ティル・ナ・ローグの妖精
薄紫の朝靄に包まれて、夢とも現ともつかない狭間に、意識だけが、ゆらゆらと漂っていた。
やがて山の端が朝陽に染まる頃、空の一角にミルク色のひとひらがふわりと浮かび上がる。
次々と舞い落ちるそれは大地を白く覆い、きん、こん、ころん―。澄んだ音色が辺りに響き渡った。
涼やかな音色に誘われ、勿忘草の妖精エラも目を覚ます。
きん、こん、こん、ぽろん―。
エラは、長いまつ毛をぱちりとまたたかせ、ベッドの上で小さく伸びをした。
「まずは翅を乾かさなきゃ」
ひとひらが降り積もると、外はまるで雪景色のよう。
ぽくり、ぽくり、と足元のひとひらを蹴散らしながら、エラは丘の上の樫の木の近くまで歩いていった。
薄い玉虫色だった翅は、陽光に翳すと水晶色に変わり、軽やかに羽ばたき始める。
その時、羽音とは違うかすかなノイズが耳元で鳴った。
慌てて辺りを見回すが、何もない。
「エラ、どうしたの? 難しい顔して」
優しい声に振り向くと、そこにはエラの大好きな竜人族の青年が立っていた。
「グリード! おはよう、今朝は早いのね」
エラは嬉しそうに彼の大きな体にぴょん、と飛びつく。
「あのね、グリード。さっき変な音が――」
エラの言葉を封じるように、グリードは身をかがめて、彼女の唇にそっとキスを落とす。
暖かく柔らかい感触にエラは頬を染め、彼の胸元に顔をうずめた。
その時、ふと、オレンジとミントの香りが鼻腔をくすぐった――気がした。
棘のような微かな違和感が、チクリと胸を刺す。
「それで、どうかしたの?」
大きな手がエラの頭を優しく撫でる。
「あ……なんだったかしら? なんだろう、忘れちゃった」
グリードが笑みを浮かべ甘く囁く。
「それなら〝忘れていればいい〟んじゃないかな。きっと必要のないことなんだよ」
「そっか。きっとそうね」
エラは不思議そうに瞬きをするが、すぐに「うん、大丈夫」とグリードにほほえみ返す。
すると、見上げた先で、彼の金の瞳が静かに揺らめいた。
「……?」
視界が淡く霞み、次の瞬間、フッ、と世界が闇に溶けた。