1 メール着信!
その日の午後、パソコンはなかなか鳴らなかった。いや、正確にはメールの着信音が鳴らなかった。おれはテレビを見ながら、ときどきパソコンを見た。五分に一度。いや、三分に一度だったかもしれない。しまいにはテレビの画面よりパソコンに目をやっている時間のほうが長くなった。
十四時。
まだ来ない。
十四時半。
まだ来ない。
十五時。
何をぐずぐずしているのだ。だいたい結婚相談所というものは結婚したい男女を右から左へ流す商売ではないのか。資料一枚メールで送るのにどれだけ時間がかかってるんだ?
もっとも、考えてみればおれだって注文したラーメンが五分来なければ店員を呼び、十分来なければ腹を立て、十五分来なければ「この店は客を客と思っていない」と憤慨するわけだが、人生を左右する案件ともなれば慎重にやっているに違いない。つまり、おれという人間は他人に厳しく、自分に甘い、まことに結婚向きな人格なのだ。
おれは立ち上がって冷蔵庫を開けた。何もなかった。パソコンを見た。何もなかった。テレビを見た。男が女に別れを告げて、女が泣いていた。おれはそれを見ながら腹を立てた。
「ざまあ」
思わず口に出した。
何がざまあなのか。男が女と別れたことが気に入らないのか、女が泣いていることが気に入らないのか、それとも自分にはそもそも別れる相手すらいないことが気に入らないのか。
人生というものは原因と結果が複雑に絡み合っているようで、実際には単に腹が減っているだけだという場合も多い。おれの場合がまさにそうだ。
十六時を過ぎたころ、ようやくピンポーンとメールの着信音が鳴った。おれは飛び上がった。いや、実際には飛び上がってはいない。三十路を越えた男がたかがメール一通で飛び上がるのはいかがなものかと、飛び上がろうとした身体を途中で制止した。
パソコンの前に座り、メールを開いた。差出人は、にこにこ結婚相談所 (センター)。件名には『ご紹介の件』とあった。
「出たな」
マウスを握る手が汗ばんでいる。なんだ、この緊張感は。たかが見合いの資料じゃないか。おれはこう見えてもこれまで何人もの女を見てきた。テレビで、電車で、スーパーで。とにかく人間社会にはそれなりの数の女がいる。それなのにたった一枚の写真を見るだけで、なぜこうも緊張するのか。おれは深呼吸してクリックした。
画面に資料が表示された。まず名前。仮に熊子としておこう。三十一歳。おれより六歳下。T市在住。短大卒。会社員。身長一五八センチ。趣味、読書、旅行、料理。特技、英会話。家族構成、父、母、兄。
そして写真。
おれはしばらく画面を見つめた。
思っていたよりずっと普通の女性だった。白いブラウス。肩までの髪。化粧も濃くない。派手でもない。いわゆる美人という種類ではないのかもしれない。しかし、なんとなく気になる顔だった。目が大きいわけでもない。鼻が高いわけでもない。口元に特徴があるわけでもない。なのになぜか写真から目が離せない。
「……ふうん」
おれは腕を組んだ。
「まあまあだな」
プロフィールを最後まで読んだ。性格については『明るく穏やかで、責任感が強く、家庭的』と書いてあった。よくある文句だ。結婚相談所の紹介文など信用してはいけない。だいたい「明るく穏やか」と書いてあって、本当に明るく穏やかだった試しがない。もしそうならこの世から離婚というものはとっくになくなっているはずだ。逆に「気が強く、掃除が嫌いで、浪費癖があります」などと正直に書いてある女がいたら、それはそれで会ってみたい気がする。少なくとも嘘をつかない女というだけでおれにとってはかなりの美点だ。
それでもおれは何度も写真を見た。拡大もした。鼻の穴の奥まで見えるほど拡大したらさすがに気持ち悪くなって元に戻した。
それから数日して、おれは夢を見た。
熊子が出てきた。
なぜか二人で宇宙船に乗っていた。宇宙船の副操縦席で熊子が、「山吹さん、そろそろ夕飯ですよ」と言った。すると宇宙船の窓の外から巨大な蛸が飛んできて、おれはそれを避けるために操縦桿を引いた。その瞬間、宇宙船が哲学堂になった。便器が三つ並んでいた。熊子はそのうちの一つに腰を下ろし、「山吹さん、マーラーのアレを」と言った。おれは叫んだ。
「マーラーじゃない、リヒャルト・シュトラウスだ!」
そこで目が覚めた。最悪の目覚めだった。
「……結婚はやめておこう」
そう思った。
だが、その日の昼には相談所から電話がかかってきた。
「先方の方も、お会いしてみたいとのことでございます」
「そうですか」
胸がどきりとした。よろしくお願いします、と言おうとして、
「よろしくお願いします」
と言った。
「それでは、今度の土曜日などはいかがでしょうか」
土曜日はちょっと、と言おうとして、カレンダーを見た。
予定は何もない。あったとしても昼寝かテレビか、哲学堂で瞑想するか。
「大丈夫です」
「では、場所はT市のホテルの喫茶室でよろしいでしょうか」
「はい」
話は決まった。
電話を切ったあと、鏡を見た。ひどい顔だった。髪は伸びている。髭も剃っていない。シャツは染みだらけだ。これではいけない。結婚相談所から紹介された女と会うのであるから、おれにも男の沽券というものがある。
その日から、身だしなみに気を使い始めた。床屋へ行った。髭を剃った。爪を切った。靴を磨いた。車も洗った。それだけならよかった。問題は、そのあとだ。クローゼットを開けてみたところ、まともな服がない。服はあるのだが、まともと呼べるものがない。昔買った背広は肩のあたりが妙に古臭く、シャツは襟が黄ばんでいた。ネクタイに至っては、どれもこれも「自殺用のロープ」のようなものばかりだ。
比較的ましな背広を一着引っ張り出して、鏡の前でネクタイを締めた。
なんだかんだで、結局、普通のサラリーマンが会社に行くような格好になった。
当日の朝は、なぜか五時半に目が覚めた。二度寝しようとしたが眠れない。七時になった。飯を食う。胃が痛くなった。八時になった。まだ早い。九時になった。
結局、約束の一時間近く前に家を出た。
遠回りなどしてホテルには約束の十五分前に着いた。遅れるよりはいい。案内された席に座り、コーヒーを注文した。飲めない。緊張しているからだ。時計を見る。
約束の十分前。
入口を見る。
五分前。
入口を見る。
一分前。
入口を見る。
女が入ってきた。違う。
また女が入ってきた。違う。
こういうときの男というものは実に情けない。普段は「女なんて星の数ほどいる」などと豪語しているくせに、実際に一人の女を待つ段になると入口から目が離せない。しかも相手はまだ見も知らぬ女である。もし向こうから見て、おれが写真と違っていたらどうする。写真が十年前のだったらどうする。プロフィールの年齢が間違っていたら。何もかもが嫌になって帰ってしまおうかと思った、そのときだった。
約束の時刻を三分ほど過ぎたところで、一人の女性が入口に立った。




