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2 熊子と会う

 写真と同じ顔だった。熊子だ。

 おれは立ち上がって、向こうもこちらに気づいた。少し戸惑ったような顔をして、それから小さく頭を下げた。

「山吹さん、ですか?」

「はい」

「はじめまして」

「は、はじめまして」

 それだけで精いっぱいだった。女は写真よりもずっとまあまあだった。

「どうぞ、お座りください」

「はい」

 向かいあって座る。ウェイトレスが注文を取りに来た。熊子は紅茶を頼んだ。

 沈黙。

 紅茶が来る。

 沈黙。

 これはまずい。おれは何か話さなければと思った。

「今日はいい天気ですね」

 熊子は窓の外を見た。

「そうですね」

 微笑んだ。

「でも、少し寒いですね」

「そ、そうですね」

 また、

 沈黙。

 おれは死にたくなった。すると彼女が、

「山吹さんは、お仕事はどういうことをされているんですか?」

 と聞いてくれた。助かった。

「自分で事務所をやっています」

「そうなんですか」

「小さい事務所ですけどね」

「ずっと自営業をされているんですか?」

「いえ、会社勤めをしていた時期もあります」

 それから、おれは仕事のことを話した。彼女も自分の仕事について話した。話してみると、思ったより話しやすい。というより、こちらが話しているとき、彼女はよく話を聞いてくれた。相槌も自然だった。無理に話を合わせるわけでもない。笑うところでは笑う。わからないところでは質問する。そのことがおれにはありがたかった。

「山吹さんは休みの日は何をされているんですか?」

「寝ています」

 即答した。

 彼女が笑った。

「そんなに寝るんですか?」

「寝ます。人間は寝ているときが一番幸せですから」

「そうかもしれませんね」

「熊子さんは?」

「私は掃除をしたり、買い物に行ったり。あと、本を読んだり」

「本は何を?」

「いろいろです。小説も読みますし、旅行の本も」

「旅行、好きなんですか?」

「好きです」

 そこで彼女の顔が少し明るくなった。初めて見せた表情だった。その瞬間、おれは思った。ああ、この人は旅行が好きなんだな、と。当たり前だ。いま、自分で好きだと言ったばかりじゃないか。

 その日は一時間ほど話をした。

 別れ際、

「今日はありがとうございました」

 と彼女が言った。

「こちらこそ」

「楽しかったです」

 おれは一瞬、返事ができなかった。

 楽しかった。彼女はそう言った。おれと話をしていて。

「僕も……楽しかったです」

 そう答えた。

 ホテルを出て、車に乗り込む。エンジンをかけた。しかし、すぐには出発しなかった。ハンドルに手を置いたまま、ぼんやりと前を見ていた。

 なんだ。この感じは。別に恋をしたわけではない。胸が苦しくなるほど好きになったわけでもない。ただ、もう一度会ってもいいかな、そう思った。それだけだった。

 翌日、相談所から電話がかかってきた。

「先方も、もう一度お会いしたいとのことです」

 おれは思わず椅子から飛び上がった。

「本当ですか?」

「はい」

「それは……」

 考えるまでもなく、

「是非、是非」

 と言った。

 二度目は、最初より気楽だった。

 三度目になると、かなり自然に話せた。

 四度目には、相談所を通さず、直接電話で予定を決めるようになった。喫茶店だけではなく、一緒に食事をした。近くの公園を歩いた。本屋にも行った。彼女が選んだ旅行雑誌を見ながら、いつか一緒に行けたらいいですね、と話した。その「いつか」が、妙に嬉しかった。

 ただし、「いつか」という言葉には注意が必要である。人間は「いつか」と言うとき、未来に希望を託しているような顔をするが、実際には何も決めていない。結婚だってそうである。「いつか結婚したい」と言っているうちは自由だが、「来月の何日に結婚します」と言った瞬間から、役所だの親戚だの新居だの家具だの金だの、突然現実が押し寄せてくる。夢というものは、具体的な日付を与えた途端、請求書に変わるのである。その頃のおれは、まだ知らなかった。

