第二十二話 食堂の裏メニュー(アンゼリカ編二)
アンゼリカがいかにもおいしそうにアンゼリカスペシャル……という名の真っ赤な危険物質を食べているのを見て、ユイは本気でこの状況をどうしようかと思案し始める。
彼女の様子を見る限り、やはりこのメニューは何かしらの間違いによって作られたものではない。となると、それを理由に食べるのを拒否できないということになり、絶望的な状況を打破できないというわけで、結果的にこれを食べなければならないという結論に至る。正直な話、一口たりとも食べたくないのだが、それをトースト一枚分食べなければならないというのは想像を超える地獄のような気すらしてくる。
「あっ食後の赤辛ジュース。ユイさんの分もとってきますね」
赤辛ジュースなどという明らかに辛そうな物質を持ってくると言い残して、アンゼリカが席を立つ。
彼女の盆を見てみると、空になった皿とカップがもの寂しげに置いてあった。
どうやら、さっさと食べきってしまったらしい。
ユイは注文カウンターの方へと歩いていくアンゼリカの背中を見つめながら、手元にあるコーヒーにありったけの砂糖を投入する。
チャンスは今しかない。今のうちに食べてしまえば、どんな反応を見せたところで彼女にその姿を見られるようなことはない。
ユイの動向を追うような形で周りを観察し、彼女が戻ってことがないと確認して再び目の前のアンゼリカスペシャルと対面する。
気が付けば、周りに座る冒険者やらギルド職員からの哀れみの視線すら感じ始めている。特に近くに座っているマルカトがなぜか治癒魔法の準備をしているのだが、それは気にしたらいけないのかもしれない。
いや、そもそもこういう時は、見た目はこんなのでも食べてみたら意外とおいしいというのが提案だ。もしかしたら、この世界のスパイスは辛くなくて、これぐらいの量を振りかけないとピリ辛にならないとかそんな事情があるかもしれない。
ユイは恐る恐るアンゼリカスペシャルに手を伸ばす。鼻に近づけると、必要以上にかけられているスパイスがこれでもかいうほどユイの鼻を攻撃し始める。このままでは食べられそうにない。
そう考えたユイはいったん目をつぶって、小さく深呼吸をする。
「……そうよ。赤いのはイチゴジャム。辛くない」
どう考えても効果のなさそうな暗示をかけながらユイはついにアンゼリカスペシャルを口に含む。
その瞬間、口の中で何かがはじけるような感覚がした。別に炭酸が入っているわけでもない。辛い物を食べると口の中が痛くなるが、このアンゼリカスペシャルはそういったものを通り越して、火をふくどころかダイナマイトが爆発したのではないかという錯覚を受けるレベルの衝撃が襲い掛かってくる。前にふざけ半分でなめたハバネロよりも遥かに衝撃的な辛さたを。このアンゼリカスペシャル。ただのトーストにありったけのスパイスをかけただけかと思ったのだが、パンの生地にもなにかしらのスパイスが練り込んであるようだ。
ユイはあまりの衝撃にその場でのたうちまわりそうにすらなるが、必死にそれを押さえる。まだ一口しか食べていないのにこの有り様だ。少し厚めに切ってある食パン一枚分を食べるとなると、これから始まる地獄の奥深さを嫌でも実感してしまう。
あまりの辛さに激しくせき込みながらアンゼリカの姿を視界に収めてみるが、彼女はまだ注文カウンターに奇跡的にできている列に並んでいる。どうやら、夜遅く帰ってきた冒険者や遅番のギルド職員が集まりつつあるらしい。
なら、アンゼリカはしばらく戻ってこないだろう。
ユイは激甘ミルクコーヒーで口の中を消火しながら今一度アンゼリカスペシャルに手を伸ばす。
「……食べているうちに口が慣れるかしら……」
言霊と言うものが、本当に存在しているなら、そういうことを言いながら食べれば少しは辛さが中和されるのではないだろうか? そんな淡い期待を持ちながらもう一口。すると、一口目以上の衝撃がユイの口内を襲う。
最初の一口でなれるかと思ったのだが、どうやらこの料理はそんな風にして乗り切れるようなものではなかったらしい。
「アンゼリカ……よくこんな辛いものを食べれるわね。というか、こっちじゃこのぐらいが普通なのかしら?」
実際問題、中国の四川料理が辛いのは高温多湿な気候に理由があるなんて言う話を聞いたことがあるし、もしかしたらこの地下都市特有の事情がこうした辛い料理を生み出しているのかもしれない。いや、周りの人たちの視線を考慮すると、それはないだろう。ただ単純にアンゼリカの味覚がおかしな方向を向いているだけのような気もする。
「……おや、ユイさん。さっそく犠牲になっているんですね」
辛さで悶えている背後から聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ユイがゆっくりと振り返ってみると、配膳用の盆を持ったリコリスが小さく笑みを浮かべながら立っていた。
「……犠牲?」
