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後編

 ぱっと強い風が吹き、目の前が白く煙りました。

 空から雪は降っていませんでしたが、辺りの木々や草や地面から、金剛石のような輝く粒が宙を舞ったのです。

 空気は冷たく、大きく息を吸うと鼻の奥がツンと痺れます。


 雪男のクレイグにしてみれば大したことのない寒さですが、人間にとっては辛いことでしょう。

 クレイグは隣を歩くリズを心配そうに見やり、そっと声をかけました。


「大丈夫かい、リズ」


 するとリズは花を咲かせるように微笑みました。


「大丈夫よ。わたしは寒い所が好きだもの。それよりも、クレイグは平気?」


「うん、僕は寒さに慣れているから平気だよ」


 むしろ、一人ではないという安堵から、温かいとさえ思っていました。でも、その気持ちはリズに伝えないことにしました。

 彼女は大丈夫と言っていましたが、そんなはずはないのですから。


 旅に出てから、既に幾度目かの陽が昇っていました。


 クレイグの足ならば、センティアルドまで一日か二日で辿り着くことが出来るでしょう。けれども人の子供の足ではその何倍もの時間が掛かってしまいます。ましてやリズは盲目で、玩具のような杖で辺りを探りながら慎重に歩いているのです。

 ソリには寝袋やテントや食料が積んであるので、人が乗る余裕はありません。

 いっそのことリズを抱え上げてしまおうかとも考えましたが、そのようなことをすれば獣であることを知られてしまい、街に着くまでもなく、そこで旅が終わることになってしまいます。

 結局、ゆっくりとひたむきに雪の上を歩くしかなかったのです。


 しばらくすると、リズが言いました。


「風が変わったわ。それに陽射しも」


 冷たさで赤く染まった彼女の頬に陽が照っていました。その温度で辺りの環境が変化したことを察したのでしょう。


「濃い茂みを抜けたんだよ。リズ、今ね、僕達の目の前には、それはそれは大きな真っ白な平原が広がっているんだ」


「平原?」


「うん」


 クレイグは頷いてから、気分を変えるために、ここでちょっと息抜きをしようと考えました。


「ねえ、リズ、君は思い切り走ったことはあるかい?」


「いいえ。カメティ村は小さいから、闇雲に走れば誰かにぶつかってしまうかも知れないし、せっかく育った野菜の苗を踏んでしまうかも知れないもの」


「ここだったら遠慮はいらない。それに転んだとしても、足元は綿よりも柔らかな雪だ」


「でも、怖いわ」


「安心して、僕が見守っている。僕の目は誰よりも大きく、君を見失うことは決してないから。さあ、いま向いている方向が南だよ」


 リズは覚悟を決めたようにコクリと首を縦に振り、そして、杖をクレイグに託すと、勢い良く走り出しました。その後ろ姿は転がる林檎のよう。

 ポテポテと走る彼女のことをクレイグはゆっくりと追いました。


 その時です。リズはつまずいて雪の中に埋もれてしまいました。でも大丈夫。彼女は声を出して笑いながら、コロコロと横向きに転がっています。


 クレイグが近付くと、その足音を察したのか、リズは仰向けのまま引き起こせと言わんばかりに手を伸ばしました。スラリと差し出されたそれは、あまりにも自然で、クレイグは胸が苦しくなりました。


 触れてしまいたい。


 けれどもそんなことは出来るはずもなく、クレイグはただ杖を差し出しました。リズは一瞬だけつまらなそうな顔をしましたが、立ち上がると、雪を払いながら再び笑いだしました。


「とても楽しかったわ」


「じゃあ、このまま走って、平原の端に着いたら暖を取りがてら夕飯にしよう」


 そうして二人は、長いこと雪の上で戯れました。



 陽が沈む頃、二人は再び木の茂る場所に入りました。宣言通りに火を起こし、それを囲んで食事を始めます。

 干し肉やら木の実やらを一通り食べ終えた後、クレイグは焚き火の下にあらかじめ埋めておいたユリ根を取り出し、その半分をリズに渡しました。


「今日収穫したユリ根だよ。熱いから気をつけてね」


 リズが恐る恐るそれを頬張ります。そして、真っ白な息を吐き出しながら顔をクシャクシャにして笑いました。


「美味しい。こんなに美味しい物を食べたのは初めてよ」


「本当は掘り起こしてから数カ月寝かせたほうが美味しいのだけれどね」


「数カ月先か……その頃のわたしはどうなっているかしら?」


 溜め息をつくように、リズは問いかけてきました。


「きっと多くの人に囲まれて、幸せになっていると思うよ」


 そう答えると、彼女は恥かしそうに俯きました。


「ねえ、クレイグ、わたしは今も幸せよ。もし村に閉じこもったままだったら、わたしは平原のフワフワも、ユリ根のホクホクも知ることが出来なかったもの。一緒にいてくれて本当にありがとう」


