのポンプ。
「ポンプ?」
「水をくむポンプじゃ」
「水で?」
「そうじゃ。
感染症の地図は、
水の地図だった」
ゆづきは黙った。
僕は続けた。
「多くの死者が、
そのポンプの水を飲んでいた。
後になって、
近くの汚物溜めから
水が汚染されていたことが
分かった」
「汚物って……」
「下水じゃ」
一つのポンプ。
一つの取っ手。
一つの汚れた水路。
それだけで、
町は死んだ。
「その取っ手は外された」
「それで止まったの?」
「完全にそれだけで
止まったとは言えん。
けれど、
人間が初めて、
水の地図で
感染症を読んだ瞬間じゃ」
ゆづきはスマホを見た。
Xでは、
「水道水、大丈夫?」
という投稿が流れていた。
僕は言った。
「感染症の最初の証言者は、
医者ではなかった」
「水?」
「そうじゃ。水だった」
ゆづきは、
台所の蛇口を見た。
そこから出る水は、
透明だった。
あまりにも透明だった。
だからこそ、
怖かった。
………
■第3章
透明な水ほど怖かった
本当に怖い水は、
茶色く濁った水ではない。
それなら人は飲まない。
本当に怖いのは、
透明なまま、
少しだけ汚れた水である。
冷たく、
無臭で、
コップの中で光っている。
人は安心して飲む。
その一口が、
町の排水管と自分の腸をつなぐ。
僕はゆづきに言った。
「水の怖さは、
透明なところにある」
「汚れてるなら、
濁るんじゃないの?」
「そうとは限らん」
僕は次の名前を書いた。
ミルウォーキー。
「1993年、
アメリカのミルウォーキーで、
水道水を通じて
クリプトスポリジウムという
病原体が広がった」
「どれくらい?」
「推定で、
約四十万人が下痢をした」
ゆづきの顔色が変わった。
「四十万人?」
「町の水処理が狂うと、
病原体は
蛇口から家庭へ配達される」
「配達……」
「宅配便と同じじゃ。
玄関まで来る。
ただし
中身は病気じゃ」
水道は文明の象徴だった。
だが、
水道が汚れれば、
文明そのものが
病原体の配送網になる。
僕は三つ目の名前を書いた。
ウォーカートン。
「カナダの町じゃ。
2000年、雨が降った。
家畜の糞尿由来の菌が
井戸へ入り、
管理の失敗が重なった。
七人が死に、
二千人以上が病気になった」
「雨が降っただけで?」
「雨だけではない。
雨、糞尿、浅い井戸、
塩素管理の甘さ。
小さな失敗が重なった」
僕は紙に矢印を書いた。
雨が降る
↓
畑の糞尿が流れる
↓
井戸に入る
↓
水処理が甘い
↓
蛇口から出る
↓
人が飲む
↓
町が倒れる
「これが、
水のバタフライエフェクトじゃ」
ゆづきは言った。
「蝶じゃないね」
「蝶ではない」
僕は低く言った。
「排水口じゃ」
ゆづきは
風呂場の排水口を思い出した。
少し髪の毛が絡まっていた。
ただの髪の毛だった。
けれど、
そこに世界の未来が
詰まっているように見えた。
………
■第4章
フィジーの注射器は、
血液の地下鉄だった
「水だけじゃないんだね」
ゆづきが言った。
「そうじゃ。
水の次は、
血液じゃ」
スマホには、
フィジーの青い海が映っていた。
白い砂浜。
リゾートホテル。
笑顔の観光客。
だがその裏側に、
別の水路が走っていた。
HIVの水路だった。
メタンフェタミン。
共有注射器。
若者の貧困。
検査に行けない恥。
観光と夜の街。
沈黙。
注射器が回る。
血液が回る。
HIVが乗る。
僕は紙に書いた。
薬物物流
↓
注射器物流
↓
血液物流
↓
HIV物流
「病原体は物流の専門家じゃ」
「物流って、