「えぇ。アンゼリカと仲良くなった人はたいていアンゼリカスペシャルを食べて、今のユイさんと同じような状態に陥っているんですよ。まぁそういうわけで……砂糖水です。どうぞ、箸休めにでもご利用ください」
リコリスは終始笑顔を浮かべたまま砂糖水を置いてそのまま立ち去っていく。
せめて、アンゼリカをうまいこと説得してくれるだとかそういうような支援は期待できそうにない。
「……コーヒー半分と砂糖水が二杯……食べきれるかしら?」
普通に考えて、あんなことを言いながら砂糖水を置くということは、それを使うことで何とか乗り切れるということなのだろう。ただ、ただの水ではなくて砂糖水であるあたり、このアンゼリカスペシャルの攻略は容易ではないのだろうが……
ユイはリコリスからもらった砂糖水を一口含んでからアンゼリカスペシャルを食べる。辛い。あまりの辛さで意識が飛びそうになるが、砂糖水を流し込むことで何とか意識を現在にとどめさせる。
気が付けば、ひんやりとした空気の食堂の中にいるにも関わらず、額や背中に大量の汗を流しながしていた。台湾ラーメンの汁を一気飲みしてもここまでの汗は出ないだろうというほどの汗を流しながらも、目の前にあるトーストは半分にすらなっていない。
アンゼリカに目を向ける。
彼女はまだ注文カウンターだ。
これ以上続けていたらアンゼリカが帰ってきてしまう。赤辛ジュースという絶対に激辛なジュースをもって帰ってきてしまう。
その間にせめて口内を休ませておかないと、いろいろとひどいことになる可能性がある。
ユイは再び深呼吸をしてからアンゼリカスペシャルを一気に食べ進める。それこそ、どこかの早食い選手権に出場するぐらいのいきおいでトーストを口の中に押し込んでは何とか飲み込み、押し込んでは何とか飲み込みを繰り返す。この行為自体、相当体力を使っているのだが、アンゼリカに辛さで苦しみ悶えている姿を見せるよりはましだ。
大方予想通り、非常に強い衝撃がユイの口内を襲い、一気に意識を失いそうになる。しかし、ここで倒れてしまってはおごってくれると言ってくれたアンゼリカに失礼なので歯を食いしばって意識をつなぎとめる。
何とかしてアンゼリカスペシャルを飲み込むと、いつの間にか周りに集まっていたやじ馬から小さな歓声のような声が聞こえてくるが気にしない。
「……おい。あの娘。あのトーストを気絶せずに食べきったぞ」
「あぁ。こんなこと、アンゼリカ嬢をのぞいたら始めたじゃないか?」
「おいおい。これは伝説になるぞ!」
周りの人たちがにわかに騒ぎ始めるが極力聞こえないようにふるまう。というか、これまで食べた人が皆気絶しているとは……どうやら、意識が飛びかけたときに素直に気絶するのが正解だったようだ。いずれにしても、裏メニューという言葉に何かしらのトラウマを抱える可能性があるのは間違いないが……
下らない思考を必死になって巡らせて、辛いという感想をどこかにそらしながら、手元にあった砂糖水を一気に流し込む。しかし、それだけでは辛さは消えなかったので、さらにミルクコーヒーにも手を出して一気に流しこむ。
「はぁはぁ……何とか……なった……」
しかし、今日一日の疲れもあってか、ユイはそこで力尽きてそのまま机に伏せてしまう。
「……ユイさん! 大丈夫ですか!」
ちょうどそんなタイミングでアンゼリカの声が聞こえてくる。
ゆっくりと顔をあげてみると、アンゼリカが真っ赤な色をした地獄のドリンクをもって立っていた。
さすがにこれ以上辛いものが来るのは耐えられない。そう判断したユイは最後の気力を振り絞って体を起こす。
「……ごめん、アンゼリカ……その、今日のクエストが思ったよりも疲れたみたいだから……その、先に部屋に行っててもいい?」
「えっ? あぁそうですか? でも、赤辛ドリンクは……」
「その……せっかくだけど、アンゼリカ一人で飲んじゃっていいよ……それじゃ、私はこの辺で……」
これ以上食堂にはいたくないという気持ちが先行して、ユイはアンゼリカが納得しきる前に立ち上がる。
「おかしいですね。みなさん、いつもおいしすぎて気絶してしまうというのに……辛さが足りないのでしょうか……」
背後からの不穏な声は聞こえないようにしながらユイはふらふらとした歩調で食堂の出口へと向かう。
途中、マルカトの近くを通りかかると治癒魔法の準備をしていた彼女も立ち上がり、ユイのすぐ後ろについて歩き出した。
「……食堂を出たらいろいろと治療するので安心してください」
彼女の口ぶりからすると、この料理を食べた人の体調に何かしらの異常が出るのかもしれない。
ここはちゃんと厚意に甘えようと首を小さく盾に動かしておく。というよりも、トーストを一枚食べただけで足がふらつくという時点でおかしいのだ。もしかしたら、あのトーストには普通食品としては使わない様な物質が含まれているのかもしれない。
その後、ユイは食堂を出た直後にマルカトに治癒魔法を(主に口内と消化器官に向けて)かけてもらい、事なきを得た。
今度からはどんなものか聞いてから注文するようにしよう……
ユイは心の中でそう誓いながら自室へと向かった。