 ある日、彼女と食事をしているとき、

「山吹さんって、最初にお会いしたとき、すごく緊張されてましたよね」

 と言われた。

「そうでしたか?」

「はい。天気の話ばかりしていました」

「……」

 覚えていたのか。

「私も緊張していたんですよ」

「そうなんですか?」

「はい。だから助かりました」

「何がです?」

「山吹さんが緊張していたので、私だけじゃないんだって思えて」

 彼女は笑った。

 おれも笑った。

 それだけのことだった。それだけなのに、妙に嬉しかった。

 ある晩、電話で二時間ほどを話した。仕事のこと。家族のこと。子供の頃のこと。好きな食べ物。嫌いな食べ物。くだらない話もした。最後に、

「今度どこか行きませんか」

 とおれが言った。

「はい」

 少し間があって、

「行きたいです」

 と彼女が答えた。電話を切ったあと、おれはしばらく受話器を見つめていた。そして、初めて気がついた。おれは、この人と話すのを楽しみにしている。会いたいと思っている。声を聞きたいと思っている。

 それは、もしかすると。

 いや。

 もしかするとではない。

 たぶん、好きになり始めているのだ。

 そのことに気づいた途端、急に怖くなった。人を好きになるということは、人に自分の弱いところを見せるということでもある。失えば傷つく。嫌われれば苦しい。結婚などすれば、なおさらだ。それまでのおれは一人でいれば傷つかずに済むと思っていた。何か嫌なことがあれば眠ればいい。誰かと喧嘩をする必要もない。誰かの機嫌を気にする必要もない。食事も自分の好きなものだけ食べればいい。便所も自分の好きな時間に行けばいい。

 それが自由というものだと思っていた。

 だが、熊子と会うようになってから、その考えが少しずつ変わっていった。一人で食べる飯より二人で食べる飯のほうがうまい。見たテレビの話を誰かにするのも悪くない。道端に変な犬がいたと話すと彼女は笑ってくれる。くだらない話をして、それをくだらないまま共有できる。そんなことが案外いいものなのだと知った。そして、交際を申し込む日が来た。

 特別な場所ではなかった。

 いつもの喫茶店だ。

 窓際の席で、彼女は紅茶を飲んでいた。

 おれは何度も言葉を考えた。結婚相談所の規則上、何回目のデートでどうする、というようなこともあるらしかった。だが、そんなものはどうでもよかった。自分の言葉で言いたかった。

「熊子さん」

「はい」

「僕と、正式にお付き合いしていただけませんか」

 彼女は少し目を伏せた。それから顔を上げた。

「はい」

 小さな声だった。

 けれど、はっきり聞こえた。

「こちらこそ、お願いします」

 外では風が吹いていた。窓の向こうを人が歩いている。車が走っている。いつもと変わらない午後だった。なのに、おれには世界が少し違って見えた。

 帰り道、車を運転しながら、おれは一人で笑っていた。

「まったく、人生というものはわからんものだな」

 誰に言うでもなく呟いた。少し前まで生まれてこなければよかった、と思っていた男が、今ではこの先も生きてみてもいいかもしれない、と思っている。それだけでもずいぶんな変化ではないか。もっとも、そのときのおれはまだ知らなかった。人間というものは恋人ができると、今までとは別の種類の苦労が始まるということを。それまでの苦労は自分一人で完結していた。腹が減れば自分で食べる。寂しければ寝る。嫌なことがあればテレビを見る。死にたくなれば、とりあえず翌朝まで待つ。実に簡単である。

 ところが二人になると、そうはいかない。

 相手が腹を減らしているかもしれない。寂しがっているかもしれない。怒っているかもしれない。そして何より恐ろしいことに、女が何を考えているのか、男には永遠にわからない。これは医学でも哲学でも解決されていない、人類最大の難問だ。そのうえ結婚ともなれば、さらに話はややこしくなる。

 しかし、その頃のおれはそんなことは知る由もなかった。

 ただ、好きな女ができた。

 それだけで十分だった。

 その夜、いつもより早く布団に入った。

 目を閉じる。夢の世界へ。野を越え、山を越える。川に飛び込む。地が裂ける。友が泣き、鬼が笑う。老婆が追ってくる。

 だが、その日は少し違った。夢の中に、熊子がいた。白い服を着て、こちらを見ている。

「山吹さん」

「はい」

「こっちですよ」

 おれは彼女の後をついていった。やがて、花咲く道に出た。

 遠くに山が見える。空が青い。

 おれはふと立ち止まった。

 こんなところまで来てしまったら、もう帰れないのではないか。そんな気がした。それでも彼女は振り返って笑った。

 おれは歩いた。

 その先に何があるのかはわからない。

 ただ、歩いてみようと思った。

 目が覚めると、朝だった。

 久しぶりに、目覚めることが嫌ではなかった。

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