「うん、僕も幸せさ。本当に、本当に……」


 クレイグは空を見上げました。そこには綺麗に三つ並んだ星。それは南を示す目印で、そこから視線を落としていくとセンティアルドの街があります。

 まだハッキリと街の姿を確認できてはいませんが、塔の上で松明でも燃やしているのでしょうか、時折チラリチラリと揺れる光が見えます。

 おそらく、あと二日もすれば街に着くでしょう。


「クレイグ、急に黙ってどうしたの?」


「ん? ああ、星を見ていたんだ。とても綺麗だと思ってさ。リズにもこの輝きを是非とも見て欲しいって、そんなことを考えていたんだ」


「わたしは、星よりももっと見たいものがあるわ」


「星よりも見たいもの?」


「それはあなたよ、クレイグ。もしも、もしもよ、この目が光を手に入れることが出来たならば、何よりも先に恩人であるあなたの姿を見たいの。だからね、わたしの目が見えるようになるその瞬間まで、いいえ、見えてからも、わたしのそばにいて欲しいの。クレイグ、わたしの願いを叶えてくれないかしら」


「……分かった。そばにいるよ」


 クレイグは嘘をついてしまいました。


 クレイグは人々から恐れられている雪男。当然、街の中には入れません。街に辿り着くということは、同時にリズとの別れを意味しているのです。

 かと言って、正直にそのことを伝えてしまえば、リズは歩くことをやめてしまうかも知れないでしょう。


「クレイグ、わたしとずっと一緒にいてね。約束よ」


「ああ、約束さ。僕は……僕は……」


 喉の奥が染みるように痛くなって、目が潤みます。そして。


「……リズを一人になんかしないよ」


 言い切った時、瞳から大きな雪の結晶が落ちていきました。

 イーグワーデの雪男は、涙を零すことはなく、代わりに氷を落とすのです。


 クレイグの落とした雪の結晶は石ころにぶつかって、シャラン、シャランと、綺麗な音をたてて砕けました。


「クレイグ、今のは何の音?」


 尋ねられ、クレイグは慌てました。


「今のは……鈴の音だよ」


「鈴?」


「イーグワーデの森には妖精が住んでいてね、時折、祝福の鈴を鳴らすんだ」


 リズは微笑み、更に聞いてきました。


「一体、何を祝福してくれたのかしら」


「それはもちろん、君の温かな未来だよ。さあ、リズ、ご飯も食べ終えたし、今夜はもう眠ろうか」



 シャラン、シャラン、シャラン…………



 陽が昇り、陽が沈み、そしてまた陽が昇った時、リズは嬉しそうに言いました。


「ねえ、クレイグ聞いて。昨夜もまた祝福の鈴の音が聞こえてきたのよ。ひょっとしたらもうすぐ街に着くことへのお祝いかしらね」


「そうだね。そうだと思うよ」


 事実、センティアルドの街は目前に迫っていました。あと一つ小さな丘を越えれば、そこが森の切れ目であり、街の入り口でもあります。


 そして、とうとうその時がやって来ました。

 丘を登り切った所で木の影は薄れ、見下ろす位置に広大な街があったのです。


 あとは目の前の雪の斜面を降りるだけ。


「ねえ、リズ……」


 お別れだ。そう言おうとした時です。タンッ、タンッと破裂する音が鳴り、その音が遠くの山にこだまして、鳥達がバサバサと飛び立ちました。


 クレイグは大変な失敗をしてしまいました。リズのことばかりを考えていて警戒心が薄れていたために、人が近くにいたにもかかわらず気付くことが出来なかったのです。


 街の入り口の近くに、衛兵でしょうか猟師でしょうか、細長い鉄砲を持った男が、一、二、三人。明らかにクレイグの存在に気付いており、敵意をあらわにしています。

 リズを置いて逃げようかとも考えましたが、リズは銃声に怯えてガタガタと震えています。こんな状態の彼女を置いていく訳にもいきません。

 考えがまとまらず、ただ立ち尽くしていると、再び、タンッ、タンッと音が鳴って、その直後、右脚の太ももが燃えるように熱くなりました。