荷物の話じゃないの?」
「人間は荷物を運ぶ。
病原体は血液を運ぶ」
X風の声が流れていた。
「楽園の裏で、
注射器が
血液の水道管になっていた」
「HIVは突然来たんじゃない。
薬物と恥と
検査に行けない空気が
道を作った」
「赤ちゃんまで
巻き込まれている。
これは個人の問題じゃない。
社会の配管が壊れている」
ゆづきは小さく言った。
「怖いね」
「怖いのは
HIVだけじゃない」
「何が?」
「人間が、
自分で病原体の道を
作っていることじゃ」
水道管が汚れれば、
コレラが走る。
注射器が回れば、
HIVが走る。
SNSが濁れば、
ワクチン不信が走る。
病原体は、
いつも水路を探している。
そして人間は、
いつも気づくのが遅い。
………
■第5章
はしかは平均値を信じない
翌週、
ゆづきの学校から、
麻しん注意喚起の紙が配られた。
「おじいちゃん、
はしかって
昔の病気じゃないの?」
「ウイルスに
昔も今もない」
「でも
ワクチンあるでしょ?」
「ある」
「じゃあ、なんで?」
僕は
紙に大きな丸を書いた。
日本全体。
その中に、
小さな穴を三つ開けた。
「ウイルスは平均を見ない」
「平均?」
「全国平均の接種率が高くても、
未接種の穴があれば、
そこだけを見る」
「性格悪いね」
「性格はない。
ただ、穴を通る」
X風の声が流れていた。
「うちのクラス、
未接種の子が
何人かいるらしい。
親が自然免疫派」
「成人で抗体ない人、
意外と多いって聞いて
怖くなった」
「医療不信の強い地域で
接種率が落ちてるらしい」
はしかは、
正面から国を攻めない。
学校。
家庭。
思想。
宗教。
貧困。
情報の濁り。
小さな穴を見つける。
人間は言う。
「全体では大丈夫」
ウイルスは言う。
「全体など興味はない」
僕はノートに書いた。
免疫の虫食い地図。
それが、
八年後の感染症地図だった。
………
■第6章
観光立国ニッポンは、
ウイルスの乗換駅になった
成田空港は、
巨大な肺のように、
世界中の人を吸い込んでいた。
英語。
中国語。
韓国語。
スペイン語。
フランス語。
スーツケースの車輪が、
床をカラカラ鳴らす。
誰かが咳をした。
ゆづきが少し振り返った。
「気にしすぎだよ」
「そうかもしれん」
僕は言った。
「でも観光立国というのは、
感染症から見ると、
日本が世界の乗換駅になる
ということじゃ」
観光客が悪いわけではない。
問題は、
日本側の管が耐えられるかだ。
空港。
電車。
ホテル。
温泉。
飲食店。
祭り。
ライブ会場。
高齢者施設。
病院。
X風の声が流れる。
「温泉旅館で
外国人グループが咳してる。
地元のお年寄り、
大丈夫かな」
「観光地、人が多すぎ。
地元民が
病院行けなくなってる」
「はしか、コロナ、RS、
インフル、
全部同時流行の
予感しかしない」
ゆづきは言った。
「経済にはいいんでしょ?」
「いい」
「じゃあ、
悪いことじゃないじゃん」
「悪いことではない。
だが管を太くしないまま
水だけ増やせば、
排水口は詰まる」
その瞬間、
空港のアナウンスが流れた。
日本語。
英語。
中国語。
世界が日本に入ってくる。
僕は小さくつぶやいた。
「ウイルスよ。
お前も一緒に乗ってきたのか」
ゆづきは、
聞こえないふりをした。
………
■第7章
タングステンが止まると、
病院の刃先が鈍る
中国の
輸出規制ニュースが流れた日、
株式市場より先に、
僕は病院を思った。
タングステン。
アンチモン。
希土類。
ガリウム。
それは地味な単語だった。
だが地味な単語ほど、
文明の骨に刺さっている。
ゆづきは言った。
「タングステンって、
感染症と関係あるの?」
「ある」
「薬じゃないでしょ?」
「薬ではない。刃先じゃ」
「刃先?」
「医療機器を作る工具。
検査装置の部品。
精密加工。
センサー。
半導体。
ポンプ。
内視鏡。
分析機器。
病院の目と手を
支えるものじゃ」
X風の声が流れた。
「MRIの保守部品、
半年待ちって聞いた。
地方病院ヤバくない?」
「検査装置が古いまま。
壊れたら代替がない」
「医療機器って
薬より地味だけど、
止まったら詰む」
病院はまだ建っている。
医師もいる。
看護師もいる。
薬剤師もいる。
だが、
刃先が鈍り始めている。
ウイルスは、
そこを読む。
人間が検査する前に、
見逃される前に、
次の体へ移る。
病院の刃先が一ミリ鈍るだけで、
病原体には一キロの道が開く。
僕はノートに書いた。
医療の刃先鈍化。
ゆづきは言った。
「それ、怖すぎる」
「小説は、
怖いところを見ないと書けん」
………
■第8章
アンチモンとエチレンの
小さな不在
アンチモンが足りない。
エチレンが足りない。
普通の人は、
それを聞いても、
生活と結びつけにくい。
だが病院は違う。
注射器。
点滴バッグ。
チューブ。
採血管。
検査容器。
薬の包装。
手袋。
マスク。
ガウン。
滅菌パック。
医療の清潔さは、
見えない
石化素材の上に立っている。
ホルムズ海峡が詰まる。
ナフサが詰まる。
エチレンが細る。
樹脂が高くなる。
包装が足りない。
医療消耗品が高くなる。
そして病院は、
節約を始める。
「この検査は必要か」
「この患者は優先か」
「在庫は何日もつか」
「軽症なら自宅で見られないか」
ゆづきは言った。
「病院があるのに?」
「ある。
だが部材が流れん」
「水の目詰まりと同じ?」
「同じじゃ。
医療の水路が細る」
ウイルスから見れば、
これは好機だった。
人間は医療を持っている。
だが、
全員には使えない。
ならば、
後回しにされた人の中で
増えればいい。
………
■第9章
薬棚が空になる日
近所の薬局で、
母親が泣いていた。
「子どもが三十九度なんです。
何もないんですか?」
薬剤師は、
何度も頭を下げていた。
「申し訳ありません。
今、入荷が不安定で……」
それはニュースではなかった。
生活だった。
X風の声が拡散されていた。
「抗生物質が品薄。
子どもが熱出してるのに
出せない病院がある」
「いつもの高血圧薬が入らない。
代替薬で様子見って怖すぎ」
「感染症対策って、
医師だけじゃなく
薬棚で決まるんだな」
「菌より怖いのは、
薬がないこと」
僕は思った。
薬棚は、
現代の城壁だ。
その棚が空になると、
城門が開く。
普通なら治る感染症が長引く。
長引けば、
人にうつす時間も増える。
高齢者は戻りにくくなる。
病院はさらに混む。
そして薬は、
さらに足りなくなる。
ウイルスは、
薬棚の空白に旗を立てる。
ゆづきは言った。
「こんなの、パニックじゃん」
「まだパニックではない」
「じゃあ何?」
「パニックになる前の、
在庫の沈黙じゃ」
………
■第10章
熱波は、
蚊のために町を温める
ヨーロッパで、
四十度近い熱波が来た。
パリ。
マドリード。
ミラノ。
ロンドン。
人間は暑さで倒れた。
だが蚊は、
別の未来を見ていた。
断水。
バケツ。
屋外タンク。
植木鉢の皿。
側溝。
廃タイヤ。
豪雨後の水たまり。
熱波は水を乾かす。