 男達が大きな声で言います。


「そこの女の子、今のうちに、その化け物から逃げるんだ!」


 同時にクレイグはその場に膝をつきました。


「クレイグ!」


 リズが叫びました。彼女は既に事態を把握しているのか、その身体の震えは止まり、しっかりとした足取りでクレイグに歩み寄ろうとしています。


 クレイグは男達に聞き取られないほどの声でリズに告げました。


「来ちゃ駄目だ。君は僕のことを忘れて、あの男達のもとへと歩くんだ」


 それでもリズはクレイグに更に近付きました。


「クレイグ、あなたは…………ねえ、一緒に森へ逃げましょう」


 そして、杖を投げ捨てて、小さな手を伸ばしました。


「駄目だよ、リズ。約束しただろ。僕に触れてはいけないって」


「それならば、わたしも約束したわ。ずっと一緒にいるって」


 手が更に近付いてきます。


「お願いだ、リズ。君のその細い指がこの身体に少しでも触れれば、たちまちのうちに僕はただの獣になり下がってしまうだろう。嫌なんだ。君の中では僕はずっと人の姿のままでありたい。だからお願いだリズ。その手を退いておくれ」


 シャラン、シャラン、シャラン…………


「クレイグ、わたしにとってあなたは誰よりも温かな人。たとえその身が獣であろうと、あなたへの気持ちが変わることはないわ。ほら、祝福の鈴が鳴っている。どうかこの手を握って、イーグワーデの森の奥深くへとわたしを連れていって」


 シャラン、シャラン、シャラン…………


「違うんだ。僕は泣くことも出来ない邪な存在で、この瞳から落ちる鈴は君を凍てつかせる氷の塊だ。君には普通の人であって欲しい。だから言うことを聞いておくれよリズ。僕の仲間だと思われたら君も街に入れなくなってしまうかも知れない。良いかい、僕に背を向けて、助けて、と叫びながら走るんだ」


 シャラン、シャラン、シャラン…………


「嫌よ。嫌よ、クレイグ!」


 リズは首を大きく横に振ってから、更に一歩前に進みました。もうその手はクレイグの目の前です。


 タンッ。再び破裂音が鳴り響き、クレイグの背後にある木に銃弾が突き刺さりました。男達は鉄砲をこちらに向けています。このままでは、下手をすれば流れ弾がリズに当たってしまうかも知れません。


 そこでクレイグは意を決しました。

 リズの手を叩くようにして振り払い、彼女のことを押したのです。


 リズが柔らかな雪の斜面を転がり落ちていきます。

 その姿を認めたクレイグは、目を見開き、牙を剥き、男達を威嚇するように空気が震えるほどの獣の咆哮をあげました。

 瞬間、タタタンッ、タタタンッと立て続けに銃声が響きました。


 シャラン、シャラン、シャラン…………



   ねえ、クレイグ、今も残っているわ

   たった一度だけ、ほんの一瞬だけ

   あなたがこの手に触れた時の温もりが



 街の北側の丘に現れた雪男は、少女を雪の斜面に突き落とすと、寿命が縮むかと思えるほどの恐ろしい咆哮をあげました。

 街の猟師達は揃って鉄砲を撃ちましたが、止めを刺すことは出来なかったのか、その死体が見つかることはありませんでした。

 雪男と共に行動をしていた少女は、目が見えていなかった上に、何も語ろうとはせず、結局、あの獣の目的は分からないまま時が過ぎていきました。


 ただ、その事件があって以降、不可解なことが起こるようになりました。

 イーグワーデの森から、時折、鈴の音が聞こえるようになったのです。




   イーグワーデの森に入ってはいけないよ

   そこには雪男がいる

   もし、入ってしまったのならば

   目を瞑ると良い

   きっと、鈴の音が助けてくれるでしょう


        ――リジー・A・ウィルソン


おわり

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