しかし人間は、
乾いた世界で水をためる。
そこに蚊が卵を産む。
X風の声が流れる。
「パリでデング熱の話とか、
昔なら冗談だった」
「蚊が増えた。
暑いだけじゃない。
町が水たまりだらけ」
「病院の冷房が
弱くて高齢者が倒れてる。
ここに感染症が来たら
終わる」
熱波は感染症ではない。
だが熱波は、
感染症の舞台装置だった。
蚊を増やす。
人を冷房のある屋内に
集める。
高齢者の体力を
削る。
病院を
疲れさせる。
停電で
冷蔵と検査を弱らせる。
感染症は、
熱波の日に爆発しない。
一週間後。
三週間後。
一か月後。
遅れて来る。
だから怖い。
熱波は、
病原体の前処理だった。
………
■第11章
下水は、
黙っている感染者を知っていた
人間は嘘をつく。
「大丈夫です」
「熱はありません」
「検査には行きません」
「仕事を休めません」
「ただの風邪です」
だが
下水は嘘をつかない。
トイレを使えば、
体の中の情報は町の下へ流れる。
ウイルスのかけら。
菌の痕跡。
薬の成分。
人々の沈黙。
X風の声が流れていた。
「下水サーベイランスで
変異株検出。
病院の患者数より
早かったらしい」
「人間は検査を避ける。
でもトイレは使う」
「水は嘘をつかない、
って本当だったんだ」
僕はゆづきに言った。
「これからは、
人間に聞く前に
水に聞く時代じゃ」
「水がしゃべるの?」
「しゃべらん。
数字で告げる」
下水は、
都市の体温計になる。
だが、
下水を見ない町では、
ウイルスはまだ
隠れることができる。
病原体は、
人間の沈黙よりも、
監視されていない水路を好む。
水は、
未来を告げている。
問題は、
人間がその声を
聞くかどうかだった。
………
■第12章
クマは山から来たのではない
その年、
クマのニュースが増えた。
学校の近く。
スーパーの駐車場。
駅前。
住宅街。
ゆづきは言った。
「今度はクマ?
感染症と関係あるの?」
「ある」
「クマがウイルス運ぶの?」
「そういう話じゃない。
構造が同じなんじゃ」
森に餌がない。
里山に人がいない。
猟師が減る。
放置された柿の木が残る。
空き家が増える。
境界が消える。
クマは
山から来たのではない。
人里が、
クマのいる場所まで
広がったのだ。
僕はノートに書いた。
自然の逆流。
水が詰まれば
下水が逆流する。
森が詰まれば
クマが逆流する。
信頼が詰まれば
エボラが隠れる。
血液が詰まれば
HIVが裏道を走る。
情報が詰まれば
デマが広がる。
ゆづきは言った。
「全部、
押し戻されてる感じだね」
「そうじゃ。
人間が遠くに追いやったものが、
目詰まりで戻ってきている」
病気も。
クマも。
蚊も。
下水の臭いも。
向こうから
襲ってきたのではない。
こちら側の管が
詰まったのだ。
………
■第13章
WHOが叫ぶ頃、
ウイルスは次の水路を
見つけている
WHOが警報を出す時、
世界はようやく騒ぎ始める。
だが病原体は、
その時にはもう
次の水路を探している。
第0段階。
水が詰まる。
第1段階。
局地的な異変。
第2段階。
病院が違和感を覚える。
第3段階。
国内アウトブレイク。
第4段階。
国際拡大。
第5段階。
WHOが叫ぶ。
ゆづきは言った。
「じゃあ、WHOが悪いの?」
「違う。
WHOは消防団じゃ。
火が見えなければ出動できん」
「じゃあ遅いじゃん」
「病原体よりは遅い」
「どうすればいいの?」
僕は言った。
「病名を見る前に、
目詰まりを見る」
薬がない。
病院が混む。
はしか注意の紙が来る。
蚊が増える。
熱波が来る。
水道が壊れる。
観光地が詰まる。
高齢者施設で感染が出る。
SNSがざわつく。
これらは、
火事になる前の焦げ臭さだ。
ウイルスは、
WHOより早く水路を読む。
ならば人間も、
数字の発表を待つ前に、
町のにおいを
読まなければならない。
………
■第14章
75歳の僕は、
自分の体に小さな国家を作る
75歳になった僕は、
若者ではない。
膝は痛む。
血圧も気にしている。
眠りが浅い日もある。
物忘れもある。
だが僕には、
小さな国家があった。
朝のラジオ体操。
正信偈。
枕ストレッチ。
野菜炊き込み
ファイトケミカル玄米ご飯。
大豆。
納豆。
めかぶ。
卵。
カラオケ。
英語の歌。
チョコザップ。
電動アシスト自転車。
任天堂のゲーム。
娘との笑い。
AI小説。
それらは趣味ではなかった。
僕の中に作った、
小さな上下水道だった。
血を流す。
肺を広げる。
喉を使う。
腸を動かす。
筋肉を残す。
脳を動かす。
心を腐らせない。
孤独をよどませない。
ゆづきが言った。
「じいちゃん、
なんでそんなに毎日やるの?」
僕は答えた。
「怖いからじゃ」
「強いからじゃないの?」
「違う。
弱いと知っとるから、
動くんじゃ」
ウイルスの目で見れば、
僕はただの老人だ。
だが、
入りやすくても、
長居しにくい老人でありたい。
僕は小説ノートに書いた。
75歳の免疫インフラ。
そして、もう一行足した。
老いとは、
水が詰まりやすくなることだ。
だから毎日、
少しずつ流す。
………
■第15章
ウイルスが嫌がる老人
その冬、
新しい感染症が
静かに広がり始めた。
大流行とは呼ばれなかった。
ただ、
病院が混み、
薬が足りず、
高齢者施設で集団感染が増え、
学校から注意喚起が届き、
観光地で咳の動画が拡散され、
下水データだけが
先に赤くなっていた。
Xは
パニックの一歩手前だった。
「高齢者施設で
また集団感染。
薬がない」
「病院の待合室が地獄。
誰も助けられない」
「今年の熱、
長引きすぎ」
「国は何やってんだよ」
「下水データ、
これもうヤバいだろ」
ゆづきが震える声で聞いた。
「じいちゃん、
本当に怖くないの?」
僕は
腕を回しながら答えた。
「怖い」
「怖いんだ」
「当たり前じゃ」
「じゃあ、
なんでラジオ体操してるの?」
「怖いからじゃ」
「逃げないの?」
「逃げる場所はない」
僕は深く息を吸った。
「だから、今日も流す」
肺に空気を入れる。
腕を上げる。
足を動かす。
声を出す。
玄米を炊く。
大豆を噛む。
正信偈を唱える。
英語を歌う。
娘と笑う。
小説を書く。
世界は救えないかもしれない。
でも、
僕の体という小さな町の水路は、
今日も流しておきたい。
ウイルスは、
人間が空けた穴を通る。
ならば僕は、
自分の中の穴を、
毎日少しずつふさいでいく。
ゆづきがスマホを向けた。
「じいちゃん、撮るよ」
「待て。腹が出とる」
「それが
リアルでいいんだよ」
「リアルすぎるじゃろ」
「タイトル、決めた?」
僕は少し考えてから言った。
「ウイルスが嫌がる老人」
ゆづきは吹き出した。
「クリックされるかな?」
「される」
「なんで?」
僕は腕を大きく回した。
「Z世代はな、
案外、こういう
しぶとい老人を見たいんじゃ」
外では、
冬の風が吹いていた。
世界のどこかで、
水が詰まっていた。
どこかで、
蚊が増えていた。
どこかで、
薬棚が空になっていた。
どこかで、
病院の刃先が鈍っていた。
どこかで、
ウイルスが
次の水路を探していた。
それでも僕は、
今日も流れていた。
………
❥Z世代のあなたへ
大人たちは言う。
「大丈夫」
「国が何とかする」
「医療がある」
「技術が解決する」
「日本は清潔だから平気」
半分は本当だ。
でも、
半分は甘い。
ウイルスは、
肩書きを見ない。
学歴も見ない。
年収も見ない。
フォロワー数も見ない。
国籍も見ない。
見るのは、
流れているかどうかだ。
体が流れているか。
心がよどんでいないか。
情報が濁っていないか。
人とのつながりが
切れていないか。
水を持っているか。
トイレを考えているか。
検査を恥じないか。
ワクチン履歴を見ているか。
タンパク質をとっているか。
眠っているか。
声を出しているか。
少しでも動いているか。
未来の感染症対策は、
怖がることではない。
自分の中に、
小さな上下水道を作ることだ。
詰まらせないこと。
それが、
この時代に生き残る
いちばん地味で、
いちばん強い方法である。
………
★あとがき
ホームズとワトソンの
やすきよ漫才風
笑いと涙の締め
ワトソン
「ホームズさん、
今回の犯人は
ウイルスでっしゃろ?」
ホームズ
「違う、ワトソン君。
犯人はウイルスではない」
ワトソン
「えっ、
タイトルにウイルスって
書いてありますやん。
詐欺でっか?」
ホームズ
「犯人は目詰まりだ」
ワトソン
「排水口の話でっか?」
ホームズ
「水道、下水、血液、薬、
検査、ワクチン、信頼、
観光人流、医療部品。
全部の目詰まりだ」
ワトソン
「えらい大がかりな
排水管掃除ですな。
業者呼びまひょか?」
ホームズ
「業者では間に合わん」
ワトソン
「ほな
誰がやるんです?」
ホームズ
「75歳の老人だ」
ワトソン
「急に戦力が弱なった!」
ホームズ
「弱いから強いのだ」
ワトソン
「何を言うてますの?」
ホームズ
「彼は
毎朝ラジオ体操をする」
ワトソン
「ほう」
ホームズ
「正信偈を唱える」
ワトソン
「心の水が流れますな」
ホームズ
「カラオケで声を出す」
ワトソン
「肺の換気扇ですな」
ホームズ
「玄米に大豆を入れる」
ワトソン
「腸の下水処理場ですな」
ホームズ
「言い方!」
ワトソン
「ええ意味ですやん。
下水処理場は
町の良心でっせ」
ホームズ
「たしかに」
ワトソン
「AI小説は?」
ホームズ
「脳の
下水サーベイランスだ」
ワトソン
「心の変異株を早期発見!」
ホームズ
「うまいこと言うな」
ワトソン
「で、結論は?」
ホームズ
「ウイルスに勝つとは、
完全無敵になることではない」
ワトソン
「では?」
ホームズ
「詰まらないことだ」
ワトソン
「水も?」
ホームズ
「水も」
ワトソン
「血も?」
ホームズ
「血も」
ワトソン
「心も?」
ホームズ
「心も」
ワトソン
「情報も?」
ホームズ
「もちろん」
ワトソン
「ほな読者の皆さん、
今日から
何をすればええんです?」
ホームズ
「水を飲みなさい」
ワトソン
「体を動かしなさい」
ホームズ
「声を出しなさい」
ワトソン
「誰かと笑いなさい」
ホームズ
「変なデマは流さず」
ワトソン
「でも
自分の血流は流す」
ホームズ
「事件は解決だ」
ワトソン
「いや、
排水口の
髪の毛が残ってますけど」
ホームズ
「それは君が取れ」
ワトソン
「最後だけ雑!」
二人は笑った。
その笑い声の向こうで、
75歳の老人は、
明日の米を研いでいた。
水は、
まだ流れていた。




